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    俺屍アンソロ百花繚乱提出

    ボーイ・ミーツ・ガール・イン・ヤケアト


     京が朱点童子なる鬼により灰塵に帰してから早幾年。一時はこのまま遷都、かつての都は鬼と墓ばかりの荒れ地になるかと思われたが、なかなかにして人とはしぶといもの。焼け野原に踏みとどまった者、踏みとどまるしかなかった者、鬼からからくも逃げ延びた者、物好きにも鬼を殺すため新しくやってきた者――様々な人が集まり、肩を寄せ合い、時には鬼そっちのけで対立し、京の町は少しずつ〝ヒトの住む土地〟としての姿を取り戻しつつあった。
     京の復興に貢献した者は多々居るが、なかでも特に名をひとつ挙げろと言われれば、かの一族になるだろう。
     彼らは最初、女一人と男一人、下働きの娘ひとりで鬼の跋扈する京へやってきた。母と息子と名乗っていたがどうみても姉弟、下手をすると男の方が年嵩に見える二人は武士たちが徒党を組んで乗り込む迷宮にふたりきりで潜り、鬼を殺し自分らは生きて戻ってきた。
     〝鬼切りの一族〟。
     鬼を殺し、鬼から奪った金品で新しい武具や薬を買い漁り、余った金を都の復興に惜しみなく投資する彼らが周囲からそう呼ばれる頃には、最初の女も男も姿を消して、別の人間が一族の姓を名乗っていた。
     血縁なのは誰の目にも明らかだった。かの一族の容姿は他人とはあまりにもかけ離れていたから。
    青や黄色、都人では到底見たことのない髪と目の色。湿った黒土のように濃い、或いは血管が透けるほどに薄い肌。そして、額に宿る揃いの珠。
     〝鬼切りの一族〟。
     気に入ったのか彼ら自身がそう名乗り始めた頃には、都の復興は一段階進み、彼らの家名を知る者は増え、一族の顔ぶれは再び入れ替わっていた。
     さて。
     今正に都の片隅をとぼとぼ歩く少年も、かの一族のひとりであった。藻深い沼めいた緑の髪と、黒土のように濃い色の肌。額の碧の珠。見る者が見れば一目で素性を知るだろう。そして首を傾げるであろう。
    〝鬼切りの一族〟といえば勇猛で知られた武家、それなのにあの子のしょぼくれた様子ときたら一体なんだろう――と。
     くしゅり。少年が鼻を鳴らす。真冬の寒風の中、ぐずぐずと鳴る鼻頭も単衣から覗く膝小僧も冷気に晒され赤くなっている。そして、それらより赤いのは、泣き腫らした目だった。緑の瞳を取り囲む白目の部分が真っ赤に充血している。
     ぐしゅり。少年が洟をすする。寒さが主要因ではないのは明白だった。
     正面から人の声が聞こえてきて、少年はびくりと顔を上げた。距離はまだ遠い。向こうからは少年の髪色もしかとは分からない位置にも関わらず、彼はおろおろと周囲を見渡し、すぐ傍の小道へと飛び込んだ。薄暗い細道を駆ける背後を、市に向かう商人たちの楽しげな笑い声が通り過ぎていった。
    「……はあ……」
     深い溜息をつき、少年は更に奥へと進む。何処を目指すわけでもない、頼りない足取りであった。整地など当然されていない地面がべしゃべしゃ音を立て草履に絡みつく。泥の冷たさに少年の眉がへの字を描く。それでも歩みは止まらず小さな足跡がぽつりぽつりと泥に残った。
     どのくらいを歩いたろうか。
     崩れた家屋、腐りかけの柱、随分前の煮炊き跡の焼け焦げの間を抜けると、不意にぽっかりと空いた広場に出た。広場、といっても少年の足で十歩もあれば横切れてしまう程度のまあるい空間で、突き当りのところに寂れた社があるだけのものだった。
     少年は抜き足差し足で社に近づく。鳥居千万宮のように鳥居があるわけでも、参道が整備されているわけでもない、本殿だけの簡素なつくり。その本殿もあちこち破れ傾いて、均衡を保っているのが不思議なくらいだ。
     おそるおそる扉に手を掛けると、予想以上に軽い力で開いて戸惑う。中を覗き込むと、屋根が半分ほど落ちて弱々しい陽が痛んだ床を照らしていた。しかし床の無事な部分は案外乾いていて、体重を預けても大丈夫なように思えた。
     少年は脱いだ草履を抱え社に入り、屋根のある部分に横になる。それで丁度陰のところに収まった。
     背を丸めた少年から寝息が聞こえてくるにはそう時間はかからなかった。

     真っ先に思い出すのはにおい。甘くて重い匂いと苦くて酸っぱい匂いが層を為す。自分よりずっと大きな身体に抱きつくと分厚い服の向こうがじんわり温かくなって鼻をつんと刺すにおいが強くなって、
    「やめておくんだなァ」
     白い、細い、乾いた手が抱き上げる。
     それが、好きだった。
     ほんとうに、好きだったのだ。

     人の気配を感じ一気に目が覚める。
     少年はうずくまったまま咄嗟に息を殺し、外の気配を伺う。入る時に閉めた扉は上手いこと目隠しの役目を果たしているらしい。
     外の誰かは社の前にしばらく居て、やがて何をするわけでもなく離れてゆく。
     床を鳴らさぬようそろりそろりと身を起こし扉の隙間から覗くと、小柄な後姿が見えた。白髪頭の老女だ。足が悪いのかよろめきながら歩いてゆく。
     何をしに来たのだろう――訝る少年が扉をほんの少し開けると、かたん、と何かにぶつかった。
     音の方を見遣る。
     社の縁に、皿がひとつ、供えてあった。老女はこれを置いていったのだろう。
     そして。最も重要なことに。
     皿には握り飯がひとつ収まっていた。
     ごくり、と少年は喉を鳴らす。無意識に押さえた手の下で腹がくうくう鳴る。握り飯はほんの二口で食べられそうな大きさで、茶色い米と黄色い粟がだんだら模様になっている。そんな質素な握り飯が、腹を空かせた少年にはこの上ない御馳走に見えた。
     手を伸ばす。
     社に、社に祀る神への供物に手をつけることに、若干の後ろめたさがないわけでもなかったが――くうくう――ダメだ、倫理では空腹に勝てない。
     少年は握り飯をそうっとすくい取り、ぽろぽろ崩れる粟を零さぬように静かに齧りついた。
     噛む。噛む。固い穀物を噛み続けると、じわあっ、と甘みが広がる。
     そこからもう我慢が効かなかった。大きく口を開け全部を頬張る。口の中いっぱいに糠くささとそれを上回る充足感とが満ち、喉を落ちる重量に胃がきゅうきゅうと喜んだ。へにゃり、と少年の顔が緩み、
    「あああああああああッ!」
     絶叫に、最後の飯が喉に詰まって視界が明滅した。咳と共に唾液まみれの塊を吐き出すことで事無きを得た少年に、
    「おまッ、おまえッ、おまええええッ!」
     真っ黒な影が正面から襲い掛かった。
    影は咄嗟に避けた少年の脇を掠め、扉に激突し、扉を巻き込んで社の中へと転がった。「いッてえええッ!」社がぐらぐら揺れる。あっ壊れるかも、と一瞬危惧するが、幸いにして倒壊には至らなかった。
    「あ、あの……」
     おそるおそる覗き込む少年を、
    「おまえッやりやがったなアッ!」
    「ひゃあッ!」
     真っ黒な影が怒鳴りつけた。
     影、と見えたのは薄汚れた小柄な人間だった。そして、少女だ。何時から身に着けているかも分からない擦り切れた襤褸をまとい、顔やら膝やらも黒ずんで元の色も分からない。甲高い声だけが年若い娘だと示している。大きな目が少年を睨み、むき出しの歯が少年に噛みつかんばかりに迫ってきた。
    「それは」
     年頃は少年とそう変わらないだろう。少女は精一杯のドスを効かせ、
    「おれの、メシだ――ッ!」
     鼓膜がびりびり震えるような大音声を叩きつけた。
     少年はぽかんとし、次いで粟粒のついた己れの手と、縁側に貼りつく米のひとかたまりとを交互に見、
    「こ、れ?」
    「そう言ってんだろ! ボケ! どんくさ!」
    「でも、社へのお供え物だったし、」
    「ボケ! この社はおれのモノ! 社の供え物もおれのモノ! わかんねえのかドアホウ!」
     怒りに任せた罵声を一旦止め、自称・社の持ち主は縁側に這いつくばる。視線の先には少年の吐き戻した米がある。
    「……うぐ、う」
     迷ったらしい。が、流石に無理と諦めたようだ。
     代わりに少年を睨みつけ、
    「返せ」
    「え」
    「え、じゃねえよ。ひとさまのものを奪(と)ったんだからな。返すか、代わりを寄越せ」
    「代わり……」少年は己が懐を叩いてみるが、当然ながら何も出ない。「ごめんなさい、今は何も」
    「着物だな」
    「えっ」
     戸惑う少年の単衣が無遠慮に引っ張られる。
    「ほつれもない、つぎもしっかりあててある、綿は……入ってねえのか、まあいいや」
    「え、え」
    「おまえ、どうせいいとこのヤツだろ? ガキのくせにこーんないいモノ着やがって、どうせ、イエに帰りゃあいくらでもあるだろ?」
     少年が慌てて身を引く。袖にはくっきりと手形が残っている。
    「だめだよ、着物がないと風邪ひいちゃうし……」
    「じゃあ、その草履を寄越せ」
     少年の肩が強張り、持っていた草履を慌てて抱え直す。少女はフフンと息を洩らし、
    「おまえ、〝鬼切りの一族〟だろ」
     緑の目が大きく見開かれる。「どうして」
    「京でそんなふざけたカッコウのヤツなんて、おまえらくらいだろ」汚れた顔の中、目が細められる。「えらい武家様がひとさまのものを奪るなんて、この、盗人(ぬすっと)」
     盗人、の一言は少年をいたく動揺させたらしい。「あ」しどろもどろになる腕から強引に草履が奪い取られる。
    「〝鬼切りの一族〟様が盗人なのは黙っておいてやるよ。草履ひとつで安いものだろ?」
    「でも、それは」
    「――あァ?」
     甲高い声が低くなる。
    「おまえ、メシを盗んだよな」
    「う」
    「盗んだうえに、着物で返すのもイヤだって言ったよな」
    「う、う」
    「あーあ、えらい武家様は貧乏人から盗むのかー、最悪だなー、京じゅうに言いふらしてやろうかなあー!」
    「う、うえっ、ひっぐ、ひっ」
     とうとう泣き出してしまった少年の肩を痩せた手が突き飛ばす。
    「おらッでてけよ! 盗人!」
     少年はよろめきながら縁側から降りる。裸の足に泥がはねた。
     走る背に嘲笑がかけられる。「じゃあなァ、えらい武家様! メシに利子付けて返すなら、草履は許してやってもいいぜえ!」
     ひとしきり笑ったあと、少女は舌打ちしながら外れた扉を拾いあげ、やがて辺りは再び静かになった。

     数日後のことだった。
     社の主を自称する少女が前夜の雨でぬかるむ道に木板を放り投げているところに、何時かの緑頭の誰かがやってきたのは。
     見覚えのある姿に、痩せた身体が大きく飛びすさる。
    「なんだよ」張り上げる声には震えが混じっている。「仕返しにでもきたか? 武家様もヒマなんだな」罵声の間にも視線はせわしなく少年の背後を伺う。大人がいないか。家の人間が馬鹿にされ、草履を脅し取られた仕返しに、棒でも持って来てやしないか。うなじの毛を逆立て警戒する。と。
    「足りる?」
    干し飯(いい)と干し芋の束が鼻先につきつけられる。
    「利子。返してくれる?」
     りし、と、オウム返したことで理解する。
    「おまえ、マジで持ってきたの」
     こくり。首肯が返る。
     はあ、と洩れたのは感嘆か呆れか。確かに草履はそうそう捨てたり取っ替えたりするものではないが、この量の食料と等価になるともいい難い。
     しかし。じいっと見つめてくる緑眼は真剣そのもので。
    「……わァったよ」
     履いていた草履を両方脱いで元の持ち主へと押しつける。替わりに食料の束をひったくり、少女は素早く下がる。鬼切りの一族はひとりに見えるが、警戒するに越したことはない。なにしろ、少女は正真正銘独りなのだ。
     警戒は杞憂に終わる。
     異相の少年は泥まみれの草履を大事に抱え、じっとしている。自身が汚れるのもお構いなしで、だ。
    「……」
     少女はかりかりと頬を掻き、
    「そんなにタイセツなものだったのかよ」
     ぶっきらぼうに尋ねる。
     少年はぱちぱち瞬きし。
    「かかさまの」
     草履を胸に抱き、答えた。「かかさまの、作ってくれた草履だから」
    「ふうん」対する少女は、わっかんねえな、とでも言いたげに首を振り、「じゃあ母ちゃんにまた作ってもらえばいいだろ。よっぽど怒られたのか?」
    「いない」
     遮るように、小さな声。が。
    「かかさま、もう、いないの」
     少年はそれきり口をつぐむ。少女も黙る。黙って、
    「おら」
     得たばかりの干し芋をひとつ、少年へと突き出した。
    「これじゃあ多すぎるんだよバカ」
    「……うう」
    「食えよ」
    「え」
    「いいから食えよ、ばか」
     社の縁側に座るよう促すと、少年はおずおずついてくる。少女よりもほんの少し背が低い。
     ふたり並んで干し芋を齧る間、どちらもずっと無言だった。食べ終わりになって「じゃあね」「おう」交わしたのが唯一の会話であった。
     なんとなく。
     アイツ、またきそうだな――少女は思い、干し芋を噛んだ。
     来そう、と思ったのは確かだが、翌日さっそく緑頭の子供が社の周りをうろうろしていたのは予想外であった。
     冬の日らしく冷え込む中、膝まるだしの格好で社を覗く少年へ、少女は防寒具兼寝具のむしろを被ったまま呆れた口調で声をかけた。
    「寒くねえのか」
    「? ううん」
    「マジかよ……バカはかぜひかねえって言うけどさあ……」
     ぶつぶつ呟く少女へ、不意に少年が顔を寄せる。少女がびくりと身を引くのにも構わず、緑色の目が真剣に光り、
    「風邪なの」
    「おれじゃねえよ、バカ」
     そこからなし崩しに会話が始まり。
    少女は少年の名が〝清秋(せいしゅう)〟ということを、少年は少女の名が〝ちよめ〟ということを、お互いに知ったのだった。

     それから清秋は毎日のように社を訪れ、ちよめは留守にしていない限り清秋の相手をするようになった。
     ちよめは最初、清秋を自分と同じくらいの年頃と見当をつけていたが、実はもっと下かもしれないと思うようになっていた。図体の割に口調や仕草が妙に幼いのだ。少なくとも、〝勇猛で鳴らす武家の子〟には見えないぽややんさだった。
     ちよめが指摘すると清秋は小首を傾げ、
    「京に下りたのがこの前だから」
    「いや京とか関係ないだろ」
     清秋は今度は反対側に首を傾げる。こりゃあダメだ、わかってねえ――ちよめは天を仰ぐ。薄らとした鉛雲が空全体を覆っていた。また雨になるかもしれない。飯を探しに行くのが難しい雨の日だが、清秋からせしめた干し芋と干し飯は随分な助けになる。
    「おまえ、京の外からきたのか」
    「うん。前はね、ととさまと住んでたの」
     曰く。清秋は以前父親と暮らしていたのを、母方の家である鬼切りの一族に引き取られたらしい。「父ちゃんは一緒じゃねえのか」「ととさまは、遠くに住んでいるから」もう会えない遠くに住んでいるから。そう答える清秋の顔は、悲しいとか、寂しいとかいうより、ぼんやりと色の抜けた風であった。
    ちよめは「ふうん」と呟き、はだかのつま先で石ころを蹴っ飛ばす。上手いことすくい上げた小石はぽおんと遠くへ飛んでいった。すごい、と、清秋が目を輝かせる。
    「ととさまもねえ、石を遠くまで投げられたの」先程までの顔は何処へやら、清秋はにこにこ笑い、「ちよめの話し方はね、ととさまに似てる」
    「おれみたいなムシュクニンにい? ウソだろ」
    「嘘じゃあないもの」
     力説する清秋は舌足らずながらも品の良さを滲ませ、ちよめは思わず疑いの目を向けてしまう。
    「……嘘じゃないもの……」
     大袈裟なくらいに萎れる清秋に、めんどくさいなあという気持ちと僅かばかりの罪悪感が湧く。
    「おれの父ちゃんはさ、」
     話を逸らしたくて口をついたのは、ちよめ本人も思ってもいない内容だった。
    「鬼に殺されたのさ。ナントカっていう武家様の槍持ちで鬼のすみかに行って、死んじまった。母ちゃんと弟もいたけど、流行病でどっちも死んじまった」
     だからちよめは独りきり、崩れた社をねぐらに生きている。
     隣の清秋はちよめの話を黙って聞いている。俯く視線の先には自身の足がある。素人くさい編みの、足にぴったりの大きさの草履が。清秋と会う前に死んだ彼の母が残していったもの。
    「なあ、いいものみせてやろうか」
     囁きかけると緑の目がちよめを見る。深い沼色の奥に一瞬炎の色が揺らぎ、ちよめをどきりとさせた。噂に聞く、鬼切りの一族。その奇妙な姿。
     目の前の少年は、親に会えない、唯の――自分と同じ、唯の親なし子であるのに。
    「ないしょにしろよ」
     ちよめが懐から取り出したのは布にくるんだなにかの欠片だった。小指の爪よりも小さなそれは、炭化し、欠けている。それが、二つ。
    「これ、おれの母ちゃんと弟」
     清秋の目が驚きにまるくなる。ちよめは「ないしょだからな」と繰り返し、
    「流行病だったから、むくろが焼かれちまってさ。でもそんなのかわいそうだろ。だから焼き場からとってきた」
     ちよめは二人分の遺骨を包み直し、大事に懐へ戻す。清秋が、母の遺した草履をそうしたように。
    「いつか、坊さんに念仏をやってもらうんだ。そしたら極楽へいけるだろ」
     清秋は。ちよめを笑わなかった。馬鹿にしなかった。気持ち悪い、と眉をひそめたりもしなかった。
    「ね」どれでもない顔を、清秋はちよめに寄せて、「ぼく、念仏を知ってる」
    「ホントか」
    「うん。ととさまが、かかさまが死んだときにあげてたの、聞いたの」
    「なんだよ、おまえの父ちゃんって坊さんだったのか」
    「違うけど、いろんなことを知ってるよ」
     そうして清秋は神妙な面持ちで両手を合わせ、
    「なむみょうほうれんげえきょう」
     ちよめも同じく神妙に手を合わせ、
    「なむみょうほうれんげえきょう」
    「……」
    「なむみょ」「ちょっと待て」
     念仏を遮る。「さっきからナンミョーホーレンゲーキョーしか言ってねえぞ」
     清秋は目をぱちくりとさせ、
    「念仏って、これじゃないの」
     ととさまはこうしてたよ――大真面目な清秋に、無言で天を仰ぐ。
     怒る気にならなかったのは呆れたからか。
     自分の家族の死を悼む人間を前にして、目からなにかが零れそうになったからか。多分、どちらかだった。

     清秋は足しげく社へ通い、ちよめもまた清秋を出迎えた。冬らしく冷え込みが厳しくなり、子供二人は壊れかけの、けれど壁でかろうじて寒風をしのげる社に潜り話をするのが日課になった。
    「おまえまァたケガしてるのか」
     左目のところに見事な青痣をこしらえて、清秋はえへへと照れ笑いした。笑いどころが全く分からない。ちよめは呆れるばかりだ。
     最初はひどい折檻でも受けているのかと驚いたが、清秋曰く「ただの訓練の怪我」「このくらい平気」なのだそうだ。確かに傷は二三日もすれば治っているし(治る頃には別の場所に新しいのをこしらえているが)、鬼切りの一族は皆そういう訓練をするのだと言われれば、口を出すのもおかしな話だ。
    「今日はねえ、剣の筋がいいって誉められたの」
    「ほめられてそれかよ」
     清秋はにこにこして頷き、「剣はね、ととさまに教えてもらったの」
    「だから頑張らないと」
     笑顔に僅かな陰りがある理由を、ちよめは知っている。
     どうやら清秋の父親は鬼切りの一族の内では評判が良くないらしい。清秋自身が邪険に扱われることは無いが、父を悪しざまに言われたことは、一度や二度ではないようだった。
     ちよめにはよく分からない。
     清秋の語る〝ととさま〟は、口があまり良くなくて、剣の扱いと投げ石に長けていて、清秋を育てて、もう会えないくらいに遠い土地に住んでいる。それだけ。悪く言われる筋合いは見当たらない。
    「武家様はわかんねえな」
    ちよめが言うと、清秋は眉を八の字に下げてしまった。悲しそうな様子に、家の人間のことも悪く言われたくはないのだと察し、ちよめはそれきり口を噤む。清秋はひたすらに訓練を続け、ちよめのところでだけ父の話をする。
    武家とはなにやら面倒くさい。

     社の中で話していると、外に人の気配がすることがあった。そうするとちよめは「しいッ」と人差し指を唇に当て、子供らは息を殺して外を伺う。
     外にいるのは、大抵足の悪い老女だった。彼女は打ち捨てられた社に小さな握り飯を供え、脚を引き引き帰ってゆく。彼女の背中が消えたのを確認し、ちよめはようよう社から出て握り飯を頬張るのだった。
    「どうして隠れるの?」
    「バカ。神様への供え物を、こんな汚いガキが盗ったなんて知ったら、もうこないだろ」
     罵倒の間にもぽろぽろ落ちる粟を拾っては口に運ぶ。ちよめには大事な飯の種だ。
    「でも、雨になると来ないんだよなあ」
     ちよめは溜息交じりに天を仰ぐ。つられて清秋も上を向く。晴れた空はぼんやりと白い。
    「足が悪いの、見たろ。雨や雪だと道が泥になって、ばあさんの足じゃ歩けねえからさ」
    「もしかして」清秋が思い出したかのように、「いつか、木の板を道に置いてたの、おばあさんが歩きやすいように?」
    「……ばあさんくらいしか、社に供え物、しねえんだよ。だからだよ」
    「うん」
    「フン」
     鼻を鳴らしたところで丁度握り飯を食い終わり、ちよめは指をしゃぶる。清秋に一口も分けなかったが、何、清秋には家がある。食うにも困っていないはずだった。果たして清秋は、
    「木板じゃあ直ぐに腐っちゃうね」
     その辺には一切触れず、別の問題点を指摘してきた。ちよめは渋い顔になる。
    「まあな。腐ったら取っ換えちゃいるが、板だって簡単に見つかるモノでもねえし……」
     特に今は冬、焚き付けにされていない木材を見つけるのは至難の業だ。子供ふたりは額を突き合わせ、
    「そうだ。石を敷こうよ」
    「石ィ?」
    「そう、石」
     清秋は自分の思いつきにうんうん頷き、「あのね、うちの庭の池のところに、石が敷いてあるの。池には水があるのに全然泥にならないんだよ」
    「石ねえ」ちよめが唸る。近所には河原がある。そこの砂利を運んで道に撒くのは、まあ可能だろう。「……道が良くなったら、ばあさんも供え物しにくるかな」
    「来るよ、きっと」
     真摯な返答。「よし」腹は決まった。
    「やったろうじゃねえか! そこのむしろを持ってこい、河原に行くぞ!」
    「うん!」
     二人は勇んで河原に向かう。
     冬の川べりは風が冷たく、橋も架かっていないため橋下に寝泊まりする者もおらず、寒々とした静けさが広がっている。
    「石か」
     ちよめが足元の砂利を踏み、口を尖らせる。
    「石を敷いたらごろごろして歩きにくいんじゃねえの。そりゃホンマツテントーってヤツだろ」
    「歩くところ用に大きな石を置こうよ。大きくて、平べったいの。うちではそうしてるよ」
    言って清秋は辺りを探し始める。ちよめも下を向いてうろうろする。砂利は大きくても握り拳程度が殆どで、大きいものは見当たらない。そうこうしていると清秋の方が先に「あった」声を上げた。
    「どこだどこだ」
    「川の中。あ、ちよめは来ちゃ駄目だからね」
    「は?」別に、冷たい流水なぞ入るつもりもなかったが、先に言われるとちょっと腹が立つ。「じゃあどうやって取るんだよ」
    「ぼくが取るから、ちよめは待ってて」
     返事より先に清秋はざぶざぶ川へ入ってしまう。ちよめも慌てて後を追おうとする。と。
    「駄目!」
     驚くくらいに大きな声が響いた。
    「風邪ひくから、駄目」
     驚いて硬直していたちよめだが、直ぐに我に返る。
    「おまえだってカゼひくぞ」
    「ぼくは平気なの」
    「は? ワケわからん」
     言い合う間に清秋は目当ての石をふたつも見つけ、両の手にひとつずつ取り川から上がる。袖がぐっしょり濡れている。ちよめは舌打ちし、袖を絞りまくり上げてやった。
    「ありがと」
     えへへと笑う頭は、ちよめと大体同じ位置にある。
    「落とすなよ」「うん」
     むしろに砂利を載せ、よたよたと運ぶちよめと。両脇に石を抱える清秋とは、その後もう一往復してから、続きは明日にしようと約束し別れたのだった。

     明日、と言ったのに、清秋は来なかった。
     ちよめはふてくされながらも河原から砂利を運び、道に敷く。大きな石は運べなかった。運べなかった、というか、自分で持ってみると存外に重くて清秋に丸投げしようと目論んでいたというか。
     とにかく清秋には会えず、ちよめが飯を探しに社を開けている最中に来た様子もなく、砂利の量だけが増えてゆく。水はけは多少良くなった気はするが、歩きやすさを考えるとやはり踏み石が必要だった。
    「ちぇ」
     ちよめは舌打ちし、屋根のある場所でむしろにくるまって丸くなる。冷え込みは、どんどん厳しくなっている。

     雨になった。
     焚き付けも、火種の当てもないみなし児は、崩れかけの社の中、濡れない位置に身をひそめ、身体をちいさく揺らし続けている。じっとしているよりは温かい、気が、する。白い息を吐きながら、ちよめは破れた天井から空を見上げる。灰の色。母と、弟の色。
    「さむ……」
     干し芋も干し飯も食べ尽くしてしまった。雨だから、老女は供え物を持ってこない。道が完成していれば供え物を持ってきただろうか。石は重くて、ちよめでは運べなかった。清秋はふたつも運べた。ちよめより小さいくせに。あれ、小さかったっけ。なんだか頭が回らない。しとしと降る雨に混じって、ざくざく耳鳴りまでするし。
     ざくざく。ごとごと――おかしなことに、耳鳴りは頭の中からではなく社の外から聞こえてくる。重い身体をどうにか持ち上げ、ちよめは社から顔を出す。
     薄暗い道に誰かがいた。
     雨の中、蓑を深く被り、地面に何かを置く誰か。その背中。
    「清秋?」
     呼びかけは静かな雨にかき消される。仕方なく、ちよめは外に出る。雨が冷たい。でも額に当たるのだけは冷たくて気持ちいい。ぐらぐら地面が揺れている。
    「清秋」
     もう一度呼びかけると蓑の奥の顔が慌てて此方を向いた。
     湿った緑の髪、沼色の目。額の、不思議な碧の珠。やっぱり清秋だった。大きくて平たい石を抱え、砂利を敷いた道に並べていた。なんだよ。呆れてしまう。
    「やるなら一声かけりゃいいのに」
     社に来なかった理由とか、その間なにをしていたのかとか、背中をやたら丸めているのはおれと同じで寒いからなのか、バカでもやっと寒さを感じるようになったのか、とか。聞きたいことは幾つもあった。けれど口から上手く出せなくて、浅黒い顔を見上げる。
    「てつだう、から」
     石を一緒に持ってやるよ。だって重いものな――踏み出した足がもつれる。重たい水音がしたと思ったら清秋が持っていた石を放り出した音だった。そう気づくことも出来ず、ちよめは清秋に抱えられる。「ちよめ」足に力が入らない。腹が減った。いや減っていない。むしろ喉までいっぱいで、今にも出てきそうなくらいで。「ちよめ、熱い……ッ」生暖かいものに包まれる。清秋の蓑だった。
    ぐったりするちよめを横抱きにし、清秋が物凄い速さで走り出す。小さすぎる草履が今にも千切れそうな様子でかろうじて足にくっついている。
    「死んじゃう、ちよめが死んじゃう」
     泣き言を耳のすぐ傍で聞きながら、昔誰かがこんな風に泣いてたな――ああ、そうだ、母ちゃんが死んだ日のおれだ――思い出したちよめの意識が、ことり、と落ちた。

     目が覚めてもちよめは生きていた。
     破れていない天井と己れの背の下にある畳にびっくりしていると、「あッ、お目覚めになりましたネ!」やたらと賑やかな娘がやってきて温かい湯でちよめの全身を拭き、継ぎを丁寧に当てた服を着せ、何やらとろりとして甘苦いものを匙で無理矢理食べさせて「まだ熱がありますから、もうちょっと横になりましょうね。起きたらお粥を持ってきますから」布団を被せてばたばたと出て行ってしまった。
     知らない部屋でちよめはびっくりし過ぎて口も聞けないでいる。
    火鉢には真っ赤な炭が入り、載せた鉄瓶から白い蒸気が立ち昇っていて、心地好さに再びうつらうつらとし始めた。

     次に起きたときには頭も随分とすっきりして、ちよめはようやっと、自分が高熱で寝込んでいたこと、この家は清秋の家、つまり鬼切りの一族の家で、あの雨の日に清秋が血相を変えてちよめを運び込んだことを知ったのだった。
    「清秋様のうろたえぶりときたらそりゃもう大変で、イツ花がちゃんと看病しますから!……って説得して。なんとか討伐隊に戻っていただいたんですヨ」
     イツ花という下女はよく喋った。粥をすするちよめには相槌を打つくらいしか出来ない。
     熱々の粥を呑み込み、ちよめは笑う。
    「あいつ、ずっと〝死んじゃう、死んじゃう〟って言ってたぜ。大袈裟だなあ」
    「……」何故か。イツ花が急にしんみりした表情になり、
    「清秋様のお母様は流行病の時期に亡くなりましたから。それを思い出したのかもしれません」
     粥を匙ですくう手が、止まる。
    「病でお亡くなりになったわけではないのですが、それでも、流行病がなければもう一月……清秋様がいらっしゃるまで永らえておいでだったかも」
     清秋を思い出す。
     風邪なの。風邪を引くよ。「死んじゃう」泣きながらの、声。
    「礼、言わなきゃ」
     匙を下ろしちよめは呟く。
    「助けてくれた礼。清秋は? いつ帰るんだ?」
    「……討伐に出たばかりなので、お戻りはまだ先です。
     そういえば、当主様がご挨拶したいと仰っていました。あとでお伺いしますネ。お代わりは如何です? 風邪にはよく食べて温かくして寝るのがイチバンですから!」
     まくしたてるイツ花に頷き返すのが精一杯で、〝当主様〟などという大層な相手に会う心構えなど出来なかった。が、世話になっている身、断れるはずがない。
     厳しい顔の筋骨隆々たる偉丈夫がやってきたときには仮病を使っておくべきだった、と後悔したが。
     淡い水色の髪を逆立て、側頭部をそり落とす、まるで鶏のトサカのような珍妙な頭の男が、一族の当主という話であった。
    「清秋がよくしてもらったと聞いた。身体の具合が良くなるまで気兼ねなく休んでゆくといい」
     そこまで言って、当主は困ったように顎を撫でる。「だから、そう畏まらずとも良いのだが……」
     とはいえ布団に這いつくばるように頭を下げるちよめだってそうそう簡単に姿勢を崩せない。まず顔が恐いし。
     それに。
    「あ、あの」
    「うむ?」
     言いたいことが、あった。
    「助けて、いただいて、失礼だけど、思い存じますけど」
     ぎゅっと丹田に力を入れる。震える声を喉から押し出す。
    「清秋の父ちゃんを悪く言わないでくださいッ」
     当主は驚いている。ちよめは必至で言い募る。
    「武家様のことはわかんないけど、清秋は、父ちゃんが好きなんです、悪口言われると悲しいんです。でも清秋は、家の人を悪く言いたくないって、だから、あの、おれが、その」
     しどろもどろになるちよめへ、「そうか」――厳つい外見に似合わぬ温かな「そうか」だった――「清秋が、そんなことを」
     深々と頭を下げられて、ちよめは息が止まるかと思った。
    「よく教えてくださった。感謝する」
     大人に頭を下げられたことなど一度もない。ちよめは目を白黒させるばかりだ。その様子に当主は少し笑い、
    「ちよめ殿は、行く当てはあるのかな」
     ふるふる首を横に振る。
    「ではその辺りも出来る限り取り計らおう。今は休んでおくといい」心配するな、と当主は言う。「清秋の友人だ、悪いようにはせぬよ」
     あ、はい、と思わず間の抜けた返事をしてしまう。
     友人、という単語に、胸がぎゅっとなったのがなんだかやたらと気恥ずかしかった。

     当主との会見後、ちよめはもう半刻ほど横になり、それからはイツ花の手伝いをして過ごした。イツ花は家の一切を一人で取り仕切っているとの話で、ちよめはびっくりしてしまう。家は大きいし、今は当主ともう一人――此方は整った顔立ちの気さくな男だったが、身体の調子が悪いとのことで余り話も出来なかった――だけだが、討伐隊が戻ってくれば人数は何倍にもなる。大変だ。
     というわけでちよめは数日ほどイツ花の手伝いをし、井戸から水を汲んだり掃除をしたりしている。この寒空の下追い出されるのが嫌だったのもある。暖かくなるまで置いてもらうわけにはいかないだろうか。打算を働かせるちよめをイツ花が呼んだのは、清秋が帰るより前だった。
    「ちよめさん、おふくさんがいらしてますよ」
    「……誰?」
    「えーっとォ、裏のおじいさんの娘さんの嫁入り先の三軒向こうの……とにかくお会いになってください!」
     よく分からないまま連れていかれた座敷には、見知った白髪頭があった。社に供え物をしていた老女だ。
    「ああ、本当に社の子だね」
     言われて驚く。ちよめが社に住み着いていたことを、おふくという老女は知っていた。
    「町内会で噂になったのさ。イツ花ちゃんとこで社の子が厄介になってるってね」おふくはずずいと膝を詰め、「あんた、私のところで働く気はないかい」
     突然の申し出にちよめは咄嗟には答えられない。おふくは構わず続ける。
    「ウチはまんじゅう屋で、私と娘夫婦とでやってるんだが、知っての通り私は足が悪くてね。下働きが欲しいと思ってたのさ。給金はチョッピリだが、寝床と、日に二度の飯なら用意してたれるよ。あのボロ社よりはましだろう。どうだい」
    「良かったですネ! おふくさんのお饅頭はとっても美味しいンですよ!」
     話の急展開にちよめは口をぽかんと開け、
    「どうして」
    「どうして?」おふくが聞き返す。
    「おれなんかムシュクニンなのに、どうして」雇う、と言ったり。社にいるのを知って、供え物をしたり。
    「そりゃあ、あんた」おふくは膝をさすりながら、「道に石だの木板だのを敷いたろう。私は足が悪いから、本当に助かったんだよ」
    それで。ちよめはおふくと一緒に行くことになった。
     身一つのちよめへ、イツ花が別れ際に「これを」草履を一組渡してきた。素人くさい編みの草履だった。
    「清秋様が、自分にはもう小さいから、ちよめさんに差し上げるようにと」
     母の形見を。
     草履をぎゅうと抱えてついてくるちよめを、おふくは「履けばいいのに」と訝っていた。ちよめだってそうするつもりだ。今日を過ぎたら。だから、今だけは。

     それからの日々はめまぐるしく過ぎていった。
     おふくの家は当人の言通り裕福ではなく、家屋も隙間風が入る安普請だが、寝床にはちよめの分のゴザがあり、飯は本当に一日に二度食べられた。子供のいない娘夫婦はちよめによくしてくれた。それでも、失敗したり、空腹に負けて商品をつまみ食いしてこっぴどく怒られたり、みなし児なことを思い出させられた日などには、あの社まで走っていって思う存分泣いた。
     春になって、鬼切りの一族の家で死人が出たのを知った。
    「娘がいるんだ」
     綺麗な顔をでれりと崩しながら笑った男がいた。居〝た〟。
     その後、町で一族らしき人間の姿を見かけることはあったが、緑の髪の、沼色の目の、浅黒い肌の少年は一度も見なかった。

     ちよめがおふくの元で働き始めて丁度一年後、半壊した社を再建する案が町内会で出て、賛成の手が多数挙がった。ついでに周囲の廃屋も壊して火除け地にすると。資金に関しては心配ないらしい。鬼切りの一族は京の復興に多額の貢献をしている。
     そういうことが決まった日、ちよめは社へ行った。
     社の屋根も扉も完全に落っこちて、無宿人の雨宿りにも足りない有様だった。中を覗くとむしろの切れっ端が床に貼りついていた。
     寒風に綿の入った襟を寄せながら社を眺めていると、背後で足音がした。振り向く。
     男がいた。
     背の高い、逞しい男だ、ちよめよりずっと年上に見える。男はちよめに軽く会釈し、ちよめも小さく頭を下げて、
    「草履、ありがとな」
     足をくいと上げる。不意打ちに男――清秋の顎が落ちるのを見、ちよめは小気味よく笑う。分からないとでも思ったのだろうか。図体が大きくなった程度で。そんな、他では見ない色の髪と、肌と、額の碧の珠と、沼色に茜の差す目をしておいて。
     清秋は二三度口を開閉し、
    「敵わんなあ」
     と笑った。ちよめも思わず吹き出す。敵わんなあ、だなんて。ついこの間まであんな舌っ足らずだった子供が。
     もう、子供ではないのだけれど。
     ちよめも知っている。鬼切りの一族は呪いのせいで急に大きくなり、早死にしてしまうのだと。
     清秋は、たった一年で、母親の形見の草履が履けなくなるどころか、大人になってしまった。染みつく微かな血の臭いは顔も覚えていない父を連想させる。
    「そうだ。おれの母ちゃんと弟、覚えてるか」
    「勿論」
    「そっか。あのな、秋に、念仏をあげてもらったぜ。母ちゃんと、弟と、それから父ちゃんにも」
     ささやかな給金をこつこつ貯めての供養だった。墓までは建てられなかったが、遺骨は供養塚に入れてもらった。「でさあ」
    「坊さんの念仏な、ほんとうに〝なむみょうほうれんげえきょう〟って言うんだな。他にも色々言ってたけど」
     おまえの父ちゃん、ほんとに物知りなんだな――ちよめの言葉に、清秋の目に赤色が瞬いて、
    「そうだな」
     ああ、こいつは大人になったのだな。もうむやみに泣いたり笑ったりしないのだな。ちよめは思う。それがいいのか悪いのか、ちよめにはまだ分からないのだけれど。
    「社に来るのは、おれ、今日で仕舞いにするぜ」
     唐突な宣言だったが、清秋は何故を問わず唯頷く。
    「だからさ、おれに会いたきゃおふくばあさんの店に来な。美味いまんじゅうを食わせてやっからよ」清秋は来るだろうか。来る時間は、清秋にあるだろうか。ちよめはこっそり拳を握る。爪が食い込むくらいに、強く。「だからさ」
     だから、の続きは確かにあった筈なのに、どこかに落としてしまったらしい。
     鬼切りの一族は短命らしい。
     たった二年の命らしい。
     まだ若く見えた「娘がいるんだ」嬉しそうに笑った男。見目に反して優しかった当主。清秋は幾つだろう。清秋の残り時間は幾月だろう。
    「今度、儂に子が出来る」
    「は?」
     脈絡のない台詞に今度はちよめが目を丸くする。子供? あと儂ってなんだ。年寄りか。
     清秋は真面目も真面目で、
    「まあまだ生まれてはおらんのだが。その子にも美味いまんじゅうを食わせてやってくれ」
    「……ああ、いいぜ。鬼退治の武家様に、とびっきりのまんじゅうを食わせてやらあ!」
     意気込むちよめへ清秋はからりと笑う。
     社の再建が来月から始まる。

     そうして再建された社は、太照天昼子とかいう神様を祀る立派なものになった。ついで、という言い方は何だか、一緒に建てた〝ちびっこ昼子像〟のお陰で周辺はちょっとした門前町になり人も増えた。
     今ではおふくばあさんのまんじゅう屋もその門前町にある。おふく自身は数年前に鬼籍に入り、今は屋号に残るだけだが、店は娘夫婦が切り盛りし繁盛している。
     ちよめは、おふくの娘夫婦の養子になった。子供のいない夫婦に是非にと望まれての決断だった。新しい両親と共に看板娘として働く日々は忙しなくも充実している。そろそろ婿を、と気の早いことを言ってくるのはちょっとどうかと思うけれど。
     とにかく。今日もちよめは張り切ってまんじゅうを売るのだった。
     賑わう店におずおずと入ってくる者がある。
    「あ、あの、まんじゅう、ください」
     ほっかむりをした小柄な客に、他の客の視線が集まる。中にはひそひそと囁き交わす者まである。丸い肩がちぢこまった。
     ほっかむりでも隠し切れない、額の碧の珠と、くるりと伸びるナマズ髭のせいだった。無遠慮な視線に、つぶらな瞳が下を向く。
     ちよめは。
    「いらっしゃい! まんじゅうですね!」
     店に響く大きな声で、とびっきりの笑顔を向けた。
     客はあわあわしていたが、やがて小さく「六つ」と告げる。
    「ありがとうございます! おかーさん、まんじゅう六つ!」
     はきはきした対応に安心したのか、固い表情がほんの少し緩んだように見えた。
     ちよめは考える。この子は清秋の孫だろうか。ひ孫だろうか。それとも別の人の孫やひ孫だろうか。鬼を倒す強い武家の子にちよめが出来ることなんて、そうそう無い。
    けれど。例えば。
    頑張れって心の中で思うくらいなら、ちょっとだけ態度に出すくらいなら別にいいんじゃないか、と。
     ほんの少しの手助けをして、あの日、あなたたちと同じ血を持つ人に助けられた恩返しをする――そういうのもアリなんじゃないか。そう、まるっこい手にまんじゅうを渡しながら、かつてみなし児だった娘は思うのだ。
    「ありがとうございました! ――またね!」
     あの日言い切れなかった言葉を紡ぎながら、そう。
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