余命幾許お花屋店員さん現パロ/モブ极街を歩いているとふと、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
近くの花屋から流れてくる香りだったようだ。そういえばこんな店があったような。別に花なんて好きなわけでもないのに相当疲弊していた俺はその日何故か引き寄せられるようにその花屋に立ち寄ってしまった。
色鮮やかな花達と優しい香りに包まれ、自然と日々の疲れが癒やされていくのを感じる。
ああ、意外にもこういうのも悪くないものなんだな。
「やあ、どんな花をお探しかな?」
斜め上から降ってきた初対面とは思えない馴れ馴れしい声に一瞬で俺の背筋は凍りついた。俺よりも頭一つ大きい影が後ろから迫ってくる気配に一気に全身から汗が吹き出す。逃げる勇気などあるはずもなく、恐る恐る後ろを振り向くとそこにいたのはまるで漫画の世界から出てきたかのように華やかな長身の美男子だった。
「いらっしゃい」
ふわりと微笑まれた瞬間、俺は頭が真っ白になった。
それが全ての始まりだった。
お兄さんの印象は初めて出会ったその日すぐに"なんだか怖そうな人"から"とても変わった人"というものに変わった。
凛々しく整った顔立ちに羽毛のようなふわふわとした綺麗な白髪、溌剌とした喋り口と妙に耳に残る明るい声。朗らかさと儚さを持ち合わせた独特の雰囲気と花の香りを纏う彼の巧みな話術に惹き込まれてしまった俺は気づけば花を抱えて帰路についていた。
独り暮らしの寂しい男の家に花瓶なんて小洒落たものがあるはずも無く、しかしこの花達をすぐに枯らしてしまうのもなんだか忍びない。何か代わりになるものをと、俺はそこら辺にあった大きめのペットボトルに水を入れ花を生けて机の上に飾ってみることにした。
あ、悪くない。
お兄さんのことを思い出しては胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。
そんなお兄さんのことが頭から離れなくなっていた俺は気づけば定期的に店に足を運ぶようになっていた。意外にもお兄さんは俺のことを覚えていてくれていて、何故俺なんかを覚えてくれたのかはわからなかったが、照れくさくもとても嬉しかった。
勿論そんな魅力を知っているのは俺だけ…なんてはずもなく、お兄さんは老若男女問わず愛される人気者だった。ある時には身を屈め子どもに目線を合わせて花を見繕ったり、またある時には店に訪れた女子高生の恋の悩みなんかを受けているようだったり。お喋りなご老人の話にも嫌な顔一つせずに付き合ったりと、誰からも頼りにされているお兄さんはちょっとした街の有名人だったようだ。俺は毎日でも通いたい気持ちを抑え、帰り道はいつもこっそりと店の前を通ってはそんな様子を遠くから眺めていた。
しかし何度も通えば家中のあちこちに花瓶、ベランダにはプランターと柄にもなく花にまみれた生活になるものだ。最初の頃は何もわからずすぐに枯らしてしまったりしたものだが、育成のコツがわかってくると徐々に長く花を楽しむことができるようになり、中にはまた来年が期待できそうなものまであった。嬉しかった。
ある日遂にお兄さんに聞かれてしまった。
「君、いつも花を買っていってくれるけど…もしかして誰かに贈ったりしてるのかい?」
「あ…いや、えっとこれは…全部自分用で…」
「そうなんだ、でもその調子じゃそろそろ君の家が花でいっぱいになっちゃうんじゃない?」
「うっ…だ、大丈夫です…!全部大事に育てていますし…!」
「あはは、そっか。そんなに好きになっちゃったんだ?」
「え」
「花。良いものだよね。僕も好きだよ」
売り物の花に視線を落としながら優しく目を細めたお兄さんに破裂しそうなくらい心臓はばくばくと跳ね、息の仕方すら忘れてしまうほどだった。
そんなお兄さんは時折顔色が優れないように見える日があった。元より透き通るように白く美しい肌は徐々に病的にも見えるような青白さが増していた。夏でもないのにぐっしょりと汗をかいていたり、たまに咳込んだり、絞り出すような声で喋ったり。
「昨日は夜も仕事してたからね…今日は寝不足でさ」
「夜も…?お兄さん大学生なんですよね?そんなに働き詰めなんて、学業の方は…」
「ああ…大学は最近辞めちゃったんだよね」
学歴なんかに縛られる人生なんて僕には似合わないって、君もそう思わない?いつものようにそう嘘か本当かわからないジョークを織り交ぜながら笑うお兄さんの笑顔に俺は少しだけ胸騒ぎを覚えていた。
それからも定期的にその花屋には何かと理由をつけて通い続けていたが、お兄さんに会える日は徐々に少なくなっていった。もうこの店で彼に会える時間は長くはないのではないか?何となくそう思っていた。
ならばぐずぐずなんてしていられない、今度会えた時気持ちを伝えよう。そう決心するのに時間はかからなかった。想いが実らなくてもいい、ただ貴方が好きだと…あの日貴方に救われ、どうしようもなく惹かれてしまったと伝えたい。
俺はこんなことを思えるようなタイプの人間だっただろうか?いつしか俺もお兄さんの前向きな人柄に染められてしまっていたことを自覚し、心がぽかぽかと温かくなった。
しかし次に足を運んだ時、あの花屋にはもうお兄さんは居ない事を告げられた。
「自分の足で動けるうちにどうしても見に行きたい景色や会いたい人達がいるんだと。俺も最後の日に初めて聞かされたんだよ」
お兄さんにはもう時間が残されていなかったことを初めて知った。後悔を滲ませる店主のおじさんの言葉を暫くの間理解できず俺は店の前で立ち尽くすことしかできなかった。
「君、最近すごく顔色が良くなったよね。」
「そ…そうですか?」
「うん。初めてここに来た時の君、今にも消えてしまいそうな顔してたから心配してたんだよ。きっと何かいいことでもあったんだね」
最後に交わした言葉を思い出していた。
お兄さんは手際良く5本の立派な赤い薔薇と小さく白いかすみ草をバランス良く包む。最後にリボンをきゅっと結び、綺麗な花束が完成すると俺に差し出してくれた。
「なんにせよ…君が元気になってくれて良かった」
ああ、この人は本当に、どこまで人を魅了すれば気が済むのだろうか。
最初に出会った日と同じ優しい声でお兄さんは微笑んでくれた。
どうして何も教えてくれなかったのか?
彼の人柄に惚れきってしまった俺には、それすらも理解できてしまうことが堪らなく悲しかった。呆気ないものだ。空っぽになった帰り道、そういえば彼の名前すら知らないままだったことに今更気がついて、弱々しく掠れた笑い声と涙が溢れた。
お兄さんの見たい景色は、会いたい人たちは、一体どんなに素敵なものなのだろうか。何年経ったところで事実は受け入れられず、彼の現在…生きているのかどうかすら知る術も無い。まだ彼は何処かで元気に暮らしているのではないだろうか。何処かでまた誰かの心に潜り込み永遠に枯れることのない花を振り撒いているのではないだろうか。
時の流れと共に夢の中の出来事だったかのようにも思えてくるあの日々を思い出す度に、俺は花を買いに行ってしまう。まだ彼が何処かで今も自由に羽ばいていることを願い続けずにはいられないのだ。