“あなたとのキスはとても甘い”
携帯を眺めていたら、突然そんな文字が流れてきた。甘ったるい少女漫画か何かの広告、健全な少年少女はそんなものに胸をときめかせるのか。
キスなんて今まで何度もしてきたが、甘いだなんて妄想は早々に辞めた方がいい。そんな馬鹿な話あるわけないだろ。
溜息を吐いて、椅子に深く腰掛ける。
好きな奴なんて、もうしばらく出来ていない。この世界に入ってから、むしろ誰もが嫌いになった。上に上がるためにしたキスも行為も全部が嫌悪の対象で、甘いだなんてとてもじゃないが有り得ない…が、そんな中で一人だけ、どちらかといえば嫌いじゃない奴が居る。
図体がデカくて、俺にやたら懐いていて。別に優しくしてやったりしたつもりは微塵もないが、慕われるのは悪い気はしない。飯を食わしてやると物凄く嬉しそうな顔をする…一度好きだと言われたが、その時はよく分からないまま、曖昧な返事をして終わらせてしまった。
「店長、この間不正した奴がまた来てるんですが」
「……お前、ノックぐらいしろよ」
「えっ、しましたよ」
考え事をしていて、コイツが来ているのに気付かなかった。驚きで跳ねた心臓が早くなる。
聞こえなかったですか、と申し訳なさそうな村上の顔を凝視した。何だかやけに、手入れされずにかさついた唇に目がいってしまう。
俺は意外と、あの広告が気になっているのかもしれない。
コイツの事は嫌いじゃないし、試してみたい気もする。
いや、減るものでもないし試してみたい。
「村上」
「何ですか」
指示を待ってその場に立つ村上に近付いて、何も言わずに唇を重ねてすぐに離す。
しっかりケアしている自分とは違う、かさついた唇。なるほど、こんな感じか。
それに、これは…
ふと村上を見れば、じっと固まって混乱した様に視界を揺らしていた。眉が下がっている、面白い。
「キスした事ない訳でも無いんだろ。なんだその顔」
「い、いやその急に…」
「あとお前、何か食ったな」
「さっき、飴を」
「飴…」
そのせいか。妙に甘い気がして、あの広告は間違っていなかったのかと疑ってしまった。
確かめる様に、もう一度自分の唇を軽く舌でなぞる。
少しだけ苺の味がした。
もう一度確かめようと近付くと、村上は慌てて後退りをして、俺と視線を合わせない様にしながら掌で口元を隠す。
「…店長は、すぐこんなこと出来るんですね。誰にでも」
「別に誰にでもじゃない。キスは好きじゃないからな」
「俺の事好きじゃないのにするんですか」
「………」
村上とのキスは嫌いじゃない。
むしろもう一度、あの甘さを確かめたい。ただ、村上に恋愛感情があるかと言われればまた別の話。それを口にするのは、何だかはばかられる。そんな時は、曖昧な答えをしておくのが一番楽だ。
「なら、俺とするのが嫌なのか?」
「……その質問はズルくないですか」
「嫌じゃないなら、したって問題ない」
「嫌です」
「お前だってそう思って……はぁ!?」
「俺とだけするって約束してくれたら」
そんなにしたそうな顔を、俺はしていただろうか。
口元を隠していた手を退けて、どうぞ、と村上は小さく笑う。
ズルいのはコイツも一緒だ。今、村上に乗っかって、唇を重ねたらそれはコイツとだけする約束をした事になる。
「お前に、まだ恋愛感情がある訳じゃない」
「嫌いじゃないなら十分ですよ」
「……好きになるかも分からない」
「お試し期間にしてみませんか。店長だってしたそうな顔してますよ」
「うるさい」
これ以上無駄な事を話されたら困る。
村上を引き寄せて、塞ぐように唇を合わせた。まだ甘ったるい苺の味が微かに鼻に抜けて、何とも言えない。今までしてきた、酒臭いキスとは違う。
このタイミングで、飴を食うコイツの運の良さにも少し腹が立つ。こんなのは中々辞められない……かさついた下唇を軽く食んだ時、突然強い力で肩を押された。
「ッ、危ねえな…血が出たらどうすんだよ」
「あの、もうそれ以上は……」
「まだお前がフロア抜けてから、五分くらいしか経ってない」
「そうじゃなくて、仕事に差し支えますから!」
さっきまで強気だったくせに、ちょっとの事でころころと変わる奴だ。失礼しました、と早口に言って、逃げる様に部屋から出て行った。
まだ、不正した奴に対する指示もしてないのに、何しに来たんだ。俺がフロアに行って対応しないといけない。アイツのせいで余計な仕事が一つ増えてしまった。
モニターを見れば、焦ってフロアに入った村上が映る。
「全く…面倒な奴」
笑みを抑えられず、小さく笑いながら苺の味のする唇を軽く拭った。
村上とのキスでは心地良さを感じられる。実際、飴という物のせいだが甘かった。恋愛感情を抱けなくても、嫌悪でしかなかった行為がむしろ欲するものになるなんて貴重だ。
お試し期間も悪くないかもしれない。
お前から提案してきたなら、存分に楽しんでやるとしよう。
……こんな俺達が、数ヶ月後には互いの部屋を行き来しているなんて、一体誰が想像出来ただろうか。