雨の日 雨音が窓を叩く音が頭に響く。パソコンの横においていた錠剤は一日分飲んでしまったが、どうにもその日中に終わらせてしまいたい仕事があったので、薬を取りにリビングに向かった。
同居人の出かけたリビングはひっそりと静まり返っていた。照明も刺激になりそうで、薄暗いリビングで薬箱を探した。それにしてもひどい頭痛だ。先に眠ってしまって、後から取り戻した方がいいかもしれない。
普段使っている頭痛薬の瓶は空っぽだった。なんという失態。こうなったら、出先の彼に追加で薬を買ってきてもらうのも手だろう。もしくは滋養のつく食事をリクエストしておこうか。そう思って二階に置きっぱなしの端末を取りに階段を上がった。
画面のブルーライトすらしんどくてメッセージを打つ気が失せ、電話してしまおうと思った矢先、ドアをノックする音が聞こえた。ひと足さきに彼が帰宅してしまったようだ。
「ただいま〜、ちょっと開けてくれないかい、荷物で手が塞がっちゃってさ」
そんな声が聞こえてくる。
「モクマさん」
「ありがとさん」
ドアを開けると、びしょ濡れのモクマが両手に買い物袋を下げている。
「傘、渡しましたよねえ」
「ああ、あれね、ちょうど、スーパーで買い物し終えたら、傘盗まれて困ってる人がいてね?おじさん、走って帰るから大丈夫って、渡しちまってさあ」
「全く……」
「お前さん、朝しんどそうだったから、色々買ってきたよ」
「……」
こういう時、察しの良い相棒を持つと本当に助かる。まあ、この観察眼で予想外に先回りされることも多々あるのだが。
「今、タオルを持ってきますから」
あの濡れ具合では、身体を冷やすだろうに。階段を上がり、二階のバスルームからタオルを持ってくる。ふと脱衣所の鏡に写った自分を見たら、ひどい顔色をしていた。
「大丈夫かい」
ぎゅ、と背後から身体を支えられる。気づかないうちにふらついていた。
「ごめん、俺が取りに来れば良かった」
音もなく二階へ来ていたのか、それとも気配に気づけなかったのか、モクマが濡れた手で自分を支えていた。
「いえ、家の中、濡れたら困りますから」
そういうと彼はなんだか寂しそうな顔をして、バスタオルを受け取った。
「もう休みな、食欲は?」
「暖かいものなら…」
「うん、じゃあ起きてくることに作るよ」
「…はい、ありがとうございます」
言われた通りに重たい身体を引きずって寝室に引っ込んだ。端末が着信のあったことを知らせる光を点滅させていたが、起きてからでも良いだろう。目を閉じて、瞼の裏側の模様を見ているうちにすぐに眠りに落ちた。
階下からの物音で目が覚めた。彼が食事を作ってくれているのだろう。
寝室の時計を見ると半刻も経っていなかったが、頭は幾分軽くなっていた。空腹もはっきりと感じられて、ベッドから降りて寝室を開ける。
「……は」
ぴちゃ、とスリッパ越しにでも感じられる不快な水音に、顔を顰めた。
見下ろすと、ドアの前、フローリングの床に水溜りができている。
「はあ……」
ズボラな相棒が、どうやらそのままにしていたらしい。
それ以上踏まないように足をのけ、モクマが見えたら文句の一つでもぶつけてやろうと階段を見下ろす。
そこで、ふと、何か変だと思った。
階段の一段ずつには、寝室の前にあるのと同じくらい水溜りができていた。
それは、帰ってきた時のモクマがいくら濡れ鼠だったからといって、そこまで身体から滴るはずのないと明確に分かるほどの水分量だった。
「…………ぅ」
急に、眠る前の頭痛が戻ってくる。同時に、本能的な警戒心で、寝室へ下がる。
何かおかしい。
モクマは、自分が寝室に戻る時には、もう一階に降りていた。寝室の前まで来てすらいない。ここに水溜りがあるなら、そこにモクマがいたということだ。
自分の様子を心配して?びしょ濡れの身体を拭きもせず?ただドアの前で待っていた?
その行動の説明のつかなさに、何か理由を見つけようとする。
モクマなら、わざわざ部屋の前に来なくとも寝ているか起きているかくらい分かる。
モクマなら、様子を見に部屋の前まで来るときは、もう直接自分の顔を確認する必要がある時くらいで、つまり、寝室まで入ってくる。
「……」
入ってくる。
もう一つの違和感を思い出し、音を立てぬよう寝室のドアを閉めた。
「……」
少しだけ、不思議だった。モクマなら、別に両手が塞がってたって、器用にドアを開けることくらいできる。というかそんなこと普通に誰でもできる。
ついちょうどいいタイミングで呼ばれたから、自分が出ていってドアを開けたのだ。正直、弱っていたところに帰ってきてくれたのが精神的に少しほっとして、違和感とまで思わなかった。
もう一つ気づく。
自分は彼の名前を呼んだけど、彼は自分の名前を呼んでいない。
ぴちゃん。
水音がする。彼が、いや、「何か」が、階段を上がってくる。
後退りし、サイドテーブルの端末をひっつかむ。
「起きたかな」
着信履歴に残る名は。
「お前さん、おじやはちょっと苦手かもと思って、とりあえずおうどんにしたけど」
ぴちゃん。
ドアの外から出汁の香りがしてくる。
震える手で、履歴から電話をかけ直す。
「……」
ぴちゃん。
「あれ、まだ寝てる?さっき音がしてたけども……」
呼び出し音が鳴り始める。
一回。二回。三回。
「おーい、起きてたら開けちゃくれんか」
ドアノブが回される。鍵はかけていない。しかし扉は開かない。
開けられないのだ。
四回。
ぴちゃん。
『……しもし?』
端末越し、雨の音ともつかぬノイズで途切れ途切れだが、相棒の声が聞こえる。
『あ〜、ごめんね、お仕事中に、お前さん、なんか買ってきて欲しいものある?』
ガチャガチャガチャガチャ
ドアノブが、ぐるぐる回っている。
「……モクマさん」
『どした、チェズレイ』
声音から何か感じ取ったらしく、端末の向こうの声が緊張感を帯びる。
ピタリとドアノブが動きを止める。
「チェズレイ、開けて?」
ドアの向こうからする声は酷くくぐもって聞こえる。
まるで水の中、ゴボゴボと空気の泡を吐きながら、叫ぶように。
頭が割れそうに痛む。
立っていられない、後ろのベッドに倒れ込む。
『チェズレイ、チェズレイ!』
自分を呼ぶモクマの声を離さないように、端末を強く強く耳に押し当てて、気を失った。
オフィスナデシコ、深夜二時。
ルークはマグカップの冷えたココアを一口啜る。
「なあ、僕、なんて言ったっけ」
「ええ、ボス、リクエストは確か…よく眠れる話、でしたね」
「今の話で、何がどうよく眠れるんだ?!」
「拙い怪談話でしたが、ずいぶん心を乱してくださったようで……これは私の催眠でぐっすり眠りについたほうがよさそうですねえ」
「君の狙いはそれか?!」
「どうでしょう」
「からかってるな…もう…」
ルークは立ち上がり、残りのココアを飲み干した。
「それにしてもチェズレイ、分かってたけど話すのが上手だよな」
「お褒めに預かり光栄です」
二人がリビングから去ろうとしたその時。
ガタガタ、ガタン。ずるずる。
二人分の歪な人影がドアの前まで近づいて、止まる。
「おーい、ルークまだ起きとるかい?開けて〜、アーロンが重たくて、部屋まで運べんのよ〜」
「……」
「……」