ヤマト宮中には公文書庫なる部署がある。読んで字の通り、ヤマトに仕えるヒトビトが記した文書を保管する、まあまあ地味な部署だ。
その『穴蔵』とも揶揄される紙と埃の匂いのこもった部屋に、私と師匠は水の入った水瓶をえっちらおっちら運び込んでいた。
夜更けの外は騒がしく、街の何処かでは火の手が上がっている。殺気だった兵に首をすくめながら、私は部屋の扉を閉めた。
「宮中まで燃える、ってことはないですよね」
「さあ、どうだろうね」
師匠は腰を叩きながら溜め息を吐く。
ヤマトの都は浮き足立っている。
帝がお隠れになり、東宮アンジュ様が倒れ、東宮暗殺の下手人として右近衛大将オシュトル様が処刑されたと思ったら処刑前に逃げたとかで、今は八柱将ライコウ様、ヴライ様、デコポンポの兵が入り乱れてオシュトル様を追っている。らしい。
「……本当に、ヴライ様が次の帝になるんでしょうか」
扉の隙間からこっそり廊下を覗く。険しい顔の兵が慌ただしく行き交う。印は『豪腕の』ヴライ様のもの。八柱将ヴライの名に置いて、宮中や街のあちこちが封鎖されているのだと、井戸で女官から聞いた。
「私はあの方が帝になるのはやだなあ」
「おや、そうなのかい」
「あの方の兵は文書の扱いが雑ですもの」
ヴライ様配下の兵は荒っぽく、教養のないヒトが多い。
「いちばん上もそうですよ、きっと。ああやだやだ」
「あまり大きな声で言うものではないよ」
師匠に窘められて私は慌てて口を噤む。
「お前が言うほど物の分からぬヒトではないけれどねえ」師匠は呟き、「それならお前は誰が帝になるのがいいと思う?」
「東宮様以外で?」
「不敬かねえ」
けれど東宮様のご容体が定かならぬ以上、『そういうこと』もあり得るのだ。
「やはり八柱将のどなたかでしょうか」
帝に東宮様以外の血族はなく、また室も持たなかった。となると、臣下の誰かが玉座を埋めることになるだろう。
「私はライコウ様がいいなあ」
「またどうして」
「あの方は文官を重用なさると聞いています。私たちの待遇も良くなるのではないでしょうか」
そもそも今の八柱将は武官が多すぎるのだ。華々しい戦以外にも大事な仕事はあるというのに、全然分かっていない。文句を言う私に師匠は、なるほどねえ、と目を細めた。
と。
不意に部屋が赤と青とに染まる。
どおん、と、突き上げるように床が
軋み、沸き立つ鍋の蓋のようにぐらぐら揺れる。
私は慌てて高窓に張りつき外を確かめる。街の方向に不気味な光の柱が、ふたつ、見えた。
「何なんでしょう、あれ」
「……降りなさい。転んでしまうよ」
師匠に促され私は床へと降りる。
逃げましょう、と言いたかったけれど、そうすると師匠はひとりで残ると
答えるだろうので、とても言い出せなかった。この書庫を一人で守るには、師匠の腰は弱きに過ぎるのだ。
それに、帝都より――偉大なる帝の治める地、世界で最も安全な土地から離れ、何処へ逃げればいいのかも、私には分からなかった。
夜が明けると世界は様変わりしていた。帝都の一画は瓦礫の山と化しており、八柱将がひとり死に、殺したのは右近衛大将だという。
皇が死ねば大なり小なり國は荒れる。歴史書で散々見てきた事実だが、ヤマトで起こるなんて夢にも思わなかった。
危険だからと家に帰していた部下たちも、使えそうなヒトは瓦礫撤去に連れていかれてしまった。書庫に残っているのは私と師匠、あとは年寄りばかりだ。
「何が起ころうと私たちは私たちの仕事をするだけだよ」
黙々と書庫の整理をする師匠について、私も次々送られてくる書類に管理番号を割り振る。何時もより進みは遅かったけれど、何時もと同じ仕事をしていると少し落ち着けた。
宮中は結局ライコウ様が仕切ることになったらしい。ライコウ様の部署から送られてくる文書は期日破りも様式間違いもなく字も読みやすく、私は好きだ。宮中の空気も規律を取り戻しているのが分かる。
そんな中、吉報があった。東宮様が意識を取り戻したというのだ。
「良かったですね」「そうだねえ」
紙束に囲まれ私と師匠は囁き合う。色々言ったけれど、やはり先の帝の御子が帝位を継がれるのがいちばん収まりが良いのだ。
そんな会話の最中、ライコウ様の部下が書庫を訪ねてきた。東宮様の食事の記録が欲しい、と言うのだ。
東宮様にお出しした料理の一覧は月ごとにまとめられ、ひとところに保管してある。読めば東宮様の健康状態やお好みの変化が分かる。
私が記録書を渡すと、ライコウ様の部下は素早く写し帰っていった。
「何に使うのでしょうか」
「そりゃあ東宮様のお世話だろうさ」
ということは、帝都の混乱で行方知れずの大宮司ホノカ様、トゥスクルとの戦にて未だ生死定かならずのムネチカ様に代わり、ライコウ様が東宮様の後見につくのだろうか。東宮の後見人の立場まで得るとなると、ライコウ様の権勢はますます強くなることに――「…密偵ごっこはほどほどにするんだよ」
呆れた師匠の声に、私は笑ってごまかした。
師匠は私の心配をしているのだけれど、私にだって言い分はある。私は下級貴族の庶子で、本家のなけなしのコネで書庫勤めになっただけの木っ端役人だ。父も本妻も悪いヒトではないが、私に何かあっても本家から助けを出す余裕はない。情報は時流を読むため、身を守るためにどうしても必要だった。
乗る船を間違えたヒトの末路は悲惨だ。ヴライの部下を――死んだヒトの部下には『元』をつけるべきだっけ、どうだっけ――見れば一目瞭然。あれだけ大手を振っていた連中が、今や身を縮め他の将の下で使いっぱしり同然の扱いを受けているのだ。何しろ謀反人オシュトルを追うという大義名分はあったとはいえ、帝都を吹き飛ばした狂人である。当人が死んだとはいえ、否、死んだからこそ、恨みが関係のあったヒトに向かうのは当然であった。