その変化は唐突なものではなく、これまでにも何度か見ていた。
ぼんやりと虚空を見つめたかと思うと、小さく動く唇から漏れるのは異国の言葉。
聞き慣れた、片言の、この国の言の葉では、ない、もの。
今まではすぐにおさまったそれが、今回に限ってはひたすらに長い。
だから俺は窓を開けて、夜の空に向かって聞いた。
「そこに、いますか?」
と。
声はいまだ夏らしい熱の残る黒い中に溶けて、そし、て──
「今、来たところだ」
返答と共に頬に触れたのは、この残暑には似つかわしくなく、それでいて望んでもいる、冷ややかな空気。
何の前触れもなく目の前に浮遊しているのは、古風な出立ちの、紳士と形容して問題なかろう出立ちの──吸血鬼。
俺にはそれが誰なのか、すぐに分かった。
だから聞いた。
「彼は、大丈夫ですか」
と。
吸血鬼はふわりと部屋の中に降り立ち、先に述べた知人──こちらも吸血鬼なのだが、最近知り合ったものだ──に、一歩だけ近付き、そして、一瞥してから確かに頷き俺に向き返った。
「問題ない、ただ、馴染んでいないだけだ」
「馴染んでいない?」
理解しかねた俺の鸚鵡返しにもその吸血鬼は気を害した素振りのひとつも見せず、いや、まるでその返答を予測していたかのように、澱みなく言葉を続けた。
「私の血を分けてから永く長く時を経て、そしてまた彼の者は動き始めた、かつての地から遠く離れたこの場所で。故に、己の内外で起きた急激な変化に心身ともに追いついていない、それによって起こるのだ、この状態は」
白い手袋に覆われ、全ての指先を凛と伸ばした手がするりと知人を示す。
知人は未だ、虚空を眺め、歌うように異国の言葉を呟いている。
「ですが、今日は特別に長い」
「問題ない、これが最後になるだろう」
その根拠は、と、追いかけた俺の質問は音になる前に胸中で溶けた。
知人を見つめる吸血鬼の瞳のせいで。
郷愁と憧憬、それに慈しむような熱、と──そして、寂しさのような、何か、を、含んでいるように見えてしまった、その、紅蓮の宝玉の、せいで。
どれくらいの時が経ったか、数呼吸分にも数時間にも思える間を置き、ふと知人がゆっくりと瞼を伏せた。
異国の声も、いつの間にやら聞こえなくなっていた。
「もう、大丈夫だ」
その声が聞こえたのはすぐ真横。
吸血鬼は、気付いたら隣にいた。
「すぐに目覚める」
戸惑う俺を他所に吸血鬼は再び夜の空に浮いた。
「あの──!」
翻された黒いマントが夜闇と同じ色になってしまう前に、その一心でかけた声に吸血鬼は振り向いてくれた。
「ありがとうございました!」
「何も、していない」
先までの、複雑でそれでいて穏やかな瞳は何処へやら、何の感情もないような赤い硝子玉の目が俺に向けられる。それでも──
「それでも、来てくれました!」
俺はただの人間だ、飛べやしない、だから声を張った、時間も構わずに。
吸血鬼はまだ俺を見ていた、だが、その硝子玉は感情を映した。
それは間違いなく喫驚。
しんと静まりかえる夜の空気。
間を置かず俺は続けた。
「今までも、近くにいてくれていたんじゃないですか⁉︎ 彼がああなった時に!」
今度こそ吸血鬼は相貌を丸めた。
そして──初めてその、凍りついたように動かなかった頬を、緩めた。
「……感じるのでね、変化を、どうしても、何処にいても」
一度は離れた距離、それが、また近付いた。ふわりと。
「君が呼んだから、私は、姿を見せられた」
間近に迫る真紅の瞳、その中に映る自分を、視認できるほどに。
「なにゆえに?」
たった一言の問い、だが、俺にはその問いの意味が理解できた、できて、しまった。
「彼の、あの状態を、何とかできるのは、彼を救い上げた人だけだと、おもった、から……」
だから、呼んだのです。
言外に含めた意味は、正しく相手に伝わったようだ。
吸血鬼は、ほんの僅かにだが肩を跳ね上げた。
その瞬間、身体中が粟立った。
それまで汗ばむほどだった温度が、急激に下がって。
反射的に震わせてしまった背筋。刹那、は、と小さな息を吐いて吸血鬼は俺から距離を取り、大仰に片腕を振った。
「……すまない、戻ったかな?」
「え、あ……? あ、あぁ……はい、暑くなりました」
先の凍えるような空気は一変、動かずとも肌にまとわりつくような不快な湿気を伴った熱気が戻ってきて、ようやく俺は腑に落ちた。
来訪したときや今の冷気は、この人に依るものなのだと。
知人から聞いていたはずなのにそれどころではないせいか失念していた。
バツの悪さに頭を掻きながら、
「でも、今の時期涼しいのは大歓迎ですんで……」
なんて、俺は間の抜けた本音を漏らしてしまったのだが、吸血鬼は
「ほぅ、そうなのか」
と、納得しながら
「ではこれでどうだろうか」
と言いながら指先をついっと横に振った。
途端に冷える部屋の空気、しかしそれは先のような痛みを伴いかねない程ではない、心地よい涼やかさ。
「え、あ」
室内に向き直って腕を振りながら呆気に取られている俺の後ろでばさりと大きな音がした。
振り向くと、吸血鬼は既に、遥か向こう。
なのに──
「言えた義理ではないが、私こそ礼を伝えたい」
聞こえた声は、間近。
「私が望むのは只、彼の穏やかな日々だ」
聞きながら、俺が思い出していたのは凍てつくような赤い硝子玉ではなく、暖かみに溢れた、紅蓮の宝玉。
「彼だけではなく、君たちにも、多くの幸福を祈る」
それを最後に声が聞こえなくなったのは、遠く離れていく蝙蝠の群れが見えなくなったのと、同時だった。