以前コンプライアンス違反になるからと断ったことで学ばれてしまったのか、彼女は僕にそれを渡してはこなかった。
代わりにまとめて二人分を押し付けられたハセクラ先輩が、戸惑いに溢れているのを傍目で把握したけれど、こちらの会話を打ち切って乱入するような愚は犯せない。
バレンタインデーなんて面倒なイベントはとっとと廃れてしまえばいいと、口には出せない鬱憤が溜まっていく。
「では、また後日に改めてご連絡いたします」
挨拶に不機嫌さが滲み出たりしないように注意しながら一礼し、僕のやり取りを待っていた先輩の元に戻ると、その手にはしっかりと二つの箱が乗っていた。
きっと無理だろうと思っていたけれどやはり断り切れなかったらしい。
「……向井、これ」
ここの場面だけ切り取ってしまえれば2月14日に想い人からチョコを渡されるという、まあまあイベントの廃止を訴え出る気が失せるワンシーンだ。
実際は取引先からの義理チョコというタスクが増えるだけの面倒事なのだけれど。
適当に礼を述べて、恐らく販売価格500円くらいの箱はその場でだけは丁寧に見えるように鞄に仕舞う。
一月後には業務面では用事が無くても、少し色を付けた金額のものを返しにまたここまで来なければいけない。取引先というのが余計に厄介だった。
だからといって受け取ったハセクラ先輩に、苦言を呈してしまうとそれはまた別の問題につながる。
うっかり隙を見せた僕のリスク管理の甘さが敗因だ。
苛立ちを表に出さないように社会人の顔で抑えて、さっさと退散してしまおう。
半分以上私情が含まれる不愉快さを、見ない振りをして隣を促した。
今日の予定としては、まだもう一件回らないといけないけれど、そちらは男所帯なので恐らくこういったことは起こらないはず。
それだけを慰めにして歩を進めていると、斜め上から声がかかった。
「はい」
「え、えと……その」
言い淀む声色だけで彼の惑いが伝わってくるけれど、今の僕ではうまくフォローが出来ない自覚がある。
腹立たしいと思う気持ちの中心軸はハセクラ先輩にこそあるが、対象は違うからこれをぶつけてはいけない。
言葉を返さずに、待ちの姿勢に入って、そのまま駅までの道を進む。
きっと彼は僕の感情の荒ぶりは理解している。けれどその理由まではわかっていないだろう。
不用意に取引先から物を貰ったことに納得していない、辺りがハセクラ先輩から見た落としどころだと思う。
別にそこで怒ったりはしない、そういう形でコミュニケーションを取ろうとする人たちがいることくらい理解している。
面倒くさいと思いはするし、相手の感情はただの厚意だというのもよくわかる。
そこに特別な意味なんてないのは渡されたのが取引先の商品で、同じものがまだ積み上げられていたことからも簡単に察せられる。むしろ誤解の余地を残さない分丁寧だ。
けれど、苛々した。
「…………申し訳、ない」
口ごもって、また開いて、もう一度黙って、を繰り返した後に、ようやく出てきた一言がまた、僕の感情を加速させる。
「別に謝られるようなことをされた覚えはないです」
実際に彼に落ち度など何もない。ただ、僕が一方的に自分自身の気持ちを持て余しているだけだ。
今日はバレンタインなのでどうぞ! と笑顔で渡せる立場の人が妬ましい。
そういう素直さと、イベントを楽しもうという心持ち、外聞を気にせずにいられる豪胆さ、どれか一つでも僕が持てていたら、こんな刺々しい声にならないはずだ。
鞄の中で存在を主張しているラッピングされた箱ただ一つに、朝からずっと意識を奪われている。
昨年までのように、適当に売っている駄菓子のようなものを、自分が齧るついでにと手渡してしまえばよかった。
僕一人でこっそり自己満足に浸って、一月後どころか一週間後には忘れられてしまう日常の一幕に沈めてしまえば、こんな気持にもならないのに。
今日を過ぎれば取り払われる、赤やピンク、ハートマークやチョコレートの装飾の街並みさえも恨めしい。
休日だったらまだ違ったかもしれないが、どうあがいてもカレンダーは変わらない。まさか、二人で一緒に有給消化しましょうなんて言えるわけもない。
「……怒らせるようなことをしたんだ、俺が悪い」
「は?」
行きも辿った駅までの裏道、表通りよりも人が少ないコンクリートの薄暗さが目立つ辺りで、ぽそりと落とされた言葉に反射的に返した一音は感情を殺しきれなかった。
毎度毎度彼が自分を卑下するのがもどかしいというのに、こんな僕の自己嫌悪に近い感情の機微にまでその口癖を出してきて。
恋人たちの祭典と書かれたバナー広告を見ていた時には思いもしなかったほどに、このイベントが憎々しく感じてくる。
どんどん早足になっていく僕を伺いながらも歩調を合わせてくれている先輩に、もう一度だけ貴方が悪くないと伝えようと、少しだけスピードを落とす。
「ハセクラ先輩の何が悪いって言うんですか?」
反語のつもりで出した一言は、言葉にした瞬間に後悔を生んだ。
余計なことを言わずに、ただ、僕自身の愚行だからと言えばよかった。
「……チョコレートを、貰って」
別にハセクラ先輩が誰に何を貰おうともそこに干渉するつもりもないし、僕宛を預かってしまったのはただの事故だ。
今度こそ変なことを言わないように、それを素直に伝えようと頭の中で一度シミュレーションして、と、そのせいで出遅れた。
「お前がいるのに、不誠実だった……申し訳ない」
「は?」
さっきと同じ一音だけの返しになったし、また感情がそのまま乗った。
けれど、その失敗を悔いることも難しい。
せっかく脳内に起こしていた文章が吹き飛ぶだけの威力があった。
何か言おうとして口を開け、でも何も言えない。
「……え?」
駄目だ、頭も舌も回らない。
この人、バレンタインデーをそういう風に認識していたのか。
欲しいともいわれてなかったし、僕から渡すとかの宣言もしていない。
そもそも同性だし、あの場では受け取る方が自然だったのに。
「恋人がいるから、と断るべきだった」
「……いや、あの場では無理でしょう」
なんとか返したけれど、呆然としているせいで、語尾が震えるのが自分でもわかる。
勝手に一人で盛り上がってこっそり準備して、準備している最中に思い返してテンションが落ちて、でも無視し続けるのも出来なくて。
僕には真似できない気安い他者が羨ましくて、上手くできない自身がもどかしい。
そんな意味不明な理性的でない感情が、さっきまで考えていた台詞と合わせて彼の一言で一緒に掻き消えていた。
そうやって理路整然と考えることが出来なくなった頭の中に残ったのは、馬鹿馬鹿しい好奇心だ。
今、僕が鞄からそれを取り出したら、ハセクラ先輩はどんな反応をするだろう。
裏道に相応しい鬱々とした空気を持ち上げることが出来るだろうか。――喜んでくれるだろうか。
僕の鞄の中に忍ばせていた箱が、やっと出番が来たと待ち望んでいるような、そんな錯覚がした。