書巻夏の日の産屋敷家で書巻の巻物が縦横に広げられていた。御家流の文字目を広い座敷の畳の上に幾本も走らせて、その真ん中に耀夜がいていつものように微笑んでいる。二人とも本は読む?悲鳴嶼と実弥は廊下のその場に手をついて答えた。
「とんと縁がございません」
「右に同じくゥ」
「そうか。どうも私も難しそうな鬼を強そうな柱に回してしまうから……」
強そうと聞いて、実弥が少し顔を上げた。お館様に認められているのが率直に嬉しかった。
「書巻を得た書家が調べている内に消えてしまう。そして再び書巻は好事家や古物商の間に取引されて、引き取った一人が書巻を調べてまた消える。そういう風にして人を啖べているようなんだ。どの本か目星はついている」
「でしたら、燃やしてみては如何でしょう」
「火にくべてみたんだが一向に点かないんだ」
「南無……」
「どうあっても読ませたいらしい。それで二人体制で読んで貰う事にした。鎌倉期の作で、地獄について書かれている絵巻の写本だったよ」
「内容をご存じなのですか」
「昼に見れば内容は分かるし、尋常だったよ」
それで二人は夜の中、離れの燭台の元で巻物を前に難しい顔をしていた。
「私は文字というものは少しも分からない。不死川だけが頼りだ」
「任されたァ。だが俺も、鎌倉頃の文字何て滅多に見た事ァねえからよ。ちっとも読めねぇよ。そんなもん……」
「では絵はどうだ。絵の話をしてくれないか」
「……まぁ絵ならァ」
紐解いて、中を見ていく。亡者があらわれ、脱衣婆に服を脱がされ、三途の川を渡って地獄に向かう。実弥はいちいち悲鳴嶼に説明していたが、やがてその言葉が途切れた。じっと巻物を見つめている。
実弥は、自分が殺した母親が地獄に落ちていくのを見守っている心地で居た。鬼に追われ、地獄に入る。そんなばかなことがあるか。俺の母が地獄に何て行かせない。そう思っているのに目の前の光景が心を裏切る。
血の池で茹でられてぐったりした母が悲しく。
ざくざく、と鋭い音がして、実弥ははっと我を取り戻した。脇を見れば、書物からぬるりと生えた朱色の肌の獄卒に似た鬼の体が三体、首は落とされて既に桐灰のようになっていた。じきに、書物も端から朽ちて行った。
「見えぬことが幸いしたようだ。二人一組は良かったな」
「悲鳴嶼さん、すまねェ」
「構わぬ。鬼の気配が湧いたから切り捨てたまで。それよりも、血鬼術に掛かっていないか?」
「平気ですゥ」
「何を見せられた?」
「……母が。血の池地獄に落ちてたァ」
「案ずるな、それは幻だ。お前の母は極楽にいる」
「なぜ言えるんです」
「不死川からは孝行の匂いがするからな」
実弥はぎょっとした。
「なっ、ちょっと、悲鳴嶼さん!」
「人には言わぬ……それに、お前によく似た男を知っている」
「チッ。あいつの話ですかァ。俺は聞かねェ」
「いいや。お前の母の話だ。良い息子に囲まれていた」
悲鳴嶼は臍を曲げているらしい実弥の頭をぽんと撫でた。抵抗はなかった。そのまま頭を撫でてやる。
「お前は良い子だ。私は分かる。子育ては経験があるからな」
子育ての経験がある悲鳴嶼は、今夜は最強の面影がどこか薄れて、面倒見のいいただの年上の男に見えた。彼も平和に暮らしていた所を鬼にやられたと、そんなことを実弥は思った。
「今宵は母屋で酒が出るのだ」
「へェ。なぜですゥ?」
「私の生誕を祝うと仰られて……面映ゆい事だ」
囁くように呟いて、悲鳴嶼は微笑んだ。彼の微笑む顔を実弥は初めて目の当たりにした。どうやらめでたい夜だった。
「ご相伴します」
「南無。すまぬ」