窓を叩いていた雨音は、段々と勢いを増していた。
既に一粒一粒のそれは聞き取れずに轟々と絶え間なく連なっている。
3年前の日付が書かれた一枚の紙切れは、空調の風に煽られて時折端を持ち上げている。
材質は軽く、重石代わりに差し込まれた香水の小瓶が無ければ、すぐにでもテーブルの上から落ちてしまうだろう。
けれど、そこに記された文面と“立花希佐”のサインは、人生を変えるほどに重い。
まず驚き、一瞬の喜びを映し出した後に、無理に歪めて作られた冷静さは、今は諦めを色濃くしていた。
この後輩はカイが知る誰よりも強い意志と挫けない夢を抱いていた。
連絡が取れなくなって這うように過ぎた3年。されど3年だ。ユニヴェールで生きた時間と同じだけの長さで、ここまで変わってしまうとは俄かに信じがたかった。
桜色の髪色は、亜麻色に塗りつぶされて見る影もない。
華奢な体はジャンヌではなく、女のものに変容している。
舞台映えとは違う化粧は艶やかさを際立てているし、少し離れた位置からでも作り物の甘い匂いがカイにまとわりつく。
かつて希佐が演じた夜の女が想起するも、それよりも遥かに目の前の存在に染み込んでいた。
語られなくとも、この3年間でどう生きてきたかが浮かぶくらいには。
「立花……」
「カイさん、……もう、いないんです“立花”は」
探し求めてきた人が、カイにとって絶望的な言葉を重ねる。
当たり前のようにユニヴェール卒業後は玉阪座で同じ板に立てると思っていた頃には、こんな日が来るなんて想像もしなかった。
ジャックジャンヌという新しい存在を創り出し、クォーツの、ユニヴェールの歴史に名を刻むはずだった“彼”が抹消されてから、カイの中にはずっと今の外のような土砂降りが降り続いている。
淡い希望を、小さな星を覆い隠す雨は、止む気配がない。
部屋の中にいるというのに、冷たい水が体温を奪っていくような気がしている。
「ここに、いるだろう」
認めたくなくて、抗う。
いつかまた会って、その手を掴むことができたなら、今度はもう離さない。
そう決めて、僅かな可能性を辿り続けてきた。
それでもカイよりも低い位置で首は横に振られる。
「いないんです、もう! いちゃいけないんです! ……それを私は解って、それでこれを」
豪雨の中でもよく通る声だけはあの頃のままで、綺麗に手入れされ色付いた爪が誓約書のサインを示す。
「これを……」
震えている指先が、そこだけ違うインクで書かれた“立花”を刺す。
この紙を破り捨ててしまえば、無効になりはしないだろうか、と危険な思想がカイの頭を掠める。
玉阪座に、ひいてはユニヴェールに、玉阪市に二度と関わらない。罪人でもないのに重すぎる禁止令だ。
一人の人間の行動をここまで縛っていることを法的機関に訴え出れば、取り払うことは出来るのかもしれない。
そこまで法律に詳しくないカイでも、それは思い浮かべることが可能だった。
そして、同時にそれをすれば、ユニヴェールにいてはいけない存在を大々的に喧伝してしまうことにも思い至る。
(だから……立花は一人で)
卒業直前に退学になり、輝かしい道どころか学歴まで中卒の扱いに落とされ、玉阪市からも追い出されて、地元に戻ることも出来ず、誰にも頼れずに、たった一人で。
玉阪座への誘いについてはぐらかさせたタイミングで、もっと深く尋ねればよかった。
最後のユニヴェール公演で見せた表情に、もっと疑問を持っていれば違ったかもしれない。
卒業式前日の一礼にだって、思うことはあったというのに。
世長とともに消えた“彼”を探しに向かった地元にも形跡がなかった時だって、もっと焦るべきだった。
どこに行ったのかと悶々とカイが悩みながらも日々を過ごしていた間に、どれだけの苦難を抱えていたのか。
住む場所を変え、姿を変え、名前を変え、――“立花希佐”を殺し続けていたなんて。
下を向いたまま顔を上げない小さな女性が送った3年が、途方もない程の刑罰にカイには思えた。
それも、犯した罪の重さに見合わない罰だ。
気丈で真面目で努力家で、思いやりが深くて、たくさんの人の希望になった、“立花希佐”一人だけが。
悔恨が膨れるカイの眼に、俯いたままの姿が、ふと、ある光景に重なった。
今と同じように女性を思わせる薄い衣装のジャンヌが、大粒の涙を零して泣いている。
自分の吐いた嘘で失うものを目の当たりにして、身を震わせて。
カイはそれを舞台袖から眺めていた。ジャンヌの姿を借りて、泣いているのは本人だ、そう悟った。
何をそんなに恐れているのかわからないけれど、その涙をぬぐってやりたかった。
共にいると抱き締めたかった。自分に与えられるものを全て分け与えたかった。
けれど、脚本はそのカイの感情を認めない。ただ舞台の上で別の手が伸ばされるのを見ているだけだった。
(今なら……手が届く)
衝動のままに立ち上がり、歩み寄って、小さな体を抱き寄せる。
「カ、イ、さん……」
「――っ」
“立花”と呼ぼうとして、今、それをこの人は望まない、と口を閉じる。
抱き締めた温度は、二人で教会でペアダンスを踊った時とまるで変わらない。
カイの中の欠けた一部が満たされていく感覚も同じだった。
洟をすする音が腕の中で聞こえたけれど、きっと見られたくないだろうと見ない振りをして、腕に力を籠める。
どれだけ変わってしまっても、3年の月日の壁があっても、一度掴んでしまうと離し難かった。
このまま大切な人を失わずにいるにはどうすればいいだろう。
カイが玉阪座から離れてこの地に来たところで、急な展開は噂を呼ぶかもしれない。
自分を捨ててまで一人で抱え続けた秘密を踏み躙るような真似はカイには出来ない。
だからといってこのまま昨日までの生活に戻るような物分かりの良さも持っていなかった。
「…………はぁ」
カイは役者だ。友人の日々の無茶ぶりからも一言に篭める感情や、声に出さない思いを演じるのには慣れていた。
だからその腕の中で落ちた密やかな溜息が、自身の中に渦巻く感情に整理をつけようとしているのだと、急速に理解した。
何か、言わないといけない。また一人で旅立とうとする前に。
「睦実になればいい」
「え…………?」
「立花、が存在していられないなら、睦実になればいいんだ」
“立花希佐”を縛るものなら、それを消し去る術をカイは持っている。
咄嗟に口をついて出たそれが妙案だと確信し、今度こそ離すまいと腕の檻をさらに狭めた。