鬼と獣 彼女が覚えている限りで一番初めの記憶は、今にも泣きそうな女の人が「ごめんね」と言っているものだ。
今にして思えば、あれは母親だったのだろう。
そうして、自身の母親の愛情もろくに与えられないまま、幼い赤子は船に乗せられて流された。飢えをしのぐためだったのか、それとも別の何かか。どちらにせよ、誰もが命運尽きたと思うだろう。
けれど、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、赤子はとある里で拾われることになった。
「大丈夫……大丈夫だよ」
少しだけ高い声が聞こえて、火が付いたように泣いていた赤子は途端に大人しくなる。共鳴する何かがあったのかわからないが、発展途上の細い腕にだかれ、ぬるま湯を付けた脱脂綿を口に入れられる。それを吸っていれば、ほっとするように笑う声が上から降って来た。
「本当に、その子を育てるのだな」
「はい。決めました」
今朝方、朝もやと共にやって来た船は、捨て子が乗っていた。おそらく近くの里(それでも歩きで三日かかる)からやって来たのだろう。生まれたての赤子はウツシが与えた脱脂綿をしゃぶり、大人しく彼の腕の中でうとうとしている。
「その子が鬼の子だったとしてもか?」
「はい。もし何かあれば俺がこの子を殺します
けれど、そんなことはしません。させません……この子を立派なハンターに育てます」
「……やはり何か惹かれあうものがあるのだな」
「はい」
ウツシはそっと少女の額に手を触れる。柔らかい髪と肌なのに、手のひらには何か引っかかるものがあった。それは角のように盛り上がっていて、あと数年もすれば目立つだろうと誰もが思うもの。
稀にいるのだ。竜人と同じく人と少し違う存在が……。それがたまたま鬼のように角が生えた少女だったという訳で。おそらく、他の里では災いだとか言われてカムラにまで流されたに違いない。けれど、ここは竜たちに一矢報いるべく作られた里。鬼が一人いたらむしろ百人力だろう。
「……お前もまだ子供だというのに、子育てか」
「……」
「いいか、何かあればすぐに里の者を……母親を頼れ
少なくともお前よりも子育てに関しては詳しい」
「はい」
ここまで来れば、存外頑固なウツシが梃でも動かないことなど、フゲンは百も承知だった。だから代替案としてとにかく里の者を頼れと念を押す。いかんせんフゲンも赤子の世話の大変さを、姪のおかげでうんと理解しているのだ。
そうして、ウツシは赤子をそっと抱きしめる。頬に触れた小さい手が暖かく。そのまま腹に顔を埋めれば命の鼓動が聞こえた。
――ああ、やっと……。
それが何なのか、ウツシには分からない。けれどぴったりと合わさった組細工のようなそれは、ひどく心地が良く彼の中で唸っていた何かは大人しくなったのだ。
「大丈夫……何があっても俺が守るから……」
だって、獣の番には鬼がちょうどいい。
そんな彼の様子をフゲンは大きくため息をついて見守る。哀れにも首輪のついていない獣の枷になった鬼の子を見ながら。
それから数年が経った。
別の里で捨てられた赤子は、カムラの里で皆の愛情を一身に受け、鬼の子であるにも関わらずまっすぐ成長した。外から来たハネナガなんかは、最初こそ驚いたものの、すぐに竜人族と同じかと認識し、特に分け隔てなく接している。だが、それは彼や里がそういう雰囲気だったからで、案外人の悪意というものはその辺に転がっているのだ。
少女は自身が受けた依頼を終えて集会所に戻ってくる。夜中に狩猟に行っていたためミノトに一度報告し、仮眠を取ってから纏めて報告書を出す予定だ。ルームサービスにも悪いので、戻ってきたら半休として、帰ってもらうように言づけてある。あとの心配と言えば……。
「愛弟子、おかえり」
「はい、教官
ただいまです」
「今日も無事に帰ってきてくれてよかったよ
大丈夫? おねむ?」
「……はい」
集会所の納涼床に陣取っているウツシだ。彼は彼女が任務を終えた後すぐに近寄ってきて頭を撫でてくる。幼少のころからずっと育ててくれた兄のような存在で、彼女がハンターとして生き残っていられるのは彼のおかげである。怪我がないか軽くチェックされ、背中を叩かれる。慈愛に満ちた目で見られて悪い気はしないので、同じように笑ってから別れを告げる。武器を担いで外に出れば、入れ違いで外からやって来たハンターが入っていた。
百竜夜行を終えてから、別の地域に住むハンターがふらりとやってくるようになった。里の外にある温泉目当てなのか、それともここでしか取れない素材が目当てなのか定かではないが、少女も時折誘われることがある。
はたまた――
「ウツシさーん!!」
集会所の外からでもわかるほどに聞こえる黄色い声。黙っていれば美丈夫ともとれる兄は、実によくモテるのだ。
「……」
少女はそっと鉢がねに触れる。これさえなかったら、よかったのだろうか。なんて考えがよぎって頭をふる。きっと眠いから変な考えをしてしまうのだ。
ふらふらとオトモを連れて家に入り、装備を脱いでいく。鉢がねを取り払えば、額には盛り上がった角が生えていた。大きさは大人の親指の第一関節ほど。頭の装備によっては目立たない大きさのそれは、彼女を人ではないと言い聞かせるもの。いっそ竜人族であれば問題なかったのだろうが、彼女のそれは彼らよりもさらに希少な見た目だ。
そっと触れると固い骨のような感覚。鬼と呼ばれても仕方のない容姿だ。
「暫くつけておいた方がいいか……」
独り言ちて、少女は再び鉢がねをつける。鏡を見れば、もう角は目立たなくなっていた。
里の人間ならともかく、外部の人間が何を言うかわかったものじゃない。とっくに里の内側に入ったハネナガや、アヤメ、ロンディーネにカゲロウならともかく。大きくため息をついて、面倒だと呟く。いっそお面のほうがいいのではないだろうか。そう思って、以前ウツシが作ってくれた面を見た。
ウツシはようやく行ったハンターたちに大きくため息をついた。本来であれば教官職であり、闘技場の受付だけだというのに、何を思ったのかやれ食事だの、やれ狩猟だのと誘ってくる者が後を絶たないのだ。イラつく考えをどうにか抑えるべく、眉間をもみこむ。これでは本来話したかった番を怖がらせてしまう。
「モテるね。色男」
「心の底からほしい相手にモテないのは、果たしてモテるって言うのかな」
「うわ、アンタそれ嫌味かい?」
「至極全うな意見だよ。別に他の女性にモテたくもない。俺の番はあの子だけ」
「はいはい
それ、よそで言ってみなよ。袋叩きにあうよ」
「……」
ウツシの執着は、里に長くいる人間であればわかる周知の事実だ。そもそも彼が少女を拾って育てあげたのだから、それはもうさっさと祝言を上げて欲しいというのが満場一致の意見である。だが、少女は男の執着など慣れっこで、自分はとっくにその感情を初恋として昇華してしまったらしく、彼らの間にはなんとも言えない空気が漂っているのだ。
そろそろ一手打つべきか。
そう思ってウツシは帷子ごしに顎を撫でる。がちりと鋭く尖った牙が鳴って獰猛に喉を鳴らすのを、アヤメは呆れたように見つめた。少女がさっさと嫁にならなければ、このままどこかの山岳まで攫って監禁しそうだ。この男は。
少女がそうであるように、彼もまた口元を隠している理由がある(とはいえ、里の者は全員知っている)。がちがちと不機嫌そうに鳴り響く獣の牙は、彼を人ではないことを表していて、その魔性ともとれる金の瞳は、まさに狩りの頂点に立つ者のそれだ。
だが、同時に畏怖の存在でもある。だからウツシは口元を隠し、常にニコニコと笑い、自分は恐怖の対象ではないと伝えていたのだが、それが仇となっているようだ。今もウツシに対し、熱を帯びた視線で見つめている相手が一人。それを無視するように、彼は嘆息し空を見る。
「こんなことなら、もっと早くに……あの夫婦の古龍を倒した時に、さっさと娶って祝言を上げておくんだった」
「やめときな……それであの子が手に入ると思えないよ」
ウツシの冗談ともとれない言葉にアヤメがあきれてため息をつく。この男の執着は底がないくせに、少女を囲おうとしない辺りが厄介だ。やきもきしない訳ではないのだが、さっさとくっつくなりして、目の前の獣のいら立ちを抑えて欲しいものである。
ウツシがそんな事を思案していた翌日、少女はしっかり休めたのかふらりと集会所にやってきた。顔には以前彼が与えたお面を付けて。そのままミノトの元に向かうと幾つか報告書を提出していく。確か今回はオオナズチだったか。あのトリッキーな動きでは相当大変だっただろうに、彼女はなんとでもないように淡々と告げるのだ。
「ウツシさん聞いているの?」
「ん……」
そんな彼女を見守っていれば、意識が急に引き戻される。
いつの間にか話しかけられていたのか、ハンターらしい女性が立っている。愛らしい顔立ちでくりくりとした瞳でこちらを見ていた。どうやら彼女が一方的に話し込んでいたらしい。無視するわけにはいかないと、適当に相槌を打っていたのだが上の空だったのがばれたようだ。眉を下げて困っているというような表情だが、そういう表情をしてほしいのは目の前にいる女性ではない。
再びどうでもいい日常会話を始めた女性の話を聞き流しつつ、さて、どうしようかなと思っていれば、少女が狩猟の準備をするのか装備の確認をし始める。お面で見づらくないのだろうかと思ったのだが、そのあたりは問題ないらしい。するすると手慣れた様子で武器や道具の確認をしているのを見ていれば、今度は腕を引っ張られた。
「ウツシさん! 無視なんてひどいわ!」
「……」
件の女性が怒っているのだが、流石にため息をつくしかない。この女性はハンターだったはずなのだが、一体なにをしに来ているのか。そもそも彼女の護衛としてそばにいるのならともかく、ウツシは通常の仕事があるのだ。タイシの指導だってあるし、闘技場の準備もある。そろそろ注意するべきか、と思っていればお面をつけたままの少女がこちらにやって来た。
「教官」
「なんだい? 愛弟子」
「闘技場に参加しようかと」
「お、本当かい!? 闘技場が君を待っているぞ!」
「ふふ、それじゃ今回は――」
和気あいあいと受付をしていれば、当然面白くないのは絡んでいた女性のほうで、幼稚なことにウツシの腕をもう一度引っ張ったのだ。ご丁寧に『私のものだ』というように少女を睨みつけて。
「いい加減にしてくれないかな……」
だが、そうなれば起こしてはいけないものを起こすに決まっている。がちりと牙が鳴る音が聞こえ、ぎろりと女性を睨みつける。それはまさに獲物を狩る獣で、そんな目で睨みつけられたことのない女性は途端に動けなくなった。
「あ……ちが」
「あのね、いい訳はいいから
君は狩猟しに来たの? 遊びに来たの? 俺は仕事があるんだけど、そういう事は全部無視?」
怒りのあまり威圧してしまうが、こちらだってもう充分に我慢した。他の里の重役の娘だと聞いていたが、そんなものは知らない。仕事の邪魔が入ったのだから、訴えてもいいはずだ。
「教官、相手が怖がってるから、これ以上はだめ」
「……」
そう思って一歩足を踏み出せば、少女から停止の声がかかる。その声を聞いて大きくため息を吐く。しかしそれを侮蔑と取ったのだろう。女性は目を見開いて――少女の顔を平手で叩いた。
「邪魔をしないで頂戴――っ!!」
無論、そんなもの少女は避けようと思えばできた。だが、真後ろにオテマエがいたらどうだろうか。はずみで女性が転んで下敷きになってしまえば大変なことになってしまう。だから彼女は敢えてその攻撃を受けたのだ。衝撃でウツシの作った面は吹き飛び、その下から少女の顔と、額から生えた対の角が現れる。
「ひっ!!」
小さく悲鳴を上げた女性を見て、頬が赤くなった少女は面を拾い上げた。誰もが口を挟むことができずただ見守るしかない。けれど少女は嘆くでもなくただ淡々と告げる。
「お邪魔になるみたいなので、一旦帰ります」
そう言うと、オトモを連れだって集会所の外に消えていった。