テレシスとレトの間の連絡は、大抵マンフレッドなど他の人間を介して行われる。
しかし、月に1回ほどはテレシスのもとをレトが訪ね、直接報告をしたり指示を出したりする。
とはいえ、緊急性のあるものは、その時その時に連絡するため、あくまでも形式的なもので、ほとんどの場合、既に報告あるいは指示したことの確認をするだけだ。
今回もそのような形で終わったのだが、いつも通り一礼をし、部屋を去っていくはずのレトは、テレシスの前に立ち続けていた。
「……」
「……」
何か話したいことがあるのかと思ったが、業務上必要な会話は既に終わっている。
そして、テレシスは積極的に雑談をするような性格ではない。
特に職務中は。
また、レトはカズデル軍事委員会のメンバーでも、サルカズでもなく、友人と呼べる関係でもない。
つまり、雑談をするような関係ではない。
レトもプライベートはともかく、職務中はほとんど雑談はしない。
そして、協力関係を始めて数ヶ月が経ち、レトもテレシスの性格は大体分かっているだろう。
今のレトの行動の理由に全く心当たりがなく、このまま黙って見合っていてもただ時間が過ぎるだけであり、テレシスには、レトとのこの面会以外にもやらなければならないことがまだまだある。
となれば、本人に直接理由を聞くしかない。
「なんだ」
とテレシスが言うと、レトははっとして、すぐに
「申し訳ございません、殿下。不躾な真似を……」
と頭を下げる。
しかし、テレシスが求めている返事はそういうものではない。
「私はお前の行動の理由を聞いている」
「それは……」
レトはその続きを言うのをためらうように、視線をさ迷わせる。
「……殿下の顔色が、あまり思わしくないような気がいたしまして……つい……」
「……」
テレシスは自分が、肉体的にも精神的にも健康的な生活を送っているとはけして言えないことは分かっている。
しかし、そもそもテレシスがそのような生活を送っていたことなどほとんどない。
テレシスのみならず、サルカズは安寧や安定といった言葉からは程遠い生活を送っているのが常であり、各地に散ったサルカズたちを探し、呼び集め、1つにまとめ、サルカズという種族のすっかりか細くなってしまった炎を―それは未来であるとか、運命と呼ばれるものだ―を再び高く燃え上がらせようとするならば、それはなおさらのことだった。
とはいえ、異種族の国の首都を手中に収めてからは、ますますテレシスの気にかけねばならぬこと、やらねばならぬことが増えたことも確かだった。
テレシスたちは驚異的なスピードでこのロンディニウムを自らの支配下に置いたものの、城壁の外にいる大公爵たちを押さえつけ、あるいは排除し、ヴィクトリア全体へとその勢力を伸ばすことはそう容易いことではない。
そもそも、このロンディニウムを安定してサルカズの制御下に起き続けることさえ容易なことではないのだ。
これまで、ヴィクトリアの大公爵たちはロンディニウムという大きなパイをめぐり、互いに睨み合い、足を踏み合い、手に持ったナイフを向け合ってきた。
そして、長年同国人に向けて研ぎ澄まされてきたナイフが、権謀術数が、今、そのパイをかすめとろうとするサルカズにも向けられている。
「差し出がましいことだとは承知しておりますが……殿下のことはきっと、私だけではなく、他の方々も……サルカズの方々も心配なさっているでしょうから……」
と言うレトは、どうも上辺だけの言葉としてこのようなことを口にしているわけではないらしい。
自分が守るはずの都市を占領するサルカズに対し、体調を気遣う理由は分からないが。
2人の間にはガリアの復興という約束があるので、レトとしてもテレシスに体調を崩して倒れられては困るだろうが、そういう打算的なものがあるようにも感じられなかった。
困ったような、不安そうな、気まずそうな顔でテレシスではなく、斜め下の方を見ている。
将官としてのプライドからか、経験からか、テレシスと初めて会った時でさえ、レトは彼からほとんど視線をそらすことはなかった。
「……上に立つ者として、周りから見た己の姿を気にかけろということならば、鏡を見てみるがいい」
とテレシスが言うと、
「……」
レトは驚いたような顔でこちらを見た。
テレシスは別にレトの体調を気遣ったわけではなく、あちらが先に体調の話を持ち出したので、それに乗っかり、返事をしただけだ。
それに、レトがストレスや疲労を溜め込んでいるだろうことは、特別注意して見なくても分かることだ。
「それは……そうですが……」
とまた視線をそらした。
健康的な見た目をしているわけではないという自覚はあったらしい。
しかし、少しして、
「……摂政王殿下のおっしゃる通りです。実は最近、部下に気遣われることが増えておりまして……。先程、殿下にあのようなことを申し上げておいて、お恥ずかしい限りです。ですが、どうか殿下もご自愛ください。……では、失礼致します」
と気を取り戻したように言って、最後ににこりと笑うとレトは部屋を去っていった。
「……」
テレシスは黙ってその背中を見ていた。
そうしながら、テレジアやマンフレッドが自分に気遣わしげな視線を向けたり、自分を心配する言葉をかける回数が増えていることを思い出した。
「フン……」
だが、それでもテレシスは自分の理想のため、足を止めるわけにはいかない。
他のサルカズの上に立つ者として、自分の弱った姿を、足踏みする姿を見せるわけにはいかない。
テレシスは机の上の書類とペンを手に取り、レトとの面会によって中断していた仕事を再開した。
定期的な、形式的なやりとりが終わり、レトは一礼してテレシスの執務室を去る―つもりだった。
しかし、体を起こし、テレシスの顔を見て、ふとある疑問が生まれてしまった。
テレシスは元々それほど健康的な見た目はしていない。
それが、同じ種族といえど、大勢のサルカズ―その中には、レトはまだ会ったことはないが、数百年を生きるというテレシスよりもずっと歳を重ね、同じくらいかそれ以上に強力なアーツや高い身体能力を持ち、自分たちの氏族をまとめる者が複数人いるのだという―をまとめるには相当の労力がいるのだろうとレトに想像させた。
しかし、はたしてこれほどだっただろうか?
肌の色は沈み、目の下には濃いくまが、眉間には深いしわがある。
そうであるともそうでないとも言いきれないのは、よく考えてみれば、レトがテレシスの顔をあまりじっくりと見たことがないからだ。
それはサルカズの王に対して無礼であるという以外に、レトよりも若い、成人していくらも経っていない青年のような見た目ながらも、実際にははるかに歳上だということを納得させるような、刃のように鋭く冷ややかな威厳を放っているからだ。
レトはその立場上、軍人のみならず、貴族や商人などさまざまな人々と会い、話してきた。
それには他の国の人間も含まれる。
しかし、これほどの緊張を感じる相手はそうはいなかった。
なので、レトはテレシスと話す時は、当然彼の顔を見てはいるのだが、注意を払っているのは、自分の話している内容やその話し方が、テレシスにどういう影響を与えているか、もっといえば、テレシスの機嫌を損ねてはいないかということだ。
つまり、レトはテレシスの表情の変化はよく観察していたが、そもそも彼の顔がどのような状態であるかというのはあまり意識していなかったし、そんな余裕はなかったのだ。
なので、そういうことに意識が向くようになったというのは、サルカズたちとの協力関係が始まってから数ヶ月が経ち、彼らに少しは慣れてきたということなのかもしれない。
とはいえ、彼らとレトの関係を親しいとはいえないが。
思考の波に飲まれ、気づけば、レトはテレシスの顔をじっと見てしまっていたらしい。
「なんだ」
と訝しげな表情を浮かべるテレシスに、慌てて謝罪する。
「申し訳ございません、殿下。不躾な真似を……」
しかし、それはテレシスにきっぱりと切り捨てられてしまった。
「私はお前の行動の理由を聞いている」
「それは……」
レトは思わず視線をさ迷わせる。
テレシスはレトよりずっと長く生きているし、そうでなくても、人の上に立つ立場の人間だ。
自分の体調のことはよく分かっているだろう。
また、レト以外にもテレシスの体調を気遣う人間はたくさんいるはずだ。
例えば、テレジアやマンフレッドのような。
テレシスも、そういった同じ種族の、身近な人間に心配をされた方が気分が良いのではないか。
自分などがテレシスを心配するようなことを言って、不快にならないだろうか。
迷うレトは、しかし、自分を射抜くように、まっすぐに向けられ続けるテレシスの視線に耐えかねて、正直に話すことにした。
「……殿下の顔色が、あまり思わしくないような気がいたしまして……つい……」
言った途端に、後悔がレトを襲ってきた。
「……」
黙ったままのテレシスに、それはますます激しくなってくる。
なんとかして誤魔化せばよかった。
しかし、どうやって?
「……」
「……」
訪れた沈黙にいたたまれなくなり、レトは
「差し出がましいことだとは承知しておりますが……殿下のことはきっと、私だけではなく、他の方々も……サルカズの方々も心配なさっているでしょうから……」
と言い訳のようなことを付け足す。
それでもなかなか口を開かないテレシスに、レトはこの沈黙が永遠と続くのかと絶望しかけた。
しかし、しばらくして、ようやくテレシスからの返答があった。
「……上に立つ者として、周りから見た己の姿を気にかけろということならば、鏡を見てみるがいい」
「……」
予想外の言葉にレトは驚き、思わずテレシスの方を見る。
自分から始めた話題とはいえ、テレシスが自分の健康状態に言及するとは思っていなかったのだ。
レトとテレシスは、お互いの体調についてだとか、業務に直接関係のないことを話したことは―つまり、雑談のようなことをしたことは今まで全くなかった。
とはいえ、テレシスの先程の言葉に心配や気遣いというものはあまり感じられず、ただ事実を指摘しただけという感じではあったが。
それから、レトはテレシスの言う通り、自分も大して健康的といえる生活を送っていないことを思い出し、
「それは……そうですが……」
と彼から視線をそらした。
そもそも、レトがストレスを抱え、疲労を積み重ねている理由の1つは、テレシスたちサルカズが、一応の秩序はあるものの、基本的には容赦のない暴力によってロンディニウムを占領していることなのだが、彼らと協力することを選んだのもレト自身だといわれれば何も言い返せない―そもそもそんなことをテレシスに直接言うほどの勇気もないが。
とまたあれこれと考えそうになったところで、自分が当初の予定よりもテレシスの時間を使ってしまっていることに今更ながら気づいた。
レトはとりあえず感じたことを素直に話し、会話を締めることにした。
「……摂政王殿下のおっしゃる通りです。実は最近、部下に気遣われることが増えておりまして……。先程、殿下にあのようなことを申し上げておいて、お恥ずかしい限りです。ですが、どうか殿下もご自愛ください。……では、失礼致します」
と微笑むと、今度こそ一礼をし、レトは部屋を出た。