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    俺屍うちのこ設定アンソロ投稿

    砂のお城は星の音


     珊瑚、というものを最初に教えてくれたのは父だった。
     名を持たぬ少年は父の有する領域から出た経験がなく、父の社と、川と林と岩山とが一揃いある小さな庭と、時間によって明るさを変える空が彼の世界全てだった。
     目の届かぬ場所にも、彼の手の届かぬ場所にも〝世界〟が在ると教えたのは、少年の父だった。
    「珊瑚、ってモンがあってよ」
     伸びる手足の痛みにしくしく泣く夜、父は血肉の抜けた手で息子の背をさすり、呟くように物語った。珊瑚、というものが海――とても広くて塩からい水溜りのことだ――に生えている。それらは死ぬと砂になる。真っ白な砂に。父の声を聞いていると不思議と痛みが和らいだ。
     珊瑚は木に似ているという。珊瑚の枝は赤や、白や、桃色や紅色をしていて、触るとつやつやと滑らかだという。父の手のような触り心地なのか、と尋ねると、父は目蓋のない眼をしばたかせ「お前はおかしなことを言うなァ」と嘆息した。少年は父の手を握る。冷たくてさらさら乾いた白い骨の手。
    「お前、俺の手が好きらしいな」
     はい、と答える。呟きが返る。「誰に似たのかねェ」父ではないのだろう。父は、自身のことが――少なくとも肉腐り落ち骨を晒す自身の姿は――あまり好きではないらしかった。
     少年は、父が。大江ノ捨丸という名の神が、その容姿も含めて好きだったので、意見が合わないのは少しだけ残念だなと思った。
     濃い緑の髪と緑の目、すぐに血の気が昇ってしまう桃色の肌をした少年は〝種絶〟と〝短命〟の呪いを負っても尚生き生きとしていて、死人そのものの姿をした父とは全く違っていた。骨の手が熱っぽい関節を撫でる。骨の手の下で血肉がみしみしと成長してゆく。伸びる。伸びる。海の底で枝を伸ばす珊瑚のように。「珊瑚はいろんな色があるんだとさ」赤、白、桃色、紅色。赤は朝焼け空の色、白は父の手の色、桃色は少年の頬の色、紅は擦りむいた膝から流れた色。「けどよ。死ぬとみな白くなっちまう」真っ白な砂に。「不思議よなァ」軋むような笑い声。骨ばかりの父の手が闇にぼんやり浮かんでいる。少年は痛みと眠気の間でうつらうつらし始める。骨の手。骨の顔。がらんどうの頭蓋に浮かぶ金色の眼。死ねば誰も骨になる。見分けのつかぬ骨になる。白い砂の夢を見る。みなが行きつく先に在る、白い白い砂の夢を。

     成長痛が落ち着いた頃、父の社に来客があった。少年が自我を持って初めての出来事だった。それだけでも珍しいのに、更に少年を驚かせたのは来客の容姿だった。
     少年と同じように血肉を備えた女だった。自分と父と社付きの侍女(但し彼女たちは大江ノ捨丸とその子の生活を維持する目的から発生した実体を持つ影法師なので、社の備品扱いとなっている)が知る全ての少年にとって、それは初めての〝自分と同じもの〟であった。
     女は父と何事かを話し、一区切りついたところで少年に向き直る。少年と同じ緑の目が弧を描く。
    「あんたがわたしのこか」
     初めて聞く声は父のそれより高く、父のそれより丸い。
    「ほんとだおとこのこだ。うちにおとこなんてなん年ぶりだろ? イツ花にふんどしを用意させなきゃ。男じゃ腰巻は履かないよねえ」
     耳慣れない音が意味を結ぶ。唇が横に広がり歯が覗く。声だけでなく顔の肉をも使った表情。
    「はじめまして」
     女の額には碧の珠。父と社と庭と空だけが世界の少年もその存在を知っている。
    呪いの証。〝種絶〟と〝短命〟の宿業を示す、人に似てヒトにあらざる一族の証。少年の額に在るのと同じもの。
    「私、あんたの母親です」
     ひらめかせる左手に白い指輪が光った。石とも骨とも異なる光沢に少年は目を奪われる。
    「あと一族の当主。だから呼ぶときは〝当主〟でいいし、かたっ苦しいのが苦手なら〝姉さん〟でもいいよ」
     かちり。隣で微かな骨鳴りが響く。父が奇妙に苦い顔で女を見ている。「〝姉さん〟とはな」
    「だって私はこの子の〝姉〟だもの」
     ごく当たり前のように告げられた言葉に、少年は質問を投げる。つまり、あなたは私の〝母〟と〝姉〟と、どちらなのですか、と。答えは「どちらも」だった。
    「あんたは私とお父様の子だから、私とあんたは母子(おやこ)。
    私もあんたもお父様の子だから、私とあんたは姉弟(きょうだい)」
     つまりそういうこと。生まれて間もない少年には難しい理屈だ。が二三度咀嚼し呑み込んでしまえばすとんと腑に落ちる。彼女は少年の母かつ姉というだけの話だった。父から細い息が洩れる。女は微笑んでいる。
    「今日はお父様にあんたの妹を貰いに来たの」
     しばらく宜しくねと言われ、少年は頷いた。
     それから三日ほど少年は父と別の寝所で過ごし、四日目の朝に女は帰っていった。よろしく、と言った割には慌ただしい別れで、少年は肩透かしを食らった気持ちだった。
    代わりに、というわけでもないだろうが、女は別れ際に紫色の珠を残していった。
    「それが妹になるから。面倒を見てやって」
    中を覗くと小魚の影が泳いでいる。これが人の形に成り最後は殻を割って出てくるらしい。本当かと父に問えば、「俺の子は皆そうやって生まれてきた」との返答だった。無論少年もそうやって生まれてきたのだと。
    珠は少年の手で握れる程度の大きさだ。これが人になるとはにわかには信じ難い。が、世の中がそうであるのならそうなのだろう。少年は受け入れて、珠を祭る祭壇前で日毎珊瑚の話をする。父の真似事だ。妹は大きくなった珠の中でゆらゆら泳いでいる。胴体に短い手足が生えた。少年が珠の表面をなぞれば不格好な手が内側からついてくる。珠の中には海がある。珊瑚は海で育つ。ゆらゆらゆらゆら枝を伸ばす。光さす水面へ向けて。

     少年の背が父の肩に届いた日が、彼が地上に下りる日となった。妹はまだ珠の中で、赤ん坊のかたちで丸くなっている。顔を見たいのは山々だが後日におあずけだ。
    「お前はずっとそうだったなァ」迎えの下女に手を引かれおとなしく挨拶する少年に、何故か父は濁った目を瞬かせる。「……向こうではお前の好きなようにしろよ」お前、をやたらと強調する言い回しだった。少年は素直に頷く。何時も通りに。
     少年は自分の生まれを知っている。〝種絶〟と〝短命〟の呪いに縛られ神以外と子を成せず二年と経たずに死んでしまう、朱点童子を倒した後も呪われたままで延々と血を繋ぎ続ける、自分の一族を知っている。二年の命は何かを成すには短いことも。知識としては。知識としてだけ。
     地上でどう生きるか、など。まだ生まれてもいない少年に決められるわけもない。
     だから。「あ」地上の屋敷に到着した少年が声を発したのは全く無関係な理由からであった。
    「どうかしましたか」
     忘れ物でもしましたか、と慌てて顔を覗き込む下女を、少年はしょんぼりと見上げる。
    「妹に珊瑚の話をしてと、お父様に頼むのを忘れました」
     妹は珊瑚が好きなのに――私とおんなじで――「お父様は知らないから、話をしてくれないかも」
     心配する少年に下女は目を丸くし、
    「大丈夫ですよォ!」
     次いでにっこり笑う。
    「あとでイツ花がチョイと行ってお伝えしますから、安心してお過ごしください」
     さあさあと手を引かれ通されたのは屋敷の一室で、金箔と黒漆の欄間は父の社に似ていて緊張が少しほぐれる。
    「当主様のお部屋ですよ」
    教えるイツ花が呼び掛けて、中に居た女が振り向いた。母だった。「よく来ました」母は少年を手招きし検分し、
    少年と同じ緑の目を細め「虎彦」ひとつの名を告げた。
    「あんたの名前だ。虎彦。あんたは此処では〝虎彦〟だ。職は……薙刀でいいか。イツ花、装束を仕立ててやって」
    「分ッかりました!」
     それから少年改め虎彦の部屋をどうするか、訓練は誰に任せるか等々が、当人の頭越しに決まってゆく。最後に「分かんないことはある?」と聞かれ、
    「とら、とは何ですか」
     そんな質問をされると思っていなかったのか母もイツ花も一瞬きょとんとし、
    「虎っていうのはアレ、黄黒天吠丸みたいな生き物」
     神の一柱を例に出して説明する。しかし虎彦は更に首を傾げる。天界では父の社のみで生活していた身だ、他の神の姿を彼は全くと言っていいくらいに知らない。母はむむと唸り、とイツ花が「そうだ」と手を叩く。
    「蔵に珍しい生き物のことを書いた本があったはずです。虎彦様にお見せしてはいかがですか?」
    「ああ、そういえばあったね。そんなの。蔵にあるものは好きに使っていいよ」
    「だそうですよ。良かったですね」
     頷く虎彦にイツ花は「せっかくだし、虎彦様のお好きな珊瑚の本も探しましょうね」と続ける。身を乗り出す虎彦を母は緑の目で眺め、
    「ま、好きにお過ごしよ」
     父と同じことを言うのだな、と思った。

     好きに過ごすよう言われて、地上で初めての一月を虎彦は相当に好きに過ごした。訓練指南役の十和子が放任主義なのも原因だろう。
     十和子も虎彦と父を同じくする〝姉〟で、心根には特に風の性が出ていて、毎日ふらりと何処かへ行ってしまう。訓練もへったくれもあったものではない。
    「格別教えることもないしねえ」
     草色の髪を指でくるくる弄りながら十和子はうそぶく。「私も戦に出ることはないし、術の技量は虎彦君と五十歩百歩よ?」当主たる母も母で二度ほど虎彦と十和子を呼び出したきりであとは放ったらかしだ。
    興味云々というより単純に忙しいのだ。虎彦と十和子の他の一族は討伐に出ている。この一族では実に二年ぶりの出陣なのだそうだ。
    「二年の間なにをしていたのですか」
    「遊んでたねえ」
    「遊んでいた」
     十和子の説明に虎彦は目を丸くするばかりだ。天界で教えられたのとは随分と様子が違う。
    「奉納点も金もあったし、ならわざわざ戦いに出る必要もないでしょ」
    「そういうものですか」
    「そういうものよ」
    奉納点は必要だ。父たる大江ノ捨丸の天界での序列は第七位、奉納点もそれなりの量を要求する。金銭も必要だ。人ならざる一族とて地上では生活の為金銭が要る。だが、それらが充分にあったとしたら、持つ以上を求める必要があるだろうか。
     無い、だろう。
     そして、それ以外の。鬼を殺す理由は。
    「別にねえ、朱点童子は倒しているし、鬼に落とされた神も全員天界に送り返してるし、普通の鬼は昼子様が裏京都(ここ)に封じて人に悪さをしないようにしているし。今みたいに奉納点が心もとなくならなきゃ皆して遊んでていいのよ」
     虎彦と十和子に関しては奉納点が枯渇した今に至っても留守番だ。十和子はそれで良いと言う。言って、ふらりと遊びに出かけてしまう。
    残された虎彦は蔵に潜って本を読んだり蔵に仕舞われていた絵筆を引っ張り出して自分でも描いてみたり、時々はイツ花の手伝いをして日々を過ごす。そんな生活でも幾つかの術は自然と使えるようになった。イツ花が大層誉めてくれて、十和子も「やるじゃない」と感心した。
    母も誉めてくれるだろうか。
     虎彦は母たち討伐隊の帰還を指折り数えて待つ。覚えた術と、話したいことと、珊瑚の絵は日毎に増えてゆく。

     十日間の討伐から母たちが帰還した。
     最初の日は、疲労困憊の様子の母を気遣い挨拶だけして前を辞した。母は他の姉と同様に食事もそこそこに布団に倒れていた。
     次の日、戦利品の整理で忙しい母に遠慮し一人絵を描いて過ごした。イツ花が作りたての干し芋のつまみ食いを見逃してくれた。
     月終わりになっても母は忙しい。来月には妹が天界からやってくるので準備が必要なのだそうだ。踊り屋の奥義を伝授しなければならないのだと。
     虎彦が蔵でひとり本を広げていると、十和子がふらりと顔を出した。
    「虎彦君」ちょちょいと手招きされ何事かと寄れば、遊びにおいでよと誘われる。「客が来るの。虎彦君もおいで。お菓子があるよ」
     齢一ヶ月足らずの子供に相応しく虎彦も菓子は好きだ。十和子について客間に赴く。
     客間には男がいた。一族では見たことのないくらい齢を取っている。身奇麗で、十和子の姿を認めると丁寧に頭を下げた。十和子が個人的に付き合っている商人だと紹介される。イツ花謹製の白湯と菓子を肴に、大人たちは和やかに天気や新しく仕入れた商品の話をする。
     虎彦は甘く口の中でほろほろ解ける菓子を齧りながら場を眺める。虎彦は無いもののように扱われているが、特に腹も立たない。菓子は甘く、白湯の温度は丁度好い。
    「弟が」だから。十和子が自分を引き合いに出したとき、咄嗟に反応し損ねたのも仕方がない。「珊瑚が好きなの。珊瑚とか海とかを描いた本はある?」
     虎彦は十和子を見つめる。十和子の横顔は何時も通りののったりしたものだ。
    「珊瑚ですか」
     商人は本、本ねえ、と呟き、
    「珊瑚でしょう。本よりも細工物や飾り物の方が手に入りやすいと思いますよ。ああ、ちょうど堺に腕のいい職人を見つけまして」
     商売っ気に満ち満ちた語りかけを十和子はのんびり受け流している。虎彦は十和子を見つめる。視線に気づいて、十和子が虎彦を見返す。
    「術をたくさん覚えたからねえ」
     お祝い。そう十和子は言った。「本を仕入れて貰って、届いたら虎彦君にあげるよ」
     ありがとうございます。たった一言がもつれていたのは我が事ながら不思議な話であった。
     十和子が息を引き取ったのは月が替わる前日であった。弔問客がぽつぽつと屋敷を訪れて、これは一族では珍しいことだとイツ花は語る。
    「十和子様は町にもお知り合いが大勢いらっしゃいましたから」
     イツ花が弔問客の応対に追われる間、虎彦は蔵にこもり昔誰かのものだった絵筆と顔料を用いて絵を描く。珊瑚の絵。海の底でゆらめく、赤や白や桃色や紅色。きっと緑の珊瑚もある。十和子の髪と同じ、緑の珊瑚も。緑の顔料を紙に載せる。緑は白い砂になる。荼毘に付された十和子と同じ、白い、さらさら零れる、砂に。

     虎彦の妹は虎彦によく似ているらしい。緑の髪と緑の目と、直ぐに血の気の昇る肌。虎彦様にそっくりですよ、ご兄妹ですモンネ!と笑ったのはイツ花だった。
     どうだろう、と、虎彦は思う。まだ彼女と少ししか顔を合わせていない。似ているかどうか分からない。妹と母は訓練にかかりきりで、偶に家の中ですれ違うくらいだ。
     妹と母はそんな風で、他の姉たちは親王鎮魂墓へ討伐に出ている。イツ花は普段通り家事を切り盛りし、虎彦だけが取り残されている。
     蔵の明り取りの窓の下で絵を描く。反故紙に薄墨で線を引き、乾いたらもう一度塗り重ねて濃淡をつける。顔料はもう残り少ない。前の持ち主は何を描いていたのだろう。
     思案に耽る虎彦を呼ぶ声がした。イツ花だった。
    「虎彦様、やっぱり蔵にいらっしゃったんですね。菖蒲屋の吾平さんがいらしてますヨ……吾平さん、覚えてらっしゃいますか?」
    「うん。十和子姉さんと会った」
    「ええ、その方です。なんでも、十和子様が亡くなる前にお頼みになった品を届けにいらっしゃったとか。お会いになれますか?」
    「いいよ」
     菖蒲屋吾平は前と同じ客間にいて、入室した虎彦に対し神妙に頭を下げた。
    「このたびはお悔やみ申し上げます」
     吾平の態度は子供相手にも丁寧で、それは彼自身の気質が三割、十和子への弔意が三割、残りが十和子がイツ花に預けていった代金からだった。吾平は一族の呪いについてある程度把握していて、十和子の死因も虎彦の背が前より十寸は伸びたことも殊更に聞き立てようとしない。
    「こちらが十和子さんに頼まれていた品です」
    「……あの」差し出される桐箱を前に、虎彦は疑問を口にする。「何故、私に? 当主ではなく?」
     ああ、それは――「十和子さんが貴方に差し上げるものだと仰っていたからですよ」
     箱を開ける。
     中には絵筆が数本と、貝殻に入った顔料が幾つか。いずれも新しい。
    「これを、」
     十和子が。姉が。「ええ」よく磨かれた貝を手に取る。艶めく緑が貝の内にとろとろ輝く。玉虫色の紅は最高級の品だ。「珊瑚の絵を描かれるので、紅は特に良いものを、と」
     ぽろり。虎彦の目から涙が零れる。虎彦はうろたえる。ぽろり。ぽろり。涙が貝に落ちて溶けた緑は紅へと滲む。鮮やかな色彩。止まらない。止められない。
    「イツ花ちゃんを呼びましょうか」
     穏やかな言葉に必死で頷く。嗚咽が漏れる。
     嗚咽は、虎彦自身には、十和子姉さん、と聞こえた。

     吾平の見送りをイツ花に任せ、虎彦は蔵に戻る。胸には桐箱を抱える。十和子からの最後の、唯一の贈り物。
     その足が止まる。蔵の前に誰かが居る。誰か、虎彦よりも小さな背中。ふわふわの緑髪を桃色の飾り布でまとめた幼い少女。
     十和子と最初に会った日を思い出す。先に声を掛けたのは十和子だった。あの、風にそよぐ草のようなやわらかな口調で名乗ったのが最初だった。虎彦は、自分では気づかなかったけれど、きっと振り向いた少女のように不安げな顔をしていた。
    「お父様は珊瑚の話をしてくれた?」
     少女――妹は、虎彦を見つめ。「たくさん」
    「たくさんしてくれたよ。兄様みたいに」
     そう、と嬉しくなる。父が気にかけてくれたことが。妹が覚えていたことが。
    「私は此処で虎彦の名前を貰ったよ」
    「わたしには結花(ゆいか)を」
    「そう。ねえ、結花、珊瑚の絵を一緒に見る?」
    結花が頷く。
     この日。虎彦に妹が出来た。

     初めてできた妹は虎彦のうしろを付いて回る。寝物語がないと眠れないと甘え、訓練の合間に蔵へ顔を出し、虎彦が絵を描くのを興味深そうに眺める。「結花も描く?」と尋ねれば「わたしはいい」と返った。
    「退屈ではないの」
    「楽しいよ」
    「ならいいのだけれど」
    「うん」
     結花が本当ににこにこしているので、虎彦も気にしないことにしてひたすら珊瑚の絵を描く。真新しかった絵筆は連日使い込んで虎彦の手に馴染んでいた。
    「これも珊瑚の絵?」
    描きかけの絵を指しての問いに「そうだよ」と答える。結花はじいっと絵を見つめ、
    「なんだか竹みたい」
     くすくす笑いながらの指摘に「竹かあ」虎彦も苦笑いする。虎彦の珊瑚の知識は唐渡りの本(ただし家にあるのは写本だ)が一冊きりと、父から聞いた物語だけだ。想像で補うものだから、虎彦の描く珊瑚はどこか曖昧だ。
    「わたしは兄様の珊瑚、好きよ」
     おしゃまな妹の慰めに苦笑はますます深くなる。不甲斐無い兄であった。
    「まあいいや。ここまでにしよう」
     今日は菖蒲屋吾平と会う約束がある。吾平は虎彦を次の客と定めたらしくここ二ヶ月で計三回訪ねてきた。今日は四回目だ。新しい筆や顔料を薦められるのだが、十和子の形見ぶんだけで足りているので一度も買ったことはない。それもどうかと悩んでいたら、イツ花が「吾平さんも分かってていらしてるんですから、虎彦様も要らないなら要らないとはっきり仰っていいんですよ」などと力説するので気にしないことにした。
    「兄様がいないならわたしも戻ろっと」
     結花がよいしょと背伸びする。組んだ手は痛々しいような包帯が巻かれている。奥義伝授の訓練は厳しい。
    「兄様、またね」
    「うん、またおいで」
     妹は嬉しそうに笑い母屋へ帰っていった。
     彼女の初陣は数日後に迫っている。母含め姉たちが同行するとはいえ、訓練を怠るわけにはいかない。出陣しない虎彦と違って。
     蔵から出ると、むわりと春の匂いがした。
     吾平の来訪は刻限通りだった。虎彦は前回来訪時と同じように白湯をすすり、イツ花の用意した菓子を齧り、吾平が商品を薦めてくるのをのらりくらりと躱す。
     予定だったのだが、吾平が「描いた絵を見たい」と言い出したことで雲行きが変わる。
    「絵を、ですか? 私の?」
    「差し支えなければ是非」
    「はあ」思わず間抜けた返事をしてしまう。絵を見たい。そんなことを言われたのは初めてだったし、言われるとも思わなかった。
    「ええと、少しお待ちいただければ持ってきます」
     吾平が了承したので席を立ち、蔵から絵を取ってくる。戻る間、虎彦はずっと首を傾げていた。唯の、自分が描いた絵だ。見たがる理由は何だろう。
     分からないままいくつかの絵を吾平の前に広げる。全て珊瑚の絵。
     吾平は「拝見します」言って絵を手に取り。
    「ふむ」「……ふむ」「ううむ」
    「……あの?」話相手の唸り声は不安を呼ぶものだ。眉根を寄せる虎彦に、唸るのを止めた吾平が向き直る。
    「今日はね、表装を売りつけようと思っていたんです」
    「はあ」
     売りつけ、とはまた露悪的な物言いであった。
    「素人の道楽をたっぷり楽しませて、お代をいただくのがあたしの生業ですからね。だがこいつは良い。良い絵だ。どうです虎彦さん。この絵、預からせちゃくれませんか」
     神妙な、真剣な面持ち。押されて思わす了承する。吾平は絵から二枚を取り分け、取り出した風呂敷で丁寧にくるんで持ち帰っていった。
     嵐が過ぎた心地だった。
     冷めた白湯をぼんやり啜っていると「兄様」引き戸の向こうから結花が顔を出す。訓練中らしく脚も露わな踊り屋装束を身に着けている。
    「お客さんは帰ったの」言って、床に残る絵を見、ぴたりと動きを止める。
    「兄様の絵、どうしたの」
    「これかい。菖蒲屋の吾平さんが欲しいと言ってね」
     静寂。「それで、あげたの」
    「うん……私の絵を欲しがるなんて、外には変わった人がいるね」
    「ふううううん」何故か不機嫌そのものの唸りが響く。
     結花は、見たことのないような、とてもご機嫌斜めの顔をしていた。
    「何だい、その顔」
    「別に! 訓練の途中だから!」
     妹はぷいとそっぽを向き行ってしまう。残された虎彦は手の中の茶碗を眺める。白湯に自分の顔が映る。頬が赤く緩んでいる。
    絵が欲しいと言われたのは初めてだった。

     結局。結花が不機嫌だったのはその日だけで翌日からは何時も通りだったので、虎彦も忘れることにした。突っ込んで話す暇がなかったのもある。
     結花は初陣に出た。一族最年長の夕月との入れ替えで、母をはじめ三人の姉と共に地獄巡りを行ってきた。
     地獄への入り口は都のすぐ近くだ。討伐隊は七日で全員無事に帰ってきた――のだが、四人の疲労困憊具合は前回の討伐の比ではなかった。
     母は帰ってすぐに布団に倒れたかと思うと二日は起きてこなかったし、姉のひとりの浮舟はイツ花の作った葛湯に無言で塩と糖蜜をぶちこんで飲み干したかと思うとやはり二日起きてこなかったし、もうひとりの姉のこずえは「次の討伐に迎えを寄越して」と言い置いて妓楼に籠城中だ。一度着替えと遊び代を届けにいったところ、店の芸子に「弟さんにあれは見せられないねえ」と苦笑いされてしまった。元気にはしているらしい。
     結花は。虎彦の妹はといえば――理由は不明だが虎彦にべったりだ。昼は蔵に、夜は虎彦の自室に入り浸り、食事でも寝るときも――さすがに風呂は別だが――一緒にいたがる。一月前よりも余程幼い。
     幼いのに。結花は、時折ひどく大人びた様子を見せる。まるでいっぺんに一年も老いたようだと虎彦は思う。討伐先で何があったのか、訊けばわかるだろうか。分かるかもしれない。分からないかもしれない。一度も戦に出たことのない虎彦では、何も解らないかもしれない。
     姉と妹が鬼を殺す間、虎彦は絵を描いて過ごした。画材を買い足して、虎彦の描く珊瑚は色鮮やかさを増す。結花は兄の隣で絵を眺めている。大体は無言で、偶に「兄様の珊瑚は梅みたいね」などと言う。
    「花の咲く珊瑚もあるそうだよ」
     吾平が新しく持ってきた本にはそう書いてある。
     本の代金を、吾平は受け取らなかった。どころか金子を差し出された。虎彦が困惑していると「絵がね、いい値で売れましたよ」と。それはそれは嬉しそうに報告された。虎彦の珊瑚の絵は好事家の商人に引き取られ、金子は虎彦の取り分だと言う。ちなみにその金子は画材で右から左に消えた。
    「それでね、吾平が次は美人画を描かないか、だって」
     花咲く珊瑚に紅色を載せていると、結花が顔を上げた。
    「兄様、女の人を描くの?」
    「ううん」虎彦は首を横に振る。視線は珊瑚の上で、隣の結花がどんな顔をしているのかは見なかった。
    「知らない人を描く気にはなれないし。それに人を描いたことはないからきっと下手だろうしね」
    「なら」
     結花が兄の肩に顎を載せて呟く。声が近い。
    「わたしを描いたら」
    「結花を?」筆を止める。「きっと下手だよ」
    「いいよ。練習台になってあげる」
    ふわふわの髪先が鼻をくすぐる。視界の端に揺れる桃色は髪飾りの端っこだ。てのひらに収まる小ささだった妹は今や虎彦と同じくらいの背丈だった。
    「ああ――なら、人を描くのもいいかもね」
     結花は愛らしい娘だ。虎彦の腕でもきっと良い絵になるだろう。肩の熱が背中に移る。背後から妹の声がする。
    「次は大江山に登るって」
     討伐の話らしい。
     七日の地獄巡りで妹は戦を知らない虎彦にも感じられるくらい強くなった。まるで一年も二年も戦い続けた歴戦の勇士の如く。
    「大江山に登って、太照天昼子様と戦うんだって」
    「うん」虎彦は少し考え、「怪我には気をつけて」正しい言葉掛けではなかったかな、と反省する。
    妹は兄を咎めはしなかった。
    「裏京都は昼子様の作った世界だって。兄様知ってた?」
     ぎゅうっと妹の額が押し付けられる。
    「わたしたちの一族が朱点童子を倒して、残った鬼を昼子様が自分ごと封じたのが裏京都。裏京都は鬼を閉じ込める檻。〝表〟そっくりに昼子様が作った檻」
     ぎゅうっと。熱が押し付けられる。
    「ここは昼子様の壺中(こちゅう)の天(てん)ね」
     美人画を描くならいつでも呼んでいいよ。肩越しに顔を出す妹は澄ました様子で笑っていた。虎彦も笑ってお願いねと答えた。

     壺中の天とはその名の通り壺の中の世界。此処とは違う何処か。壺の中には都があり、贅を尽くした宴が開かれている。壺に落ちればこの世の憂さを忘れ楽しく在れる。
     虎彦は珊瑚の絵を描く。海を、見たこともないのに。

     大江山討伐に出た討伐隊は誰ひとり欠けることなく帰還した。結花は母との奥義の併せで大活躍したとか。太照天昼子から膨大な奉納点と金銭をせしめ、母たちは早速姉、浮舟の交神の準備を始めた。相手は無論、父、大江ノ捨丸である。
     とはいえ虎彦に手伝えることは特になく、何時も通りに絵を描いたりイツ花の傍で魚から内臓を抜いたり干したりしていた。
     母が一族一同を集めたのはそんな中であった。
     皆に贈り物がある、と、母は言った。
    「太照天昼子様を倒すのに頑張った面々は勿論、留守番の夕月も虎彦も、よく家を守ってくれました。これは、当主から皆への日頃の感謝の気持ちです」
     当主は手ずから贈与の品を皆へ渡す。夕月には白磁に金接ぎの茶碗、浮舟には名のある花器、こずえには「茉莉花姉さぁん、可愛いかわいいこずえちゃんをお忘れでは?」「あんた妓楼に借金があったわよね?」「あっはい」——そうして、虎彦の番。
    「虎彦は珊瑚が好きなんだって?」
     母が袱紗から取り出したのは、桃色の珊瑚玉がついた帯留めだった。
    「結花から聞いたよ。蔵に珊瑚の櫛があったから、帯留めに作り直したの。元の櫛から珊瑚玉を分けて、結花の櫛と揃いに」
    「姉様! それは言わなくていいのっ」
     何故か結花が慌てて口を挟む。虎彦は自分の帯留めを、結花の持つ櫛を交互に見つめる。そっくり同じの桃色珊瑚がまんまるく光っている。
     結花と目が合う。と思ったらぷいっと逸らされる。妹の頬は桃色珊瑚のように赤い。
     不意に。結花で美人画を描く約束をしていたことを思い出す。今日で構わないかと訊ねれば結花の頬がぶわあっと赤みを増した。まるで紅珊瑚だと感心してしまう。
    「い、い、いいよ」
    「ありがとう。あとで蔵に来ておくれ」
     ヒュウ、と口笛が聞こえた。こずえからだった。この姉は家に寄りつかないので、人となりがよく分からない。
     虎彦は気にしないことにして蔵に戻り準備をする。紙を用意し、絵筆が乾いているか確認し、顔料と顔料を入れる小皿を並べる。結花を座らせる脇息も必要だろうか。人を描くのは初めてだった。
     ふと。貰ったばかりの帯留めが目に入る。桃色の珊瑚玉が愛らしく光っている。
     妹の頬を思い出した。
     次に、妹のふわふわの髪を結ぶ飾り布も桃色なのを思い出した。
     必要なものを探す。油。すり鉢。すりこぎ。全部揃っていた。珊瑚玉を土台から外す。出陣経験皆無とはいえ神の血を引く一族の力は伊達ではない。何度かひねると珊瑚玉はぱきんと転がった。すり鉢に落とし、すりこぎを構え。
    「兄様! 来た、」
     ごりごり珊瑚をすり潰しながら虎彦は振り返る。棒立ちの妹はふわふわの髪に貰ったばかりの櫛を挿していた。
    「ああ、今準備をしているから、ちょっと――」
    「ばか」
     虎彦はぽかんと口を開ける。
    結花が。頬を真っ赤にして、ぼろぼろ泣いている。
     怒っている。
    「ばか! ばか! 兄様の珊瑚なんて、松だもん! 全然珊瑚じゃないじゃない!」
     走り去る結花に虎彦は追いつけなかった。戦闘経験の差は如何ともし難い。
     悄然として戻る虎彦を珊瑚の絵が迎える。本当には知らない海の底で枝を伸ばす、想像だけで描いた珊瑚の絵。
    「……松か」
     一体ぜんたい何故結花は怒ったのか、何故泣いたのか。虎彦はすり鉢を抱えたまま途方に暮れる。すり鉢の底では桃色の砂がきらめいている。
     その後虎彦は妹と話す機会を探したが、どうにも上手くいかない。まず浮舟の交神の儀があって、同じ月に夕月が亡くなった。家の中はばたばたしていて結花は当主である母を手伝い忙しくしている。そうこうしている間に新しい妹が天界からやってきて〝きせ〟と名付けられ、虎彦はといえば妓楼からこずえを連れ戻すのに四苦八苦していた。交神の儀があるのに、この姉は直前まで家に戻ろうとせずイツ花と当主から交互に小言を受けていた。
     しかし幾ら忙しくても多少言葉を交わす機会なら作れそうなものなのに、虎彦と結花は全くといっていいほど噛み合わない。偶に顔を合わせても結花は「用事があるから」と逃げるように去ってしまう。どうしたものか。虎彦は肩を落とす。筆にも身が入らない。
     というような話を、絵を買い取りに訪れた吾平に零したところ、吾平は神妙な面持ちで「そいつは虎彦さんが悪うございますね」と言った。
    「やっぱり」
     そうではないかと薄々感じてはいたのだ。しかし理由が掴めない。しょぼくれた様子の虎彦に同情したのか、吾平は絵を検分する手を止め「いいですか、虎彦さん」噛んで含めるように言い聞かす。
    「妹さん――結花さんはね、虎彦さんと揃いの飾りをいただいたのでしょう。そいつを貰ったその日に壊されちゃあがっかりするのも仕方ないと思いませんか?」
    「結花の櫛を壊したわけではないのに」
    「同じことですよ」
    「同じことですか」
     溜息が零れる。「同じことですよ」吾平は繰り返す。
    「謝りたいのだけれど、どうすればいいのやら……」
    「揃いの品を壊しちまったのでしょう? また揃いの品を贈るのはどうですか。先日博多渡りで良い反物が手に入りまして、帯や小物なんかでも――」
     揃いの品。虎彦はふと手元に目線を落とす。虎彦の好みそうな珍品が手に入ったと吾平が持ってきたものだった。
    「虎彦さん。そいつはいけません」
     吾平が真面目な顔で忠告する。虎彦は首を傾げる。
    「良いものだと思うけれど、だめでしょうか」
    「悪いことは言わない、そいつは止めておきなさい。一応言っておきますが、珊瑚もやめておきなさい。ねえ反物にしましょうよ。若いお嬢さんが好みそうな品が色々あるんですよ」
     珊瑚は駄目らしい――あんなに好きだったのに――珠の中で泳ぐ妹、その小さな手を思う。今の結花の手を思う。たった二度の討伐ですっかり成長してしまった、手を。

     秋の始まりに母が死んだ。母と仲の良かった浮舟は目を真っ赤にして、こずえもこの時ばかりは家に戻り、当主の指輪はまだ若いきせへと引き継がれた。
     結花は唇を一文字に結び立ち上る荼毘の煙を見ていた。ふわふわの緑髪をいつもの飾り布がまとめていた。虎彦はぼんやり飾り布の桃色を見る。砕いた桃色珊瑚はすり鉢の底に放ったままで、なにものにも為れずにいる。

     結花とこずえが喧嘩をしたと、虎彦が知ったのは事態がこじれにこじれてからだった。発端は新当主のきせが結花へ交神の儀を持ちかけたことで、そこで何があったのか、結花ときせは対立し、若い当主にこずえが肩入れしたことで更にどうしようもなくなった。そういう話を蔵にこもる虎彦は最後の最後まで知らなかった。知ったときにはもう手遅れだった。
    「なにが壺の中よ」「自分だけが苦しいみたいな顔して」
     吐き出すこずえの声は大きく、結花の声は聞こえない。

     秋の夜だった。虎彦は蔵の中で不意に目を覚ます。虫の声は止み風の音も静かな夜だ。
     なのに。虎彦には蔵の前の気配がはっきり感じ取れた。
     扉を開ける。妹が仰天し棒立ちになる。
    「兄、様、なんで」
     結花は旅姿だった。一人だった。無言で蔵を見上げ泣きそうな顔をしていた。
    「散歩に行こう」咄嗟に口をついたのはそんな誘い文句だった。「ただの散歩だよ。兄さんと散歩しよう。結花」
     結花がこっくり頷く。勢いに押されただけとも見える。どうでもいいのだ、そんなことは。虎彦は手早く身なりを整え、吾平から貰った〝珍品〟を懐に押し込み妹の元へと急いだ。
     秋の夜は静かで涼しい。太照天昼子の生み出した裏京都では鬼は迷宮のみに棲む。眠る町は静かで穏やかだ。
     先に歩くのは結花で、虎彦は後ろをついてゆく。結花が意識してゆっくり歩いてくれるお陰で虎彦も息切れせずについてゆける。
    「起こすつもりなんてなかったの」ぽつり。結花の背中が呟く。「兄様を困らせるつもりなんてなかったの」
    「うん」
     歩く。歩く。空には星がまたたく。
     歩いて。歩いて。兄妹が辿り着いたのは京から他の町へと続く街道だった。
     街道は途切れていた。ぶつりと途切れて、その先には何も無い。太照天昼子の作りし世界、裏京都。壺中の天。壺の際(きわ)が此処だった。
    「世界はここまでだって。ずっと。ずっと。ずっと前に私たち一族が落ちてから、ずっと」結花が呟く。「此処までなの――でもね、兄様、それは〝裏京都〟の話で。〝表〟の世界にはほんものがあるのよ。鏡映しなんかじゃない、ほんものの珊瑚も海も。此処に無いだけで外にはあるの」
     結花が虎彦を見つめる。同じ緑の髪、緑の目、血の気の昇る桃色の肌。
    「ここはにせものよ。兄様、ほんものはこの先に在るの」
     虎彦は結花を見つめる。
     脳裏に幾つもの顔が浮かぶ。虎彦の絵に価値を見出した吾平。「しょうのない人ねえ」こずえの乱痴気騒ぎに巻き込まれた芸子の優しい眼差し。十和子の死を悲しむ、一族ではない、人。
    「私には、此処はにせものじゃない」
     ゆっくり首を横に振ると「知ってる」と囁かれた。
    「兄様はそうだって――わたしだけが、こうだって」
     虎彦と余りにも違う生き方をした妹はそう言って力無く微笑む。戦に出ず、世界の外も知らず、想像の珊瑚だけを描く虎彦にはきっと一生理解できないのだろう。けれど。
    「結花。手を出して」
     戸惑う妹の手の上で懐から出した袋を逆さまにする。袋から白くさらさらしたものが落ちる。
    「砂……?」
    「うん。砂。珊瑚の取れる海の、浜辺の砂だそうだよ」強張る妹の手を掴む。掴み、もう片方の手の指先に〝赤玉〟を灯して明かりにする。「珊瑚の話を覚えている。珊瑚は死ぬと砂になる。まだ京では陰陽博士も知らないけれど、これは珊瑚の骨だ」術の火を受けて骨がきらきら輝く。
    「結花――押してみて。指で。ぎゅっと」
     妹は無言だが、兄の手を振りほどこうとはしなかった。黙って指で砂を押す。
    微かな、ほんの微かな音がした。
    「珊瑚の骨は鳴くんだよ」
     押す度に、きゅ、きゅ、と音がする。
    「見てごらん。珊瑚の骨は全部は丸くないだろう。尖っていたり、これなんか星みたいで。だからこうやって」指が砂を押す。砂が鳴く。「押すと、擦れて、それで音がするのだと私は思う。珊瑚にはいろんな色があって、赤や緑や桃色や紅色があって、死んだらみな白くなるけれど、形は違う。骨になっても。ずっと。ずっと」
     妹の手は微かに震えている。それとも震えているのは兄の方か。
    「私は、好きだよ」
     結花の頬をほろほろと涙が伝う。思い返せば彼女は泣き虫だった。虎彦はあまり泣かない性質で、兄妹なのに似ていなかった。
    「明日から結花の絵を描いてもいい? 珊瑚の粉、あれをずっと取ってあるの」
    「でも」結花がしゃくりあげながら問う。「あれは珊瑚の絵に使うものでしょ」
     きょとんとして虎彦は答える。「あれは結花の絵のための顔料だよ」妹の頭上に揺れる飾り布を見つつ「あの色の布で髪を結んでいるから。きっとよく描けると思って」
     結花は。ぽかんと口を開け――「そうだったんだ」
    「ふ、ふふっ、そうだったんだあ」
     笑い出す結花の頬で涙がきらきらと光っている。まるで夜空の星のように。

     結花の逐電が一番堪えたのは、実の所こずえだったかもしれない。馴染みの妓楼で酔い潰れた姉を回収し、虎彦はそんな風に考える。
    「今日はこずえ姉さんの子が来る日ですよ。ちゃんと家にいてください」
    「うえぇい」
     不明瞭な返答。全くだらしない姉である。苦労しながら背に負う。と。
    「……いっしょに行かなかったんだ」
     何のことを指しているのかを知っていた。
    「ええ。あの子を描く約束をしたので」
    「さみしくないの」
    「いいえ」
     虎彦は微かに笑う。いいえ。いいえ。寂しくなどない。だって珊瑚は何時か砂になる。元の色が違っても、骨の形が違っても、最後はみな同じ浜辺に辿り着く。真白い砂になって。星によく似た砂になって。
     寂しくなんかない。だって、ほら――耳を澄ます――胸から砂の音がする。
     きっと。同じ音を結花も聞いている。一等お気に入りの飾り布を揺らし、世界の先を歩いてゆく。偶に珊瑚の櫛を挿して、きらきら、きらきら、砂の音を立てて。真っ白な骨になる、その日まで。


     虎彦の死から二年余りの後、一族の記録は途絶える。
     初代から数えて二五六人目の一族にして最後の当主、彼女の名を千砂(ちさ)という。
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