無題*
(…何が起きた?)
ゼオンのこめかみからたらりと汗が垂れる。
自分自身も体力を消耗している上に、負傷により血液が不足している状態ではまともな状況把握が出来ない。
ずしりと腕にかかる重みと、戦場で色々な物の燃える臭いに混じって香るツンとした鉄のような匂い。
「ノア!」
いま、ゼオンの腕の中で命の灯火を燃やしているのは、我らがコロニー9のおくりびと、ノアだった。
油断していた。左翼の部隊が相手の攻撃により大打撃を受けたと報告を受けた一瞬の動揺で、目の前に迫る敵に気づくのが遅れたのだ。
ゼオンを庇うように手を広げた漆黒。はらりと落ちる羽根のように倒れ込むノアを慌てて抱き止める。
どうしてこんな前線にいるんだ。お前の持ち場は右翼の後方だった筈だ。そんな不平を述べたところで意識を失っているノアには届かない。
いま、この腕の中の熱を消すわけにはいかない。
ノアの胸から腹にかけて裂けた傷跡からドクドクと流れる血が少しでも減ってくれればと、ゼオンはノアを強くかき抱く。
(この熱は守らなければ。この熱は俺の………)
ノアが目覚めないまま3日が経った。
あの後、すぐに駆けつけてくれたヒーラーのお陰で傷は残らずに済んだが、無くなった血液は簡単には戻らない。
もしかしたら…。きっとだめだろう。そんな声がコロニー内で囁かれているのも知っている。
だが、諦めたくない。命の選択を迫られる場面には何度も居合わせた事があるが、これだけはどうしても認めたくなかった。
(昨日よりも手が冷えている…。)
寝台に横たわる身体からは日に日に熱が引き、良くなるどころかどんどん悪化しているように思えた。
ヒーラーではないゼオンには、この現状を変える術が分からない。
ノアの冷え切った手から、これ以上熱が引かないでくれ。せめて、自分の手から僅かにでも熱が伝わればと願いながらゼオンは握りしめている手に力を込める。
僅かに伝わる鼓動。
ノアの指がピクリと動いた気がした。
「………ぅ…………、」
か細い声と共に伏せられていた青い瞳が覗く。ゼオンは思わず寝台に乗り出しノアの顔を覗き込んだ。
「ノア、気がついたのか?」
「………っ…、」
ゼオンの問いかけに答えようと、声を出そうとするがそれは叶わずにノアの声は吐息となって消える。
申し訳なさそうな、不安そうな顔をするノアに掛けられる言葉を持ち合わせていないゼオンは、たまらずに目の前の身体を包み込むように抱きしめた。
(……生きている。)
とくん、とくん、と寝ている時よりも軽やかなリズムの心音が触れ合った箇所から響いてくる。
心音と共にじんわりと伝わる体温にノアの"生"を実感し、今までの不安や虚脱感が取り払われていくのを感じた。
ノアは戸惑うように身じろぎをしていたが、控えめにゼオンの背に手を回し、とんとんと優しく背を叩く。
心音と重なるように与えられる心地の良い掌の感触に、情けなく泣いてしまいそうだった。
「いつも無理も無茶も無しと言っているのはノアだろう。そんなお前が率先して無茶してどうする。」
どうして俺を庇ったりしたんだ。その役目は俺の…俺たちディフェンダーの役目だろう。
そんな不満をぶつけたところでノアの無茶は無くならない。それは分かっている事だった。
ここ数日間の、世界から色が消えたような、心にぽっかりと穴が空いたような空虚感を再び味わうのだけは嫌だった。
「こんな思いは二度とごめんだ。」
今までも沢山の仲間を失ってきたが、こんな気持ちになるのは初めてだった。
瞬きと共に一粒、ゼオンの瞳から涙が溢れる。
ノアの肩口をじんわりと濡らすそれにどうか気づかないで欲しい。気づいたとしても気づかぬふりをしてくれ。そう願いゼオンはノアを抱きしめる腕に力を込める。
ごめんと言うように、腕の中のノアがまたゼオンの背をとんとんと優しく叩いた。
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