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    tomo

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    tomo

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    pixivからの移行です。

    フロッピーディスクからホームページ時代の古のデータを救出したので再録します。
    お題サイトからお題を拝借して書いたものです。
    (お題サイトの名前やURLのデータは残っていませんでした。申し訳ありません。
    素敵なお題をありがとうございました。)

    #島準
    ##島準
    ##おお振り

    灰と藍の想い10題(島準)*鳥のように不自由なひこうき

    さして興味があるわけでもない雑誌をぱらりぱらりとゆっくり捲りながら、準太はぼんやり物思いにふけっていた。背後のベッドでは何の予定も無いまったりとした午後を満喫するように、島崎がごろごろと寝返りを打っている。その気配を背中で感じつつ、一向に交わらない視線に(この体勢でそれは当たり前なのだが)準太はすこし焦れて、くるりと背後を振り返った。
    自分くらいの年頃の人間は、己を他者に理解してもらえないもどかしさや葛藤でぐるぐるしがちな気がするが、準太は自分に限っては寧ろ逆なんじゃないかと思っていた。周りは自分のことをよくわかってくれているように思う。試合中はともかくとして、日常生活においては気持ちが顔に出るタイプだからかもしれない。なんでも表に出てしまうなんて格好悪ィなあと思うけど、それがこのギスギスしない人間関係を形成するのを手伝っているのだとしたら、それもまたいいか、と思う。
    それどころか、準太は偶に、隠している内面や自分でも気づかない振りをしている性質を、いとも簡単に見抜かれていたりして、度肝を抜きそうになることさえあった。そういう時準太は、見透かされた自分に頭を抱えつつ、理解されていることが嬉しいような、複雑な感情に囚われる。
    布団と仲良くごろごろしている島崎の視線は、相変わらず天井と壁を行き来していた。全くもって気の抜ける様子だ。とても時折自分を芯まで見抜いては震わせる人間と同じ人物とは思えない。
    慎吾さんはオレのことわかりすぎてる気がしてこわいです。
    笑いながら偶にそう口にする。けれど、そう言うと島崎は、「そうかな?」そんなことないよ、って顔で首を傾げる。そして、言われなきゃわかんないよ、と言うのだ。
    …そうですね、言わなきゃ分かんないですよね。
    準太は首を捻ってしばらく島崎をじぃと見つめていたけれど、いっこうに変わりそうもないこの空間に、妙な幻想は捨てて自分で終止符を打つことにした。身体ごとそっちに向けて、先ほど不意に心に浮かんだ言葉を、欲求を、紡ごうと口を開いた。割と切実だ、と思った。
    「慎吾さん」
    けれど、そういうときに限って、島崎は何も聞こえていない振りをする。
    準太の呼びかけは受け取られることなく、静かな部屋に拡散していき、再び部屋はしんと静まり返った。先ほどよりゆったりと寝返りをうつ島崎を眺めて、本当に眠ってしまったのだろうかと準太は一瞬思ったが、たぶんそれは違うだろう。単純に、その先を聞きたくないだけだ。
    この人は頭がいいから、その時の前後関係とか、一つ前の言葉からの間とか、己の声のトーンとかで、これは「うん?」ってその先を促してはいけないものだ、ということを直ぐに察知してしまう。先を促せば自分が面倒くさい立場に立たされるであろうことに気づき、忽ちにそれを回避してしまうのだ。
    島崎は己を守る手段を知りすぎている。
    それが準太にはすこし寂しく感じられた。
    踏み込まないことで己も相手も傷つくのを回避するやり方は、彼を今まで取り囲んできた環境が彼に教えてきたもので、この歳にしてそんな大人の狡さを自然身につけてしまった島崎を思うと、準太はどうしようもなく切なくなった。本当は、もっと手を伸ばしてもいいのに。先を促して、突っぱねてもいいのに。オレはそんなに簡単に、壊れたりはしませんよ。
    「慎吾さん」
    ベッドでごろごろしてこちらに視線を向ける事もない島崎に、もう一度よびかける。今度は返事を待つのはやめよう。
    最初に続けようとしていた言葉ではない言葉を選んだ。
    「触っても、いいスか」
    「何をー?」
    うつ伏せになった島崎から、すこしくぐもった間延びした返事が返ってくる。先読みして見透かすくせに、平気で分かっていない振りをするから性質が悪い。どっちなのかはっきりしてください。いや、そんなの、どっちもなんだろうけれども。
    解っているくせに、とムムと眉を顰めつつ、ちょっと恥ずかしくなりながら告げる。
    「慎吾さんを」
    「んー いいよ~?」
    そう言うと島崎はくるりと仰向けになって腕を広げた。なんだそりゃ、抱きつけってか。
    準太はのそのそと立ち上がると、ぺしゃっとその上にうつ伏せて乗っかった。
    猫をなでるような仕草で島崎が準太の頭をくしゃくしゃなでる。
    「重く、ないスか」
    「まあ軽くはねェけど。全然ヘーキ」
    「そっすか」
    「うん」
    しばらくすると、島崎は準太のわき腹に手をそえてぐぐっと上へ力を入れ、両足を準太の身体の下でごそごそと動かしはじめた。
    「な、何スか」
    「ちっちぇー頃やんなかった?高い高い~」
    慌てて尋ねるとそんな返事がかえってきて、準太は呆れた。どうやら両膝を曲げて足でも準太を持ち上げたかったらしい。ほぼ同じ体格でそれをやろうなんて、アホじゃないだろうか。
    「そんなの、オレじゃなくて自分の子ども相手にやってくださいよ」
    あんまり下で動かれるとむずむずするしやめてほしい。
    「あー、うん、そーね」
    島崎はまたのんびり返事をすると、大人しく足を動かす事は諦めた。
    脇腹に添えた手だけに微かに力を入れる。どうやらこの戯れ自体はまだ続行を諦めていないらしい。
    「はい、ブーン」
    言われたのでばたばたと両腕を動かすと、ぶぶっと島崎は笑った。
    「それじゃ不恰好な鳥じゃねーか」
    へへ…と準太は息を漏らすように笑い、島崎が手から力を抜いたのを確認してゆったりと体重をあずけると、広げた両腕の手首だけを静かに上下させた。
    「鳥は精密機械じゃないんで、」
    「うん?」
    「繊細だけど、ちょっとくらい怪我して不自由でも、逞しく、飛びますよ」
    知ってましたか?そう静かに問いかけると、島崎は眠そうな目をちょっと瞬かせた後、あーそうね、と相槌をうった。
    オレは精密機械じゃないから、ちょっと不自由になったくらいで、ダメになったりはしません。だから、そんなに慎重になってくれなくてもいいんですよ。
    そんな真意が伝わったのかは謎だったが、気を取り直したように再び手首に力を入れると、島崎は言いなおした。
    「じゃはい、ぱたぱたぱた」
    言われて合わせてぱたぱたぱた、と手を動かす。ぱたぱた、ぱたぱた。
    下でこらえ切れないように島崎が身体を震わせて、腕を動かしながら準太もぶぶっとふきだした。
    二人一緒に脱力する。
    「あーなにやってんのかねぇ、オレたち」
    「暇なんスよね。…でも、幸せです」
    それを聞いて、島崎はどこかくすぐったそうにすると、くしゃくしゃと準太の黒髪を撫ぜた。準太は甘えるようにその掌に頭を押し付ける。
    「オレはね、準太を守る為ならサイボーグにでもなってみせますよ?」
    「ぶっ じゃあオレは慎吾さんがオレを守りやすいように、オイル技師になります」
    「なんつーピンポイントな技師だよ。そこは守られることを否定するとこじゃねーの?」
    「そっすか?んなの、今更でしょ?」
    「あー…」
    ふいに手の動きが止まったので、催促するように準太が島崎の耳元に擦り寄ると、島崎はまたくすぐったそうにもぞと動いて、
    「そいや、そーね」
    優しい手の動きを再開させた。
    「はい」
    準太は己が投手として背を守られていたということを指して「守られる事は今更だ」と言ったのだが、島崎はそれとはすこし違う意味で実に今更であったと思った。打たせてとる投手、というのは、守備陣が捕り易い球を打たせてアウトをとる投手である、ということだ。島崎にとっては「準太に守りやすくしてもらうのは今更だ」だった。準太はずっと、島崎たちが守りやすいような球を投げ打たせていた、のだから。
    「そいや慎吾さん、さっきなんで無視したんすか」
    何となく尋ねても平気そうな雰囲気になったので、準太は何となしに訊いてみた。
    「んー?」
    「さっき。聞こえてない振り、したでしょ?」
    「あー、そしたら何度も呼ぶかなって」
    「?」
    「オレの名前」
    瞬間準太は頭をガツンと殴られた気分になった。
    「――――」
    なんてことだ。
    聞きたくなかっただって?求められる事を回避していた、だって?勘違いも甚だしい。
    バリケードどころか、彼は滑走路に立ち諸手を振って着陸を催促していたのである。
    「ん?」
    思わず腕を立て起き上がり、呆然と顔を見下ろすと、島崎はどした?どした?とでも言うように、寝転がった体勢のまま小首を傾げた。どうやらこれは本当らしい。
    「馬鹿じゃないすか…」
    あんまりに吃驚して思わず真顔で口を滑らせてしまった準太は、拗ねた顔の島崎に今度はリアルに頭を叩かれた。



    *ただひとりの理解者?

    高瀬が他校との試合に初めて登板したのは、上昇しきった太陽の熱が尾を引くようにグラウンドを包み込んでいた晩夏だった。
    まだ鮮やかに残る夏の記憶の残像に、建前としては一区切りつけていたとはいえ、オレ達の気分は若干まだ沸き立ったままだったのだろう。案の定、そんな浮き足立ったまま物事が上手く運ぶわけもなく、4回を回ったところでオレら新生桐青は監督から酷い叱責を受けた。
    次の回から登板するよう指示されたのは、この春高校に上がってきたばかりの、まだ顔にも幼さを残したような一年生投手。友人の和己と同じ中学からの持ち上がり組で、入部当初から酷く和己に懐いていたから自然慎吾の視界に入ってくることは多かった。多かったけれど、ではとりわけ何か高瀬に対する印象があるかというと、そうでもない。
    峰ちゃんを奮起させる為にしろ、色々試してみるにしろ、時期尚早じゃね?と(勿論口には出さず)顔を見合わせる二年を置いて、監督のバスのきいた「投げられるか」という問に高瀬が「はい」と即答する。どうなんよ?という気持ちで慎吾が和己の方にちらっと視線をやると、一つ軽くウインクを寄越されて、ふーん?と思ったが、その後マウンドに立った高瀬の存在感に慎吾は舌を巻いた。
    浮き立った陽炎に揺らぐ目を覚ますように、マウンドに落とされたそれは静かに波紋を成し、音も無く慎吾たちを震撼させた。目配せを寄越した和己がいっそ憎らしいくらい鮮やかに、まだ発達途中の若い背中から肩、腕、そして指先が繰り出した白球が、弧を描いて冷たく深くミットに沈んでゆく。
    やべえ、面白い。
    たぶんそう思ったのは己だけではない。ちらと視線をやると、同じように新しい秘密基地を見つけた子どものように、好奇心と興奮で目を輝かせた山ちゃんと目が合った。
    コントロールがぶれる。打たれる。一瞬身体が強張って、それでも表情は変えない。また真っ直ぐに捕手と向き合う。次はスライダー。耳をつく金属音。でも投げ勝ってる。捕れる。
    結局その試合は負けてしまって、オレたちはしこたま怒られる羽目になったけれど、試合前の何の根拠も無い自信と空回りするやる気はきれいに打ち消され、もっと確かな感覚としてオレ達は何かできそうだ、という予感を胸に抱いていた。
    打たせてとるこのバッテリーの在り方が、精神的にチームに浸透するのに時間はそうかからなかった。勿論、軸になって全ての歯車がうまくかみ合うのには大変なエネルギーを要したが、その中心に立つ高瀬の、危ういと思える程の純度の高い熱が、俺達を突き動かした。無表情を決め込んでストイックにマウンドに立つ一年投手は、その裏にひどく強い我を隠し持っていて、そしてそれと同じくらいに、和己を強烈に信頼し敬愛していた。それがこのバッテリーをタイトであらせていた。打たれた悔しさとそれでもチームを勝たせるというプライド。和己はそれを慮りしっかり受け止めた。
    そんな背を守りながら、バッテリーは特別なのだと、改めてそれを実感していた。
    慎吾にとって準太の背中は実に身近な核で、同時にひどく遠い存在として、目に映った。奥底で青い炎をけぶらせる強い眼差しも、太陽の熱さえ吸収して艶やかに靡く黒髪も、ユニフォーム越しに伝播してくる躍動も。すべてそれは和己に向かって投げられるものだ。
    そういえば入部式の自己紹介の時、高瀬準太っていう漢字の並びと響きが妙に綺麗に思えて、少し反芻してみたんだっけ。
    遠い川の澄んだ流れを眺めるような気持ちで口にした。
    高瀬準太
    「はい?」
    「はい?」
    かち合うと思ってなかった視線がこちらを向いていて、慎吾は思わず身を強張らせた。
    やべえ思わず思考にふけってた。
    監督に言われたフォームのチェックをざっとおさらいして、ちょっと気になったことがあって専門誌開いたら思わず夢中になっていて、何いっても生返事のオレを見かねた和己に用事があるからってそういえば鍵を手渡されて、そしたら自主トレしてたらしい準太が戻ってきて、気づけば部室に二人きりで。鍵返しておくんで気にせず帰ってくださいっていう準太に、いやいいよまだコレ読んでるしっつって、でも実はそろそろ興味あるトコ読みきって飽きたところで、これといった会話もなく、静かに着替える準太の背中を気づけばぼんやり眺めていた。
    「え、今呼びませんでした?」
    「え、オレ呼んだ…?」
    「はあ、しかもフルネームで」
    あ~、と慎吾は目を泳がせた。まさか口に出ていたとは。ぼんやりするにも程がある。
    自意識過剰だよ、なんて言って誤魔化そうと思えばできないこともないだろうが、あまりにそれは言いがかりすぎて準太が可哀相だ。予期せぬ事態に頭はまだすこし混乱していて、他に上手い言葉も見つかりそうにない。変に訝しがられる前に素直に白状しておこう。
    「あー、ごめん、ぼーっとしてた」
    慎吾がそういうと、準太はぽかんとして、黒い大きな目をぱちぱちと瞬かせた。そしてふっと息を漏らすと肩を小刻みに震わせ始める。
    あ、これ身近でみるのはじめてかも。身近っつーか、自分に向けてっていうか。
    「なんだよ」
    「だって、ぼーっとして、たっ、たかせじゅんたて…ふっ…」
    自分の失態に顔が火照りそうなのを必死で押さえ込んで、慎吾は眉を顰めて頭をかく。
    準太はそのまま肩を震わせながらずるずると自分のエナメルの鞄を引きずって、慎吾の隣にすとんと腰を下ろした。
    羽織っていただけのシャツのボタンを上から二つを除いて留めて、黄檗色のネクタイに投手らしい無骨で長い指を通しながら、準太は口を開く。
    「でも、嬉しいスよ」
    「は?」
    「名前、覚えられてんの。慎吾さん、あんま下に興味なさそうだし…って偏見スけど」
    すんません。そう言いながらも、ちっとも悪びれない顔でへへ、と笑う。身近でみる準太の顔は活き活きしていて、試合中の澄んだそれとはまた別の、七色に気まぐれに変化する光を宿していた。
    「機嫌、いいな」
    「そら、勿論」
    そのまま鼻歌でも歌いだしそうな軽やかな口調で準太は答える。そういえば今日は和己に褒められてたんだったっけ?或いは自主トレでなんか上手くいったのかもしれない。まぁ、別に理由なんてどうでもいいけど。
    不思議なのは自分まで気分が高揚しそうになっていることだった。試合中バッテリーから浸透してくるものは多いけれど、ここにきてそれが加速している気がする。投手という生き物はゲームをはなれてもこれほどまで周りに影響を与えるものだったろうか。否、投手というのはこんなに近くに存在するものだったろうか。
    「慎吾さん」
    「お?」
    緩く結んだタイを見つめていた準太がぱっと顔を上げて、慎吾を見た。
    「明日、勝ちましょうね」
    そういって笑った準太に、思わず息を飲んだ。
    真っ直ぐ自分に向けられた瞳。
    夏の太陽の残照を受けて眩く輝る川のように。純粋な野心を内に秘めた美しい強さ。
    怒涛に流れ込み、立ち昇る。
    「おう」
    手を差し出したのは、無意識だ。それにまた準太は嬉しげに顔をくしゃっとさせて、握り返してきた。握った手を通して、直接熱が伝わってくる。それはとても熱く、リアルに慎吾の心臓へ駆け上がってきた。
    目の前の存在から、目が、はなせなくなる。
    奥底で青い炎をけぶらせる強い眼差しも、太陽の熱さえ吸収して艶やかに靡く黒髪も、ユニフォーム越しに伝播してくる躍動も。静かに浸透するなんて生易しいものじゃない、これは。こんなのは。
    熱い。焼け焦げそうだ。
    おいおい、よりによって、
    慎吾は己に警鐘を鳴らす。
    和己のかよ、
    握り合った手を数度軽く振って放す。
    やめとけって、自分。
    「鍵は」
    「いーよ、先帰ってしっかり休みな」
    「あざっす。それじゃ慎吾さん、お疲れさんっした」
    「おう、お疲れさん」
    準太はぺこっと深く頭を下げると、自転車置き場の方へと向かっていった。
    赤く燃える夕空のグラデーションの端は既に深い紺色で、直ぐにでも夜の帳が落ちるだろう。
    それを一度見上げて、慎吾は同じように己の熱に蓋をすることにした。
    この感情を知っているのは、遥か遠くから高瀬を輝かせる夏の太陽だけでいい。
    けぶる砂塵、涼やかな瀬。
    焼け付くようなあの日差しだけが、この感情を理解している。



    *「底意を見るな」

    暗がりの帰り道を四人でだらだら歩きながら、くだらない話に花を咲かせていたら、何でか人生の指針みたいな話になった。下校中の与太話ほど取り留めのないものはない。
    緩やかな下り坂を歩きながら、冗談なんだか本気なんだか、
    「人生ラブ&ピースだよな」
    なんて和己が言いだすから、思わず慎吾は吹き出してしまった。
    「いやいや、ギブ&テイクだろ」
    ニヤリと笑ってそう言うと、横から利央がじゃーオレはねぇと続ける。
    「キャッチ&スロー」
    「ほーぅ」
    捕って投げるとは、全くもって捕手の鑑だ。
    感心なことだ。そう慎吾が思っていると、
    「キャッチ&リリースじゃなくて?」
    準太がニヤと嫌な笑みを作って利央に視線を寄越した。
    「…どういう意味…?」
    「んー?」
    準太は利央に対しては本当に構いたがりだ。
    「美味しい餌で釣ってはバイバイ~ってことだろ」
    「ちょっヒドっ!オレそんなことしてねーし!」
    「モテる男は辛いなぁ利央」
    「別にもてないって!あれはさあ…!」
    「あれは?」
    「あっ」
    「あれは?」
    期待通り口を滑らせた利央に準太の笑みが深くなる。
    「っ…~~~」
    助けを求めて利央の視線が彷徨う。けれど、フォローしてくれそうな頼れる元主将と言えば、そ知らぬ顔で民家の屋根のカラスを仰いでいる。別に無視をしてるわけではない。単に興味の問題だ。
    よほど度を超えた言い合いにならない限り、基本的に和己はこの後輩達のじゃれあいにノータッチだ。オレや和己からすると、準太と利央のそれは和む対象になりはしても、その話題自体はおおよそ興味からはずれたところにあるのだから、それも当然のように思われる。
    和己の視線を追ってカラスを一瞥した後、視線を戻すと眉を八の字にした利央と目が合った。仕方ねえなぁ。
    「ところでお前ら、キャッチボールする、の英訳は分かってる?」
    「プレイキャッチボール?」
    「ば~か、プレイキャッチだっての」
    助け舟を出されて少しほっとしたような表情で誤答を口にする利央の頭を、準太が笑って軽く叩く。その眼差しにはからかいながらもどこか優しげな光が含まれていて、あぁそういえば時々この子はこういう目をするのだ、と慎吾は思った。弟を見守る兄の眼差し、とでもいうのだろうか。揺さぶって散々弄り倒すのに止めは絶対にささなくて。空気がほっと安らぐ一呼吸の間に、酷く近くて酷く遠い目をする。穏やかだ。
    先輩後輩という関係が出来て少しだけ慎吾は先を歩く感覚を覚えたけれど、背中の存在を振り返る感情を、たぶん自分は準太や和己ほど芯の部分では知らないから。それが時々ほんの少しだけ、憎らしい。
    叩かれて乱れた髪を撫で付けながら、利央が眉を顰めながらplay catchを復唱する。
    そして眉を顰めたまま、小首を傾げた。
    「え、ボールはどこいったの…?」
    「―」
    実に自由な疑問提起を受けて、二度ほど瞬きして真顔になった準太が、窺うように一瞬だけこちらを見る。おや、と思ったときにはすでに視線ははずれていて。
    すると唐突に、今まで会話に参加しないどころか聞いてさえいなかったように見えた和己が、慎吾の傍らでしれっと口を開いた。
    「そりゃあれだ、リリースでもされたんだろ」
    「ぶはっ」
    思わず絶句した慎吾の耳に、涼やかな風に乗って遠くガタンガタンという電車の音が聞こえてくる。
    腹を抱えて和さん上手ぇとひぃひぃ笑い出す準太と、それにはははと笑いかけ再び上空に視線をやる和己を、利央と慎吾は唖然と見やって、苦々しく顔を見合わせた。
    あえなく粉砕した船の破片にしがみついて海をぷかぷか浮いている気分。

    「Good-bye baseball 」
    「ホームランっ」
    書店に行くらしい和己と利央の二人と途中で別れた後も、どことなく投げやりな気分だった慎吾が沈黙を破って呟くと、静かに隣をついて歩いていた準太が追ってその訳を同じように呟いた。
    「…そういや、ところでお前はどーなん?」
    「はい?」
    「人生、キャッチ&リリース?」
    「ああ」
    軽く首を傾けちらっと準太のほうに視線をやって、少しからかってみようかな、というのを装ったトーンで聞いてみる。すると準太は笑って、
    「オレは和さんと同じっス」
    と答えた。
    「あ、そ」
    「はい」
    結局和己オチね、とまたも不貞腐れたい気分になっている自分とは裏腹に、そんな己を見つめてくる準太といえばにこりと笑っていて、オレは慎吾さんをリリースしたりしませんよ?という顔している。むかつくなあ、こいつ。
    脇腹でもつまんでやろうかと思っていると、ふいに準太が視線を切って「でも」と口を開いたので、慎吾は首をかしげた。
    「慎吾さんがギブ&テイクっていうのも結構意外っつーか」
    「ん?」
    「慎吾さんはどっちかってーとギブ=テイクって感じスよね」
    隣を歩く準太が相変わらず笑顔で漏らしたその言葉に、慎吾は思わず目を見開いて足を止めた。
    確かに、誰かの幸せを思って起こす行動は、その相手が幸せであることが己の幸福だからで、結局のところ自分の為だ、と思っている。無償の愛なんてない。全ては自己満足の為だ。与えることは、与えることによって自己の満足を得るためで、即ち、ギブはテイクであり、ギブがテイクであるなら、テイクを請う必要は無い。強請らなくとも、自らが動きさえすれば、与えられる。満たされることができる。それが慎吾の幸せの方法だった。準太にも、そうして向き合ってきた、と思う。
    けれど、そんな慎吾のささやかな幸せの法則を軽やかに飛び越えて、準太は朗らかに笑って言った。
    「でもオレはラブ&ピースなんで」
    “慎吾さんはもっと強請ってもいいんですよ”
    そう言外に含ませて、歩いてゆく準太の背を、呆然と見送って立ち尽くす。
    許す眼差し、許す背中。手渡される。尽きるともない、溢れんばかりの。
    うわ…オレ…
    すげえ恥ず…
    思わず口を手で覆った慎吾は、顔から火が出るとはこのことを言うのに違いない、と思った。

    ('08/07/23)



    *甘つけば数種は黙る

    「あ、うめえ」
    「うまいっすよね」
    フェンスに腕をのっけてゆるりと体重をかけながら、トリュフを口に入れた慎吾さんがうっとり~と目を閉じるので、自分も同じようにフェンスに腕を組んだ体勢でうっとり~と目を閉じた。
    まあ実際凄い美味いんだよな、これが。
    うちのクラスには無類の菓子作り好きの双子がいて、二人分の手があるだけに、季節のイベントやらクラスメイトの誕生日やら何かにつけて菓子を作ってもってくる。大抵セルフサービスでどうぞーて感じなんだけど、何故今オレの手許に専用のバレンタインチョコがあるかというと、兼・休日だった誕生日のプレゼント、だからだ。別に告白されたとか、そういうのではない。昼休憩、持ってこられた時は一瞬ドキっとしたけど(まあ仕方無いだろそんなの)、オレに彼女(じゃないけど本当は。)がいるのは周知のことで、高瀬の彼女ってこういうのも気にする~?てさばさば言われたので、今度は噴出しそうになって大変だった。
    ううん気にしないよ、って言って貰った。貰ったら慎吾さんからメールがきて吃驚した。
    今日は朝方は雪がちらついていて微かに積もってさえいたのに、昼を過ぎた頃から急に日が照ってきて、ちょっとした小春日和みたいになっていた。授業が終わると、階段をひとっとびに駆け上がり、久しく開けてなかった重い扉を押し開けた。滑り込むようにしてゆるんだ空気の中に出ると、すぐに腕が伸びてきて、オレはぽかぽかしたお日様以上の温もりに包まれた。
    こうしてのんびり屋上でだべるなんて久しぶりだ。
    「来年はオレが作ってあげますよ」
    「え、マジ?」
    冗談で言ったつもりだったのに、慎吾さんは意外にも嬉しそうな顔をした。表情自体はあんまり変えてないものの、一瞬きらきらっと目が輝いたのを見てしまったオレは、内心ちょっと焦る。
    え、マジ?はオレですよ。え?マジ?オレ来年は慎吾さんにチョコ作るの?我ながら想像しがたい光景だ。
    慎吾さんのそわそわはたった一瞬だったにも関わらず、着実にオレに伝播して、オレはこのままではとても居た堪れない気分になりそうだったので、慌てて口を開いた。
    「そんでレシピもらったんス、これもらう時。オレの彼女大のチョコ好きだからホワイトデーにはチョコ返したいんだけど作り方教えてくんないー?って、冗談っスよ」
    「あ、冗談…」
    「はい、冗談」
    いきなりまくし立てられて吃驚したのか、思わず無表情になってオレの独白を聞いていた慎吾さんは、ゆるゆる小さく首を縦に振りつつ、あー冗談ね、冗談、冗談…とオレの言葉尻を何度かぼんやり復唱させていたが、しばらくして眉を顰めた。
    「… え どれが?」
    「?」
    問いかけにオレがしらばっくれてきょとんと小首を傾げると、
    「イテッ…!!」
    慎吾さんは眉間に皺を寄せて徐にオレの頬を引っ張り、オレが悲鳴をあげた隙に手の中にあった箱からもう一つトリュフを奪い取って、ぽいと自分の口に放り込んだ。ふてくされた顔で口をもごもごさせながら、唸るようにぼやく。
    「人を翻弄しやがって」
    「怒んないでくださいよ」
    「今オレが一瞬のうちにどれだけ余計な思考をめぐらせたと思ってんだ」
    慎吾さんの声音は苦々しかったけれど、その言葉はオレにはひどく甘いもので、それはまさに今の慎吾さんの口の中と同じ味なんじゃないかと思った。にがくて、あまい。
    「慎吾さん」
    「うるせー」
    「慎吾さん」
    「知るか」
    「慎吾さ、」
    「うぜぇ」
    「慎吾さんキスしたい」
    オレが思ったそのままを口にすると、そっぽを向いていた慎吾さんは微かに身を強張らせた。
    「…やだ」
    「冗談じゃ、ないです」
    頑なにこちらを見ようとしないその横顔を見つめながら、オレが畳み掛けると、慎吾さんは漸く首を傾けてこっちに視線を寄越した。
    「冗談だったら殴る」
    するりと静かに言葉を返すその眼差しがとても鋭くて、オレは指先がピリと痺れるのを感じながら、すぐに首に腕を回すと慎吾さんの唇に吸い付いた。
    慎吾さんの口の中は、思っていたより甘い味がした。



    *今日まで眺めつづけた孤影

    花見の季節といえど、平日の昼ともなれば静かだ。ときおり強く吹きつける春風が、瑞々しい草木と土の匂いを運んできて、乱れる髪がいかにも春という気分にさせる。準太は木の柵に手をかけ乗り出すように空と街並み眺めていた。視力はいい方だったはずだから、眼下には薄桃色をした桜並木と、お堀を泳ぐ鴨の姿なんかも見えているのかもしれない。さっき橋の上を通った時は、ご老人がのんびりとパン屑をやっていた。
    オレは丸太を割ったような木製ベンチに寝転がったまま、くあ、とひとつ欠伸すると目を閉じた。頭上で桜の木がさわさわいっている。仄かな日差しは温かく心地よい。このまま眠ってしまいそうだ。
    しばらくして、閉じた瞼に陰が射した。
    「そろそろいきましょうか」
    「んん」
    片目を開くと、こちらを覗き込むようにして準太が傍らにしゃがみこんでいた。軽く首を傾けて瞬きするその仕草がとても柔らかく、好ましいなと思う。んーと伸びをすると、腕にくっついていた桜の花びらがまた風にのってふわりと飛んでいった。
    それを準太の黒い透明な瞳が追って、そしてまた自分へと向けられる。
    「眠いスか」
    顔を窺うように尋ねてくる準太の肩越しに、春空が広がるのを見て、オレは目を細めた。
    「準太抱っこして」
    「は」
    呆気にとられて思わず顔を凝視してくる準太を無視して、オレははマイペースにゆるりと両手を伸ばし「んー」と言って催促した。
    「何でスか、イヤっスよ」
    「だって足だるい」
    眉を顰めて身体を引く準太に、ちょっと口を尖らせて見せながら(本当はちっとも気分を損ねてなんかいないと知られているのは分かってる)子どもみたいな駄々をこねてみる。
    「たかが二の丸じゃないスか、自分で歩けるでしょ」
    「慎吾さんの足は今、職務放棄中なのです」
    そんなオレの言い分をきいて、準太は盛大に眉を八の字にした。職務放棄て。どんな言い訳だ。そんな心の声が聞こえてくる。マウンドを離れたこいつは本当に表情豊かでみていて飽きない。いや、ポーカーフェイスの投手が飽きるってわけじゃないんだけどね。
    「知りませんよそんなの…」
    「なーいいだろ、抱っこして。じゃなかったらおんぶ」
    「……」
    「じゅんたー」
    無邪気に甘えた声で名前を呼ぶと、準太は今度は口を一文字に引き結んだ。そのまま黙ってこちらをねめつける。
    きっと準太は、オレの口にしたそれがただの戯れで本気じゃないと知っていて、そして、準太が戯れだと理解するとオレが思って口にしていることにも、気付いている。もしこれが本気だったらそんなのは我が侭の範疇をこえて、先輩の後輩いびりに他ならないわけだし。それでも、一笑に付して終わらせないのが、良くも悪くも準太らしい。別に困らせたくて得体無い言葉を口にしているわけではないけれど、オレのことで一生懸命考えをめぐらせる準太はかわいいと思う。
    慎吾さんはね、お前のそういう難しく物を考えすぎちゃうところも、結構好きですよ。
    「眉間しわ、寄ってる」
    指でぴっと眉間を伸ばすと、準太はむむっと目を眇め、視線を切った。そうしてひとつため息をつくと、右手をこちらへ伸ばしてくれるので、ありがたく引っ張ってもらって身体を起こす。
    そして脱いでいた革靴に足を入れて立ち上がろうとすると、ふいに準太の両腕が伸びてきて、そのままぐいと持ち上げられた。
    「わ」
    宙に浮く足は地面から数センチしか離れていなくて、それは抱っこというにはあまりに不恰好なものだったけれど。
    背中に回された準太の腕から伝わる力は余りにも一生懸命で、あたたかく力強くて。
    数秒間ののち、すとんと地面に下ろされる。
    「はい、充電しましたから、もう歩けるでしょ」
    「わあ」
    オレは思わず感動してしまって、妙な感嘆符をこぼした。
    眉を顰め照れたように顔を逸らす準太がかわいい。
    その顔を見つめながら、オレはゆるりと頬を弛ませた。背中にまだ余韻がある。
    「ほら、いきますよ」
    いたたまれないのか、そう言って準太はせかせかと歩き出そうとする。
    踵を返した準太の艶やかな黒髪を見つめて、それからオレはその背中を追うと、後ろからぎゅうと腕を回した。びくっと腕の中の体が跳ねる。
    「慎吾さん?」
    ひらりひらりと舞う桜の花びらを視界の端に捉えながら、そのまま左の肩に額を乗せると、おんぶの要求だと捉えた準太が負ぶいませんよ…?と言うから可笑しい。オレはくくと喉で笑うと、腕はそのままにくるりと準太の前へ身体を移動させた。
    「お返し」
    「うあ」
    準太がしてくれたようにめいっぱいの力で身体を持ち上げる。
    さっきお前がその両腕でオレに伝えてくれたように、どうぞお前にも言葉にし得ないこの思いが伝わりますように。いつだってオレはお前にとって言葉の足りない人間なのかもしれないけれど。向き合うことがあるはずもなかったお前とこうして向き合える幸せを、いつだってオレはかみ締めているのです。
    ふわりと頭を抱きしめ返してくれるのが嬉しくて、ぎゅうぎゅう力を入れると「いてえっス」と準太が顎をひいてこちらを見る。すると準太の髪からひらりと落ちた桜の花びらが、オレの鼻先に着地した。
    「お」
    思わずより目になるオレを見て準太が笑う。
    笑って、準太はオレの鼻ごと桜の花びらをぱくりと食べた。

    ('09.02.22)



    *局部を好く

    アイボリーのソファーベッドにこてんと身を預けて、準太はゆっくりと瞬きした。開けられた窓から時折吹き込んでくる風は既に秋の気配がしていて、すっと鼻の通るような夜の匂いがする。傍らでは床に腰をおろした島崎が、濃い藍色に金魚模様の扇子でこちらを扇いでくれていて、はたはたと風に乗って運ばれる涼が心地よい。
    高三の晩夏、準太ははじめて、埼玉から離れて暮らす島崎のところを訪ねた。
    久しぶりに会うことができて、更には彼の新しいテリトリーに足を踏み入れる事になった準太は、嬉しさと緊張がない交ぜになったような、そわそわ落ち着かない気持ちだったのだが、それは島崎のほうも同じだったらしい。そういえば、―後から振り返って漸く思い至るわけだが―準太を迎え入れた島崎はいつもと同じようでいて、やはりどこか少しテンションがおかしかったように思われた。
    最寄の駅で待ち合わせ、途中ファミレスへ寄って夕飯を食べてアパートへたどり着き、のんびりお茶を飲みながら取りとめもない話をして、先に風呂へ入らせてもらった。奇麗な浴槽と整頓されたシャンプー類に、慎吾さんらしいなぁと思いながら身体を洗っていたら、突然扉が開かれて「湯加減どう?」なんて何でもないような顔して島崎が入ってきて、驚いて「え、あ、丁度いいス」なんてうろたえながら答えているうちに腕をつかまれてキスされていた。
    準太は慌てて押し返したけれど、こんな風に静かに欲情している時の島崎は性質が悪く、真顔で唇を寄せられ滑らかに肌に手を滑らされたら、準太のささやかな抵抗心など簡単に砕ける他なかった。
    結局そのまま風呂場でいたしてしまって、現在準太はのぼせた、ということになっている。立ちくらみがして倒れたりするような状況ではなかったのだけれど、事後の倦怠感にタイルに座り込んだままぼんやりしていると「のぼせた?」と訊かれたので、実際ひどく顔も火照っていたし頷いた。頷いたら、あとは至れり尽くせりだった。
    ごめんね、と心配そうな面持ちで様子を窺い、島崎は詫びるかの様にいつもに増して優しく準太の身体を拭いて抱き上げて、ソファーまで運んでくれた。準太と一緒に居る時の島崎は往々にして鷹揚で、こんな風に切羽詰ったみたいに迫られることは滅多にないのだが、多分島崎にとってそれは頻度の問題ではないのだろう。少なからず、自制できず無理をさせてしまったことを彼は反省しているようだった。
    ひどく真摯なその様子に準太は少し申し訳ない気がしたけれど、過度に慌てたり心配はしていないようだったし、突如あの暑苦しい場所でなし崩しに行為に及ばれた身としては、それくらい甘えてみても許されるかな、と思って今に至る。尤も、求められて準太も嬉しかったのだけれど。
    「ラムネ、飲む?それともまだポカリがいい?」
    「ラムネがいいです」
    「りょーかい」
    島崎は一旦扇子をテーブルに置くと立ち上がり、部屋の入り口にある冷蔵庫からラムネを二本取り出した。
    布巾の上にラムネの瓶をのせて、蓋を開ける。
    ポンと小気味よい音を耳にしながら、準太は島崎のハシバミ色の髪を見ていた。まだ乾ききっていない為か、いつもよりくしゃっとして柔らかく見える。
    「慎吾さん、耳が熱い」
    直ぐに振り返って、タオル濡らしてくる?と尋ねてくる島崎に、準太は首を振ると、彼の手をひいた。
    そっと耳に当てて目を閉じる。ラムネの瓶を持ってきた島崎の手はおもったとおり少しひんやりしていて気持ちよかった。
    暗転した世界で、轟々と血の流れる音が耳に流れてくる。いつも風のようにつかみどころのないこの人の芯の部分に触れた気がして、準太は何だか言いようの無い感情に襲われた。
    「じゅんた」
    ふと轟音の隙間からくぐもった声が聞こえてきて目を開けると、島崎の顔がアップで飛び込んできて、身構える間もなく口付けられた。
    「ん、ん」
    素直にそれを受け入れて舌を伸ばすと、優しく耳を覆っていた島崎の指にきゅっと力が入る。
    「んぅ、…ふふ」
    舌を甘噛みされながら、準太はくすぐったそうに笑いを漏らした。
    「なあに?」
    「慎吾さん、手、熱い」
    島崎は目を細めると、
    「準太の熱がうつったんだよ」
    と言って、もう一度唇を押し付けた。
    ラムネの瓶を準太に手渡すと、島崎は再び立ち上がり、浴槽から準太が持ってきたスポンジを取ってきた。カラカラと網戸を開けると外の物干しにひっかけて、またカラカラと戸を閉める。り、り、と虫の声。時折、ガタンガタンという電車の音もきこえた。
    「一晩で乾くっスかね」
    「どーだろ。置いていってもいいよ」
    「え、いいんすか」
    「他で使う予定がないなら、だけど」
    「じゃ、置いて帰ります」
    「うん。そんでまた、遊びにきなさい」
    「はい」
    くしゃっと笑って頷く準太に、島崎も満足そうに微笑んだ。
    座ったままソファの上を準太がもぞっと移動して、空いたスペースに島崎が腰を下ろす。
    時折上の部屋から聞こえてくるゴトッという物音とか、冷蔵庫の動く音とか、氷の出来る音とか。島崎の部屋で聞く、普段は気にもかけない生活音は酷く新鮮で、そしてそれらは準太の存在を拒絶していない。夜風が優しく、カメの形のスポンジを揺らしていた。
    島崎にもたれかかりながら、準太は不思議だなあと思った。
    ここは埼玉から遠く離れた場所で、部屋を作る壁も床も天井も以前のアパートとは違う木材で、外から吹きこんでくる風もどこか異質な肌触りなのに、この部屋は以前の島崎の部屋と同じ匂いがした。
    つまり家の匂いとは住んでいる人の匂いで、継続する営みを反映したものということなんだろう。何かに染み付けたところで、代わりにはならない。唯一無二の。
    「あーでも、しまったなあ」
    ふいに島崎が口を開いたので、準太は首をかしげた。
    「? なんすか」
    「洗ってる途中で入っちゃったろ。どーせならしっかり使っといてもらうんだった」
    「はあ…?」
    「そしたら準太の匂い、ふんふんできるのに」
    「…慎吾さんて、変態っスね」
    唖然として言うと、今頃気づいた?なんて言って笑う。
    「つか、そんなもんで代わりになるんすか」
    「代わりにはならねーけどよ」
    ひとつ瞬きして、準太の前髪を軽く撫でる。
    「準太の片鱗ってだけで、オレは愛しい気分になれるの」
    「…慎吾さんて…
     ほんとオレのこと、好きっスね」
    「今更かよー」
    ぶわりと湧き上がった感情がどの感情に属するものなのか判断しかねて、思わず妙に無感慨で可愛げのない言葉を漏らすことになった準太を、島崎は笑ってくしゃくしゃなでた。
    自分を見つめる島崎の眼差しが余りに愛おしそうで、遅れてやってきた気恥ずかしさに顔が火照り、悔しまぎれに準太が、いや知ってましたけど、というと、
    更に島崎は楽しそうに微笑って準太を胸に引き寄せ、
    「それならよかった」
    と、嬉しげに言った。
    とくとくと少し早めに打つ鼓動を耳に、準太は目を閉じ小さく息をする。
    慎吾さん、また耳が熱いです。

    ('08/10/04)



    *疑い真似の平和

    「慎吾さん、歌うたってくださいよ」
    我ながら唐突だと思ったが、思ってしまったものは仕方がないから口にする。
    慎吾さんはこちらにすこし首を傾けてちょっと不思議そうにした後、再び視線を前方の宙にやって口を開いた。
    「カラオケでもいくー?」
    嘉月の空は澄み渡る水色で、綿を千切ったようなやわらかな白い雲がゆったりと漂っていた。ひゅうひゅうと吹き抜ける風はまだ少し肌寒いけれど、昼の日差しはぽかぽかと暖かい。茶色の階段の上でその日差しを受けながら、踊り場に集まって花束や色紙やカメラを片手に和気藹々とする集団から少しはなれた位置に二人は腰を下ろして、それをぼんやりと眺めていた。
    式が終わって部の仲間と先輩のところを回った後、鞄を取りに一度教室に戻っているうちに前庭はさらにごったがえしていて、準太は参ったなあと思ったけれど、どこか高いところから探そうと思って視線をめぐらせた先に当の探し人は居た。校舎からL字に折れて外へ下る階段の上から三段目のところに島崎はぽつんと立って庭を眺めていて、何でそんなとこ居るんスかと訊いたら「準太が見つかるかなと思って」なんて言うものだから、準太は面食らった。何で卒業生のあんたがオレを探すんスか、普通逆でしょ。そら、嬉しい、けど。
    「行ってもいいスけど…今聴きたい気分なんス」
    部活の集まりは夕方からだから、確かに時間はあるのだが。オレが強請ると慎吾さんは、
    「えー」
    と笑って、何がいいの、と訊いた。慎吾さんは大概オレに甘い。
    「あれがいいっす、バレンタインズ・デイ」
    「ぶ、ここでそれ?」
    即答すると、吹き出すように笑う。
    確かに、暗く灰色に翳り緩やかに傾いてゆくようなその歌は、とてもこんな祝い事の日に相応しい歌じゃなかった。寧ろ悪趣味。けれど、
    「本当に悲しい時には、聞けないでしょう?」
    「んーまぁなあ…」
    ちょっと真面目な顔をして穏やかに笑みを向けると、慎吾さんは眠そうな目(って言ったら怒られるけど)を数度瞬きさせて、ゆるゆると頷いた。
    階段を駆け上がる風は、もうしっかりと春の匂いだ。灰色の制服の裾やスカートがぱたぱたと音を立てている。島崎の手の中でくるくる回る卒業証書の入った筒が、時折太陽の光を反射させて鈍く光った。
    「泣きたい気分なの?」
    ひょいとオレの顔を覗き込んで、慎吾さんが尋ねた。
    「いや…たぶん逆っス」
    「逆?」
    「はい」
    はい、と言ったままオレが黙り込んだので、慎吾さんも黙り込んだ。沈黙。風の音、生徒の声。
    けれどしばらくして、また慎吾さんはひょいっとオレの顔を覗き込んだ。
    「どういう意味?」
    流石に、笑いたい気分だからバレンタインズ・デイ、とは解釈できなかったらしい。
    けれど、こういう風に追求を繰り返す慎吾さんは結構珍しかった。オレが一人で何か抱えて危機的状況になっている時はいざ知らず、普段ならオレがあえて口にしなかった事は勿論、とりわけ理由も無くただ偶々言葉にすることのなかった話題や理由や説明も、聞き返してくれることはあんまりなくて、ふーんとかそういう言葉で流されて終わる。それが訊かなくても分かってるからなのか、単に興味がないだけなのかはオレにはちょっとまだよくわからない。
    「言わせんスか」
    「お前はよく言わせるじゃねーかよ」
    「そうでしたか」
    「ですよ」
    オレは慎吾さんみたいに察しは良くないし、慎吾さんに興味もあるので、訊いてしまうのは仕方がないと思いませんか。勿論そのエゴを愛だから辛抱してとか言う気はないし、何でも告げられることがイコール愛されている証拠になるなんても思ってないけど。多少は思うのも事実です。
    「はい…」
    オレはしばらく逡巡した後、
    「歌うのは、慎吾さんだから」
    と、言った。
    「はい?」
    「オレが、泣きたいわけじゃないです。歌うのは、慎吾さんだから」
    泣きたいのは、悲しい歌を歌うのは、オレじゃない。
    勘のいい慎吾さんが真顔になってオレの顔を凝視した。
    「オレ、慎吾さんに、悲しんでほしいんだと思います」
    オレとの別れを、あなたに。
    慎吾さんはゆっくりと息を飲む。
    「おまえってほんと…」
    呆れたように片眉を上げると、慎吾さんは視線を切った。
    伏目がちになった瞼の隙間から覗く色素の薄いガラス玉が、酷く透明に卒業証書の筒を滑る。
    際限なく、貴方の心が欲しい。
    「しんごさんすきです」
    「…」
    「すき」
    「ストレートばっかでせめたって、オレはうちとれません、よ」
    「嘘です。オレは知ってます」
    ちらっと視線を寄越され言われたそれに、オレが真っ直ぐ見つめかえして即答すると、慎吾さんは困ったようなそれでいてどこかおかしそうな顔をして苦笑した。
    「準太は馬鹿だなあ…」
    「だめすか」
    「だめ」
    「…すか」
    「嘘。いいよ」
    慎吾さんは大概オレに甘い。
    もともと断るつもりじゃなかったのだろう。項垂れかけたオレにを見てくすりと一つ笑うと、慎吾さんは軽く咳払いをした。
    春の土の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。歌われる歌はこんな日には全く相応しくないけれど。でも、夏に冬を思い夏を感じるように。こんな日だからこそ。鮮やかな伏目もゆるやかな輪郭に帰して、これからもずっと、そっと、貴方と手を繋いでいたい。
    すっと息を吸って、慎吾さんが口を開いた。
    「My insides are turned to ash, so slow...

    ('08/04/07)



    *君だって飛べる、鉛のビルから

    その日の学校は校舎の二階から中庭へ落っこちたアホな三年の話で持ちきりだった。
    落っこちたといっても不意の事故ではない。
    「受験ストレスっすか」
    「と思わせておいて振られた腹いせらしいぜ」
    「まじすか」
    「クラス違うからオレもよくしらねーけど。振った女の教室から飛び降りたらしい」
    肩を竦めながら慎吾さんが教えてくれた真相(?)に、オレは呆れた。
    「アホっすね」
    「アホだな」
    たぶん知り合いでも何でもないんだろう。慎吾さんの相槌もひどく淡白で、物凄くどうでもよさそうだ。
    中庭には低木が植えてあり、それがクッションになったらしく、その三年は足を捻っただけですんだらしい。もしかすると、もともとそれを踏まえて飛び降りを試みたのかもしれなかった。どちらにせよ、人騒がせだ。振った先輩なんてトラウマになるんじゃないだろうか。
    準太は校舎を振り返り二階の窓を見て、それから更に上、屋上を見やった。
    「そういえば文芸誌にもそんな話があったような…」
    「まじで?そりゃ書いた奴はどっきりだな」
    「っすよね」
    確かその話は、同級生に止められて未遂で終わるんだけれど。
    女の子は白い服で。現代ファンタジーで。天使とか出てきて。
    頭の中でどんな話だったか断片的に思い出していたら、
    「つか準太ってそういうの読むんだ?文芸誌」
    と訊かれてオレは慌てた。
    「え、読むっつーか…まあ、はい…」
    「…あ~」
    慎吾さんはしどろもどろなオレをいつものトロンとした目でしばらく見つめると、得心したように頷く。
    「なんすか」
    「好きなコが居たわけね、文芸部に」
    「っ…?!?!?」
    ぎょっとして目を見開くと、オレは身体を強張らせて慎吾さんの顔を見つめた。ばちっと目が合うと、意地悪さの欠片もない顔でへらりと笑われて、脱力する。
    「…何でわかるんすか…」
    勿論過去のことだけど。
    「んー、準太って傾倒するタイプっぽいから」
    「傾倒…」
    ついつい継投の方が先に頭に出てきたが、そっちじゃないのは明らかで、さっさと頭から追い払いながら反芻する。
    「好きになった奴の好きな本とか音楽とか映画とか、片っ端から見てみたり」
    「そんなことは、」
    「ないよなあ…」
    前方の中を眺めたまま慎吾さんが口にした妄信とか盲目とかを体現したような例に、カァと顔に血が上って(自分はそこまで恥ずかしいことはしない)否定しかけると、それより先に慎吾さんが自分で自分の言葉を否定した。
    「…慎吾さん?」
    「オレされてる気しねえもん」
    まるで独白みたいにするりと漏らされた言葉に吃驚して、オレは目をぱちくりと瞬かせた。
    「…あ」
    「はい?」
    隣の気配が変化したのに気づいたのか、はたと正気に戻ったらしい慎吾さんは、何故か慌てたように両手を振る。
    「あ、いや、今のは別に、そういう意味じゃねーから」
    「…?」
    「あーだから、その、」
    「何すか?」
    目を泳がせ落ち着かない素振りの慎吾さんを見て、こんな風に慌てる慎吾さんというのは珍しいな、とオレは思った。器用なこの人は(内心はどうだか知らないけれど)咄嗟の出来事にも割りと柔軟に対応するし、完璧とはいかなくてものらりくらりと取り繕うのが上手いから。
    「ごめん」
    「ええ?」
    「いや、だからさぁ…!」
    「はい」
    「…っ ナシ!さっきのナシね、ナシナシ!」
    ははあ。つまりこの人は、まるで拗ねたみたいな発言をうっかりしてしまったことが死ぬほど恥ずかしくて、後悔しているというわけか。別にそんなに必死で否定しなくてもいいのに。本気で慎吾さんがオレにそんなものを求めているなんて、思うわけないのに。
    こんなにも綻びを露呈してしまうほど焦るなんて。
    かわいい。思わず頬が弛む。
    「オレは慎吾さんの好きな本も音楽も映画も知らないっスけど」
    日常会話をするのと同じような明るく軽快なトーンでオレは口を開いた。
    「慎吾さんにメロメロです」
    「メロメロてお前」
    古いよ、と片眉を上げ照れを隠した慎吾さんが言った。

    ('08.05.12)



    *魚の骸

    生徒でごった返す昼の食堂は、時折話し相手の声が聞こえなくなる程ガヤガヤと騒がしい。けれども、最上級生の威厳ってやつでちゃっかりと確保した隅の席は、ちょうど背後に太い柱があったので、少しだけその喧騒と隔離されていた。難を言えば直ぐ横にジュースの自販機があって人が列をつくることだが、それも最初のピークをすぎてしまえば問題ない。島崎はA定食の焼カレイを口に運びながら、先ほどから同じくそのカレイと格闘している向かいの準太をぼんやり眺めた。
    「うまい?」
    「っス」
    カレイを骨格どころか身までばらばらに解体している準太はどこか必死で、かき集めた身と一緒に白米を口に放り込みながら多少おざなりに返事をかえしてくる。でも態々こくりと頷いているところなんかは、可愛いのかもしれない。
    準太は魚をきれいに食べるのが苦手だ。そもそも箸の持ち方が微妙におかしい。でも残すわけではなくて、全部食べられるとこは食べつくす。それが焼き魚でカリカリだったりすると尾までかじって食べてしまうから、ちょっとオイオイと思う。や、もう最近は慣れたけれど。
    「あ、慎吾さん気にせずチャーハン食っちゃってください」
    固定されて動かない視線に気づいたのだろう。はたと準太が視線をあげて促した。
    島崎と準太の間には定食とは別にとったチャーハンが一皿置いてあった。
    学食の単品のほとんどは女子に言わせると結構キツイ量で盛ってあるらしいが、逆に男子にとっては一品だけでは少々すくな過ぎて、カレーライスとラーメン両方食いますなんてのは日常茶飯事だ。でもオレらは(ていうか準太は)栄養バランスにも結構気を使って食事をとらなくてはいけない為、しっかりした定食を食べることにしていた。それでも食べ盛りの自分達にとってはそれだけではちょっとものたらないので、まぁ二人で一皿食いますか、という寸法である。
    「え、ああごめん、気になった?」
    「あれ、違ったんスか」
    準太は軽く首を傾けたものの特に追究もせず、再び黙々と自分の食事に取り掛かる。
    それをほんの少しの間見やった後、一旦視線を切ると、島崎は自分の最後のカレイの身とご飯を口に放り込み、味噌汁でそれを流し込んだ。一瞬胸元が熱くなって、すぐに引いてゆく。喉元過ぎても熱いものは熱いんじゃないかなあと偶に思うのだが、それは自分の飲み込み方が悪いからなのだろうか。どうなのだろう。
    島崎は綺麗に魚をたべる。頭と骨がそのままの形でのこる。自分の魚の骸を一瞥して、再び艶のある黒い髪に視線をやった。
    たぶん準太はいくらオレがくいつくしたところで、準太のままでいるのだろう。一方準太に食べつくされたオレは、きっと今までのオレではなくなるんだろうなぁと島崎は思った。
    ぱりぱりと音をたてて食べる準太をぼんやり眺めながら、尾鰭まで食い尽くされてしまいたいと思った。

    ('08/02/13)



    *得て失う平等

    例えば、電車に乗って山を一つ越えた土地に降り立った時。最初に感じる違いは、そこに住む人々の気質だとか街並みの様相だとかじゃなくて、風の質だ。吸い込んだとき感じる空気の質。肺を潤してくれる風があれば、からりと乾かしてくれる風もあって、その土地の様々なものはそれに根ざしているようにも思われた。

    久しぶりに二人でキャッチボールなんかしたりして、見慣れた水色の空と緑の中、五月の埼玉の風を沢山沢山吸い込んだ。清清しい。
    白球をキャッチすると、かわりに水のペットボトルを投げて寄越す。笑いながら準太がそれを受け取って、どちらからともなく歩み寄ると、黄色の小さな花を咲かせたカタバミを避けて腰を下ろした。
    春本番の空き地には、カラスノエンドウや春紫苑なんかの野草が伸びやかに群生していて、時々ルリシジミなんかの姿も見える。
    準太はペットボトルの水をごくごくと実に美味しげに三口ほど飲むと、至極自然な仕草でそれを慎吾へ手渡した。回し飲みなんか部活でしょっちゅうやってたから別に珍しくもないし、今の自分達にある肩書きを意識したとしても今更なのだけれど、何だかくすぐったい気分になりながら慎吾はそのペットボトルに口をつけた。同じように三口ほど喉に流し込んで再び準太へ返すと、準太もどこかくすぐったそうにしたから、たぶんきっと同じ気持ちなんだろう。あぁ同じこと考えてるんだなあ、なんて思ったりして、馬鹿みたいに幸せな気分になったところで、ふと準太の襟元にあるそれに気づいた。
    「お、」
    「へ?」
    赤い羽根に黒い斑点の小さな生き物が、紺色の襟元にとまっていた。
    「襟んとこ。テントウムシ」
    「うあ、ホントだ気づかなかった」
    顎を引いて見づらそうに視線をやると、準太は長い指でそのテントウムシを掬い取る。何かを思い出したように、さっきまでまるでブローチみたいにぴたりとくっついて動いていなかったそいつは、せかせかと動き出した。
    「何でテントウムシって途中で飛ばないんスかねえ」
    重力に逆らって上へ上へと移動するテントウムシを、手首を何度もひっくり返しながら準太が面白そうに見つめる。慎吾はふと遠目にその背の斑点の数を数えて、あぁとため息を付きたいような、言葉に出来ない感慨を覚えた。
    反転する天地に律儀に従って、十の星を背に負った小さな体が、太陽の方へ太陽の方へと必死に足を進める。
    「ベスト尽くしてんだろ」
    「ぶ、それは、かっこいい」
    アホかと思ってたけどお前意外と格好いいんだなぁ、と手首の虫に笑いかける準太を見て、また心臓がぎゅっとなる。お前のことだよ、と慎吾は心の中で呟いた。
    「慎吾さん、これ何テントウかわかります?ナナホシより多い気がすんですけど…ジュッホシ?」
    「トホシだろ」
    「トホシっすか」
    うんと頷くと、準太は慎吾さんって物知りっスね、と感心したように呟いて、
    「桐青のトっすね」
    と続けた。
    「何だそりゃ」
    「ひでえバッサリだ」
    「準太の10だろ」
    「オレあもう10じゃないっすよ」
    「うん、そうだったな」
    そっスよ、と、降り注ぐ春の陽光を受け、眩しそうに笑う準太がひどく愛しい。
    気まぐれな風に柔らかに包まれながら、強く吹き付けられながら、それでもまっすぐまっすぐ。いっそ愚直なくらいに。清清しく星を背負って、日の光の方へ、日の光の方へ。天地が逆さまになろうと、あらゆる景色が反転しようと。いつだって真っ直ぐで、馬鹿で、かしこくて。
    それしか知らない、うつくしい生きもの。
    太陽の光を反射して、テントウムシの赤い羽根がささやかに光る。
    衝動のままにその腕を取ると、準太はびっくりしたようにこちらを見つめた。
    確証はないけれど、今なら、純粋に伝えられると思った。
    「準太」
    「慎吾さん…?」
    驚きで瞬く黒い大きな目を真っ直ぐに見つめて、胸の浅いところではない胃の一番奥底から、慎吾は言葉をとりだす。一呼吸置いて、口を開いた。

    ――好きだ

    目を見張った準太の黒目を薄っすらと覆ってゆく涙の膜は光の反射の量を多くして、
    慎ましやかに羽を広げたトホシテントウが、右手の指先から飛び立った。

    ('08/04/23)
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