まどか君のはなし(性転換注意)「まどか君のはなし」
あれは確か、瀬名さんがおじいちゃんに師事するようになってから、一年ほど経った頃のことだったと思います。
今となっては庭師の叔母さまくらいですが、当時の屋敷にはまだ住み込みで働いている方が何名かいて、その中でも一等若い瀬名さんは、出掛けて行くたび僕の恰好の遊び相手になってくれました。
一緒にお庭を駆けたり、秘密基地をつくったり、夜に内緒でお菓子パーティをした事もあります。
とびきりおめかしをして、大人に見つからないように声をひそめてかわす他愛もないお話。お行儀悪くシーツの上で齧ったクッキーは、それはもう格別の味がしたものです。
今でこそ、お姉さんには少し退屈な遊びだったろうなと想像もつきますが、あの頃の僕は瀬名さんと一緒に遊ぶ事がただただ楽しく、また瀬名さんもそうであろうと思っていました。
幼い考えで、仲良しの翼お姉ちゃんに僕の知らない所なんてないと、根拠もなく信じきっていたのです。
おじいちゃんのアトリエを訪ねても、しばしば一人で遊んでいなければならない時があります。
あの日もそうで、通された部屋の大きな机で僕は絵を描いていました。
エンジェリー・シュガーのキラキラしい洋服達に囲まれ憧れて育った僕は、洋服の絵を描くのが好きで、自分も一端のデザイナー気取りでスケッチブックを埋めていました。
丁寧に描いた黒い主線の中を、ピンクや黄色、色とりどりのクレヨンで、これまた丁寧に塗って、出来上がった会心の一枚。
その絵は自分でも震えちゃう程の出来でした。
おじいちゃんに見せたら感涙するに違いない、今すぐ見せにいかないと。
素晴らしい一枚を手に意気揚々と廊下に飛び出した僕は、おじいちゃんより先に、向かいの作業場の中、瀬名さんの姿を発見しました。
半分ほど開いた扉の向こうで一人佇む様子ではあたりに人はいないようでしたが、一度作業中に邪魔をしてこっぴどく叱られた事があったため、様子を伺いながらこっそりと近づきます。
彼女にも見せてあげようと思ったのです。
物を取りに来ていたのか、瀬名さんのいる作業場は作業をしている様子がなく、電気すら付いていない様でした。
日光が窓から柔らかく射し込む静かな空間で、瀬名さんは手に持った何かを熱心に見つめています。
手の中で金具がキラリと光り、僕はそれがなんだか思い当たりました。
(あのブローチは…おじいちゃんの)
瀬名さんが持っていたのは、つい先日までおじいちゃんが作っていたブローチでした。
一針一針丁寧に施された刺繍は大変に見事で、未完成のころでもうっとりとするほど。密かに憧れていたあの胸飾りを、彼女が受け取ったのかと思うと、少し悔しく羨ましい心持ちがしました。
しかし、師の作品を鑑賞するにしては、その横顔は硬く妙な緊張を帯びていて、まるで知らない人のようです。
(翼ちゃんは怒っているの?)
彼女の緊迫した様子に動揺した僕は、声をかけることも立ち去ることもできずに、ただ覗き見ることをやめられませんでした。
しばらくの間マジマジと手の中のものを見つめていた瀬名さんは、それをツと持ち上げ、うやうやしく触れるようなキスをしました。
控えめなリップ音、少し赤い顔、手の中のブローチ
あの瞬間の僕の感情をなんて説明したらいいのか、未だに良くわかりません。
何年も前に亡くなったおばあちゃんの事や、一緒に食べたクッキー、衝撃と、知らない顔をした翼ちゃんに対する怒り
様々な感情がないまぜになりパンクした僕は、走って庭の奥に逃げました。大人が滅多に来ない木陰まで行って、訳もわからず泣きました。
あの素晴らしい一枚は、残念な事に陽の目を見る事なく僕の涙と鼻水、それから泥で台無しになり、それを見てまた泣いて、庭師の叔母様に発見される頃には泣き疲れて眠っていたそうです。
かわいいですね、僕。
結局、あの人がおじいちゃんをどう思ってたかは知りません。不器用なあの人が自分の感情に名前をつけられていたのかすらも、わかりません。
ただ一人、見てしまった僕はあの場面を何度も思い出します、あの部屋を、あの時の彼女を、あのキスを。
その度に何だか妙にささくれだった気持ちになります。あの時から、何故だか優しく出来ないのです。
僕は未だに怒っているんでしょうか、でもそれって何に?
とにかく、本当に厄介な人です。