羽織元絵師の鬼殺隊士が藤襲山の藤を描いたという男物の羽織がある。それを着ていると藤の薫りが漂ってくるという。だからか羽織を衣桁に掛けておくと夜に鬼が寄らないというので、産屋敷家の親戚の家に預けられていた。
その夜、盛りに描かれた花がひと房落ちた。というのも、羽織を掛けてある衣桁の下に、ぼたりとみずみずしい房がひとつ落ちているのだという。
一夜一房。最初はむせかえるほど描かれていた藤の花が一つ一つ消えて行く。尋ねにくい産屋敷家に知らせが届いたのは遅かった。藤襲山の藤は無事かと聞いた一言で、耀夜はその家の藤の羽織の異変を神懸りの勘で悟った。羽織はただちに産屋敷家に運び込まれた。その夜からも一房ずつ藤の花は夜明けの衣桁の下に落ち続けた。
その花房を三方に乗せたものが、実弥と悲鳴嶼の目の前にある。
生き生きとした一房だった。香りが部屋中に漂っている。しずしずと歩んで来た隠が、悲鳴嶼と実弥に酒をつけた。産屋敷家では偶にそんなことがあった。鬼を肴に酒を飲む。
「私は見えぬが、季節外れの藤の香りは覚えがある」
「藤襲山が懐かしいなァ。悲鳴嶼さんはいつでしたァ?」
「夏だった。お前は」
「冬」
それだけ言って、藤を肴に酒を飲んだ。今夜はこのまま番をする。花の枯れた羽織から鬼が出るのではないか、と心配されたからだ。実弥はそれをばかばかしいと思いはしたが、実際絵の中の藤が抜け落ちた花を肴に飲んでいるのだから、鬼が出ると言われれば、それがあながち間違いでもない気がした。
ともかく今夜、産屋敷家の離れで二人、鬼を待つ。
今朝方最後の花が落ち、衣桁の羽織は真っ白でまるで死装束だった。
「藤襲山か。俺はとかく鬼を切り倒したかったァ」
実弥が語った。
「まだ若かったからァ無鉄砲でよォ」
「そうか」
「日輪刀の切れ味を確かめたくて、鬼の手足を切り落としては追い詰めて、また切っての繰り返しをしているうちに期日が来たなァ」
悲鳴嶼が沈んだように呟いた。
「私は朝まで拳で鬼の頭を潰していた」
「でも刀使えるでしょォ」
「南無。慌てて取り落とし、探している間の事だ。一匹それで退治してから刀を使った」
「へぇ」
「その頃は若かった」
それきり、語りは途絶えた。今夜この離れは藤の香は焚いていない。悲鳴嶼と実弥を置いて、人払いは済んでいる。母屋は藤の香で守られていた。しんと冷たい夜だった。七日間を鬼を追いつ追われつして生き残った猛者だから、一夜くらい鬼の出るという羽織を見つめている位はなんでもなかった。
今朝落ちたという花房は三方の上でまだ美しく香っていた。悲鳴嶼は灯が要らないが、実弥には必要だった。火打石で行燈に火を点けた。菜種油の燃える匂いがした。
「柱になってからは、油の値を気にしたことがない」
「目開きと住んでたんですかァ」
「ああ」
「俺ん家は暗くなったらすぐ寝たもんだァ」
「そうか。鬼殺で夜を出歩くと行燈が一層遠い」
「俺は行燈に灯が入ってるのをあんまり見たことがねェ。盆踊りの頃に出かけて見たくらいだが、あれは蝋燭だよなァ」
「そうだな」
「俺が行燈に灯を入れるようになったのはここ数年だァ。慣れねェ」
チッと実弥が舌打ちをした。
「なんで鬼を待ってるんだァ?羽織ごと燃やせばいいじゃねぇかよォ」
「燃やした灰から鬼が湧くのをお館様はご心配なさっているのだ」
「ああ、確かに。火じゃ止まらねぇもんなァ」
それからまた静かに夜が過ぎた。置時計が鈴を鳴らして時刻を知らせる。悲鳴嶼も実弥も、じっと動かなかった。どんどん時は過ぎていった。白い羽織から冷気が漂ってくるようだった。
注意深い時が過ぎて行き、真っ白い羽織はぴくりともせず、鬼の姿が浮き上がって出て来る訳もない。ただひたすらに、無音の時が過ぎた。
「この藤を、表に出すか」
「ん?」
「鬼が来ないのは、この藤のせいではないか」
実弥は三方を片手で掴み、障子を開けて雨戸をあけて、さっと庭先に投げ出した。
「鬼は出ましたァ?」
「いや。待とう」
二人は元のように座った。一刻一刻と夜は更け、鬼の匂いが微かに座敷に漂ってきた。見えない悲鳴嶼はすぐ悟り、実弥もそうと知っていた。羽織に鬼の姿はなく真っ白だった。実弥は目に見えて苛立たしそうな色を眉間の辺りに一瞬浮かべ、刀を片手に正座から一歩、足を踏み出して羽織を斬った。
途端、夜を切り裂くように羽織が鳴いた。鬼の生首が羽織の羽裏から落ちて悲鳴嶼の膝の前に転がった。みるみる塵になって行く羽裏、裏の白絹地に墨絵のように鬼の姿が残っていた。それも畳の上に落ちるや桐灰のように朽ちて行く。
「見事」
「よせよォ」
「私は少しためらっていた。座敷を壊すのに忍びなく……」
「庭先で羽織を燃しても、俺らがいりゃぁ片付いたのになァ?」
「さてな。鬼は単なる口実で、お館様が私達に一献つけたかっただけかも知れぬ」