指先で押したチャイムが部屋の中で響く音を聞きながら、ずり落ちそうになるバッグの紐を再度肩に担ぎ直した。
日が落ちたもののサウナのような熱気は未だ衰えず、もうすぐ汗になりそうな予兆が希佐の全身に纏わりついている。
体の中に染み込んだ熱の塊を吐き出すように深く息を吐いたタイミングで、目の前のドアが開いた。
「立花……暑かっただろう」
労いの声と同時に、冷房の効いた室内から心地いい冷風が希佐に吹き付けた。
「カイさん! お待たせしました」
昨夜電話したばかりだというのに、再会の喜びは希佐の心を沸き立てて、声もスキップみたいに弾む。
そんな希佐を柔らかく見つめたカイは、扉を大きく開いて、彼女が早く涼めるようにと一人暮らしの部屋へ迎え入れた。
「迎えに行けなくてすまない、重かっただろう」
「こちらこそ、遅くなっちゃって……」
希佐が脱いだばかりの靴を揃えている横で、玄関口に置かれたボストンバッグを持ち上げたカイは、それを部屋の奥へと運んでいく。
靴下一枚で触れたフローリングの冷たさを楽しみながら、希佐もその後を追って、言葉を続けた。
「白田先輩と話してきたんですけど、今年の合宿は――」
日程と、行先、集合時間を報告すると、希佐のバッグを下ろしたカイが、棚の上からペンを取り、壁のカレンダーを捲って合宿初日に〇をつけてくれる。
スマホのカレンダーに入力してあるので希佐本人が忘れることはないのだけれど、彼のその心遣いが希佐の胸の内を擽る。
『立花合宿初日』と書き込まれた日付の隣には、おそらく玉阪座の公演名と思わしき記載もある。
ちらりと見えた8月の末には『夏休み最終日』とも書かれていたけれど、カイが捲りあげていた頁から手を放したことでそれは隠れて見えなくなった。
来たばかりでもう終わりを考えるのは寂しいので、それよりも今日の日付に希佐は目を向けた。
赤い○で何重にも囲まれたそれは、カイが同じように今日を待ち望んでいたのだと伝えてくれる。
「カイさん」
呼びかけに答えた背の高い横顔が希佐を正面から見てくれるのを待ってから、ぺこりと頭を下げる。
「改めて、今日からよろしくお願いします」
冷房の風が希佐の肌を一撫でするくらいの間を置いてから、短い了承が返った。
その声が感嘆に染まっているとわかるくらいには、希佐はカイを読み解くことに慣れていた。
カイが待っていてくれと一声かけて台所へと去った後、普段勧められるクッションの上に腰を下ろした希佐は、何度か足を組み直して落ち着かない心を静めようとした。
これから夏の間ここで一緒に過ごすのだ、と思うと感情は浮足立つ。それは昨年のクリスマスの日、初めてカイの私室に招かれた時に似ていた。
あまりきょろきょろと観察するのははしたないかと思いながらも、どうしても気になって、当たり障りのなさそうなカレンダーや本棚の台本に視線を送る。
そうやって遠慮しながらも部屋を見渡して、そこでふと違和感に気が付いた。
「あれ? ここって……」
独り言を呟きながら記憶を辿ろうとした希佐だったが、答えに到達する前に部屋の主の足跡が近付く。
お盆の上にガラスコップと小さな瓶を2つずつ乗せてきたカイは、希佐の向かい側からそれを机の上に下ろす。
「わあ、綺麗ですね」
「頂き物だが、……立花はゼリーは大丈夫だったな?」
「はい! 華みたいで透き通って綺麗ですね」
見た目にも涼し気な小さな瓶は、ピンクや黄色の花やフルーツで鮮やかに彩られていて、高級感も漂う。
「こっちは麦茶だ。今日も外は暑かったな」
勧められるままに受け取ると、水滴のついたコップもゼリーも冷ややかで、掌の温度との差異が気持ちいい。
冷房の中に入ったので安堵していたけれども、体はまだ熱気を残していたのだと気付く。
「いただきます、………………はぁ」
華やかなゼリーはすぐに食べてしまうのはもったいなく思えたので麦茶から喉に流し込む。
氷の入った麦茶を一口含むごとに、希佐の内に籠っていた夏の陽射しが治まっていく。
そうしている間に、カイは瓶入りのゼリーを取り、くるくると回して何かを確認した後に、2つとも希佐の前に並べた。
そのカイの動きにつられて瓶の中を覗き込む。比べてみるとどうやら中身が少し違うらしい。
「好きな方を食べるといい……ああ、写真も撮るか?」
「ありがとうございます、そうですね、ちょっと撮ってもいいですか?」
SNS映えするような食べ物でも気にせずに食べ始めてしまうカイが、こうして聞いてくれるようになったことが嬉しくて、そう尋ねられた時はいそいそとスマホを取り出すのが希佐の定番になっていた。
おかげで希佐のスマホのフォルダには、カイと出かけた際の食事の写真ばかりが増えていく。
2つ並んだ小瓶を中身が見えるように斜め上からのアングルで一枚。そして、カイの前に移動させてもう一枚。
「はい! 撮れました! カイさん、あとで送りますね」
自分からあまりSNSを更新しないカイがたまに載せる写真は、ほとんどこうして希佐が送ったものだと、近しい者たちは皆知っている。
役に入っていない素の状態のカイを上手に切り取れるのは希佐の得意技だ。
それでも、そこから先の、ひと匙掬って食べ始める彼を撮ることはしない。
これ以上は希佐の特権だと、こっそりと思っている。
二人で珍しい冷菓を味わい、とりとめもない話を重ねる。
その中で、希佐は先ほど気が付いた部屋の変化を指差して、カイに尋ねた。
「そこ、棚が増えました? 確か前は……」
「ああ、気が付いたか。新しく買った」
並んだモノクロのカラーボックスの隣に新たに加わったそれには、他の物とは違って布製の引き出しが収められている。
あまり私物が多くないカイにしては珍しい行動だ、と思った希佐の耳に予想外の答えが続いた。
「ここは立花の物を置く場所にしようと思って」
「え、私のですか!?」
「ああ、これからはここを好きに使ってもらって構わない」
後ろを振り返って手を伸ばし、一番上の引き出しを軽く引いたカイは、中身が入っていないことを希佐に示した。
「あと、ここに」
続けて真ん中の引き出しからは、クッキー缶だろうかおしゃれなデザインの缶が二つ取り出される。
希佐も似たようなお菓子の缶を小物入れとして使っているので、用途はすぐにわかった。
「これも使えればと思って貰ってきた。洗ってあるからそのまま使える」
「……ありがとうございます! カイさん、その……すごく嬉しいです」
「もっといるようなら、また貰ってくるが」
その問いには小さく首を振って希佐は答える。
中に入れる小物の量には関係なく、それをカイが準備してくれたということだけで充分に満たされていたから、これ以上を求めようとは思わない。
既に頭の中でそれらに何を仕舞おうか、バッグの中身を思い返し始めている。
台本に教本、普段使いの文房具、シャツに下着にパジャマ代わりのスエット、前にお揃いで買ったマグカップもきちんと持ってきた。
マグカップはさすがにそこの棚ではなく食器棚に一緒に並べさせてもらいたい、歯ブラシは以前のものがあるかもしれないけれど今回は歯磨き粉は寮から持参した。
カイの部屋に散りばめられる予定の希佐の私物が、これからの生活を導いていく。
昨夜の荷造りの時と同じ高揚が胸に広がっていくのを自覚しながら、希佐は傍らのバッグに手を伸ばす。
二人の夏休みが始まろうとしていた。