西の森の奥深く、もはや誰からも忘れられたであろう遺跡のさらに奥で、一人の魔導師が死んだ。
高く耳を通り抜ける鳥の声に顔を上げる。
擽るように髪を撫でていく風は冷たく、そろそろ備蓄品を見直さなければと胸中で独り言ちながら歩を進める。
遺跡に珍しい魔物が出るという噂を聞いたのは、年が明けた頃だった。
珍しいと人々の口にのぼるものの、いざ対峙してみれば虹色の鳥の正体は鉱石の泉の水を反射したものであったり、動き回る鎧を解体してみれば虫の巣であった等、拍子抜けで終わってしまうことは少なくない。
それでも頭の端に残っていたのは、生首が話しかけてくるという怪談めいたものだったからだろうか。
ゴーストや泣き女、果ては動く骸骨や植物から生まれる動物の蔓延るこの世界では生首一つでは別段思うところはない。生活圏は異なるものの存在しており、尚且つコミュニケーションがはかれるものも一定数いるのも当たり前ではある。
しかしこの噂に関してはどうにもそれ以上の話は出てこず、要領を得ない。
廃神殿でバンシーの逆恨みに遭い危険な目に遭ったので魔除けの札が不可欠である。街道で動き回る屍人に食われかけたため夜道には火を絶やさぬように、等と旅人や魔導師であれば共有される情報というものが「話しかけてくる」という曖昧なものでしかない。さらに言えば、話しかけてくる内容すら誰も知らないのだという。
未知の遺跡であったため、古文書や遺物の一つでも見つけられれば儲けものとは思っていたが、噂の出処がどのようなものであるかという好奇心が少なからずあったのは間違いない。
とはいえ噂の出始めからはかなりの月日が経っている。
調査はともかく怪談の方はあまり期待できそうにないだろうと結論づけつつも、黴のじっとりとした臭いの漂う地下通路への入り口に足をかけた。
奈落へ続いているかのような階段は当たり前のように光が入らない。
古文書の解読や遺物の研究をしている時に自らの思考の坩堝に沈むことが多々あるが、視覚化すると正しくこのような光景だろうと思う。
明かりの魔導を灯しながら遺跡の隅々を廻ったものの、さして目ぼしいものは見当たらず落胆に軽く息を吐く。
かといって成果がないということ自体はさして珍しいことではない。
同業者であれば新しい情報が入ればすぐに足を向けるものだろう。素材があれば研究のために持ち帰るのは当然であるし、逆にはじめから何もないこともある。
古代の魔導がどういったものであるか未だ資料が揃わず推測の域を出ないものではあるが、現代の魔導師をみてもわかる通り研究というものは秘匿されがちではある。盗作防止も勿論あるが、第三者では扱えない魔導に迂闊に触れれば目も当てられないことになりかねない。故に、遺跡自体は残っていても研究の痕跡が残っていないものも多くある。
徒労感に肩を落としながら踵を返す。
よくある事ではあるが、こうも得るものがなければ意気消沈するのも無理はないだろうと己を慰める言葉を思い巡らせる。
気分に合わせてか、魔導の光が風に吹かれたように揺らめくのに合わせて視線をあげると、黴臭い石造りの壁の向こうに控えめな祭壇が見えた。
見覚えのない部屋に眉を顰め足を向ける。
――隈無く探索したように思っていたが、まだ見ていない場所があったとは。
訝しみつつも、幻惑の罠を警戒して慎重に歩を進める。盗難防止用の魔法がそのまま残っていることもあるため無闇に歩いてはならないことはこれまでに身をもって幾度となく痛感したことだ。
さして広くもない部屋の壁に備え付けるように設置された祭壇には、何かを覆う白い布がその存在を主張していた。
色褪せたような金属の作りの祭壇や壁とは違い、綻びも埃も被っていないそれは明らかに近代のものであることがわかる。どうやら本来祀られていたものはすでに失われ、代わりのものがそこにあるらしい。
では、代わりになるものとは何なのか。
好奇心に抗えず布に手をかける。
さらりと流れるように手を滑る感触に、道具の手入れに使えそうだと薄ぼんやり考えていた意識が一気に視界へと集中した。
陶器か、あるいは彫刻か。
魔導の光に合わせてつるりと滑るような光が反射したせいかもしれないが、よく見れば硬質なものではないことがわかる。
昔読んだ物語に、女神に似せて作った彫刻に恋をした王の、人間になって欲しいという願いが聞き届けられ、女神の力により彫刻は人間と成り王と結ばれる話があった事を思い出した。
それは背筋が粟立つほどに美しい、人間の頭だった。
完璧なまでに整えられた鼻梁と頬に、艶めく紗を幾重にも重ねたような銀の髪。歌物語の美姫のような色付く唇はしっかりと引き結ばれており、その下へと続く首からは乾いた血が祭壇にこびりついている。
瞬きを忘れるほどの存在感を放つそれに自らの心臓が早鐘を打つのがよくわかる。元より昏き闇の支配する静寂な空間だったのも相まって、まるで脳が鼓動を響かせているかのように思えた。
まるで禁忌に触れるような罪悪感を抱きつつ、無意識に手が伸びた。
――いま、この世の至宝のごとき首が手に入るならばどれだけ幸福だろうか。物語の彫刻のように私に微笑みかけ、求めてくれたならば何を手放しても惜しくはない。
触れれば消えてしまう泡を撫でるように丁寧にその肌を撫でる。死した首とは思えないほどの柔らかさと温度にほう、と息を吐いた。
神が本当に存在するなら、今こそ顕れ願いを聞いてほしい。
愚にもつかない事を思い描いたことに自嘲したが、やがてその口端は引き攣るように固まった。
閉じた瞼がゆっくりと持ち上げられ、秘められていた貴石が光を照り返している。
歓喜に震える身体を辛うじて奮い立たせるも、相反して頭は依然として霞がかかったようにうまく働かない。立ち竦む足を叱咤するのもやっとの事だったが、それ以上に目の前の美しい首から目が離せなかった。
戸惑うように揺れた瞳はやがて焦点を定めしっかりとこちらを見つめた。薄い唇が弧を描いて開かれ、熟れた果実のような口内が垣間見える。
「――――――」
斯くして願いは聞き届けられた。
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噂が耳に入ったのはうだるような暑さの初夏だった。
足を向けてみる気になったのは気まぐれに過ぎず、大した期待もない。ただ多少の暇つぶしにはなるだろうという単純な思考の元だった。
何にしても考えも生活もままならないのは、太陽が巨大化するという珍奇な騒動が元だったのは間違いない。事なきを得た後にこれで平穏が訪れると安堵したのも束の間、今度は然るべき季節が訪れた。涼を求めて彷徨いはしたものの落ち着かず、偶々噂を聞きつけてこの際どこでも良いと半ば自棄で支度を済ませた。
何より遺跡というのが良い。遺跡といえばどこも保存のために日の入らない地下や洞窟が殆どなので涼むにはうってつけだ。軽く調査をして、夜を待ってからねぐらに戻ればいい。
陽の照り付ける日中は徒歩で移動するのも億劫だったので近くの森までは転移で移動した。
長く生きればもはや未踏の地へ赴く方が珍しくなる。内容の違う情報や遺物の出処を探ると既に踏破した場所であることも多々あるが、さして気にした事はなく、赴けば何かと新しい発見がないかと探索するのをフィールドワークの基本としていた。
歩を進める毎にそれまで静かに微睡んでいた情報が足元から舞い上がる。ちらちらと明かりの中を飛び交うそれらに意識が向かないように視線は常に闇の中へ投げかけていた。
やがて遺跡の最奥にさしかかったところで、眼前にちらりと光るものが見える。
魔導の光を投げかけると部屋の全貌が明らかになった。
部屋の壁には窪みがいくつも作られており、それぞれに元は供台として使われていたであろう銀製の杯が並んでいる。反射して光ったものはどうやらこれであるらしいが、目をひくのはその杯に載ったものだった。
ずらりと神聖な捧げもののように並べられた人の首。
いくつかは腐敗防止の魔導がうまくいったのか状態の良いものもあるが、その殆どは見る影もなく肉が落ち、白く輝く骨が見え隠れしていた。
それらに囲まれるように、床には一つの死体が転がっている。
ローブを纏っているところからみるに魔導師ではあるようだが、すでに事切れたそれははた目から見ると襤褸切れが落ちているようにしか見えない。
無遠慮に歩み寄り足で死体を転がす。死後の呪いの発動もないところを見ると、この様相は何かの儀式というものでもなくただの趣味だったのだろう。くだらなさに自然と鼻を鳴らす。
噂の内容はこうだ。
街道で人を攫っては遺跡で夜な夜な首を切り落とす魔導師がいる。それらしいものがいたら目を合わせず、口も開いてはいけない。
ただの怪人ではないかと思ったが、確かに魔導師を志す者でなくとも多少なりとも魔導力を宿す人間は数多いる。それらから少しずつでも魔力を吸い上げれば力を蓄えられるのだろう。推論を確かめるつもりでここまで来てみたが何のことはなく、当の本人と思しきものは疾うに息絶えている。あまりのつまらなさに嘆息し、足で転がしたままの襤褸をめくった。
この猛暑ですでに腐りはじめているその顔は微笑んでいるようにみえた。
腹いせにその身に残るささやかな灯火のような魔力を吸い上げるも、質も悪く食あたりでもしたかのように顔を顰めた。
襤褸をそのままに踵を返す。
このまま遺跡の入り口付近で夜を待つことに決めた。物言わぬ死体とはいえ、趣味の悪いこの部屋では到底思案に耽ることもできそうにない。
闇を払うように進むその背に、襤褸の奥に薄すらと開く目が湿度を孕んで微笑みかけていた。