【3つのムルとシャイロックのためのカノンとジーグ、ニ長調】 ねぇ、シャイロック。
俺は、何人目なのかな。
シャイロックは俺の事を「ムル」って呼んでるけど。
それが自分のことだと気が付くのに、どれだけ時間が必要だったのか、シャイロック知ってる?
俺もね、自分がムルだってことに気が付いたの割と最近な気がするし、最近じゃないかもしれないし、いまもムルだって気が付いたときのこと、ふわふわした記憶の中でしかないから、ちゃんと思い出せないんだ。
だって始めは自分に名前を付けられるのがなんかすっごく嫌だから。シャイロックにそれやめてって言ってたような気がするけど。
いつもシャイロックは笑って「いいえ貴方はムルですよ」って何度も何度も繰り返し俺に言い聞かせてたよね。で。俺はそんなシャイロックに何度も何度も繰り返しちがうよって怒ってた。
そうだったよね。
だって俺。本当にそれが、本、当、に、嫌だったんだ。
何度も言ってたのにシャイロックはいっつも笑ってただけだったね。
そうやって、何度も、どうしても、どうやっても、シャイロックがその呼び方で俺を呼ぶから。ムル。ムル。ムル。って。祈るように囁くから。
そうやってシャイロックの声が俺を呼ぶたび、俺は大好きな大いなる厄災を思い出してたんだよ。
だって大いなる厄災に俺が何度も愛を囁いても、あれはね、空に浮かんだままで何も返してくれないんだ。それってとってもシャイロックに似てるよね?
どうしたのシャイロック。
怒った?
違う?
じゃあどうしてそんな顔をしてるの?
誰に(俺に? それともシャイロック(自分)に? やっぱりどちらともに?)腹を立てたのかな?
どうしてシャイロックは怒ってるんだろう。どうして俺はムルって呼ばれるのが嫌だったんだろう?
そう考えると、結局、俺もシャイロックもわからないことばっかりだね。ほんと、なにもかも、わかんないことばっかり!
ねぇ、シャイロック。
前にシャイロックは俺に謝ったことがあったよね。
「ごめんなさいムル」って、小さい声で謝ってたけど。俺はね、その悲しそうな顔が、その言葉が。誰に向けているのかわからなかったんだ。
だから俺はなにもかも訳がわからないまま、ぼんやりとシャイロックを眺めていたんだよ。
でも。
ある日の夜にね、月を眺めていたらもしかしてって気が付いたんだ。
ねぇ、シャイロック。
俺の知らない「ムル」とシャイロックの間に、昔、何かがあったのかな?
そして何かが終わったのかな?
そうなのかな?
違うかな?
ちがわないかな?
俺はなんとなぁく、そうじゃないかなって。理解しちゃったんだ。
シャイロックの視線とごめんなさい。その二つを結びつけるものは一つしかないよね。そして俺は、シャイロックが何故俺に謝ってたのか分かっちゃったんだ。
ああ。そうだよ。気がついたんだ。
だからいやだなと、今も昔もずっとずっと思っているのかもしれないね。
――そう思い続ける自分に彼は、今日も微笑んでその名を呼ぶんだ――
「ムル」
「なぁにシャイロック」
「何故悲しそうに私を見るんです?」
「ええ~? 悲しくなんかないよ。なんかね。寂しいだけ」
「…………。」
そうだよ。悲しくなんかないよ。ただ酷く。寂しいだけだよ。
それだけだよ。シャイロック。
それよりも。ねぇ、シャイロック。今夜も月が綺麗だよ。きれいだよ。