ばら色に染まる「薔薇の香りがする……?」
静かな光が差し込む学院廊下。
すれ違いざま、すんと鼻を効かせた桃李にどきりとした。一彩は落ち着かない気持ちで口を開く。
「——たぶん、僕のハンドクリームだよ。買ってみたんだ」
「えっ、一彩の? ……ちょっと意外。薔薇の花が好きだったの?」
「特別好きな花というわけではなかったよ。けど、ユニットのみんなで出かけたときにマヨイ先輩と花を見て回って……」
四人で訪れたフラワーパーク。
流れでマヨイと二人きりの道行きになり、花々を巡って、赤や白の蔓薔薇のアーチが連続するトンネルを歩いた。秋晴れの下で鮮やかに咲く美しい薔薇に、芳醇な香り。そして隣を歩くマヨイのおだやかな声色。——秋の日差しのような、やさしい記憶だ。
ショップで薔薇の香りを嗅いだとき、それらの記憶がふわりと浮かんで、まどろみに酔う心地がしたのだ。
「ほら、いい香りだし、手に取ってしまったんだ。……急にニコニコしてどうしたの?」
「なんでも。ふふ」
にんまり笑った桃李が、面白そうに下から一彩の顔を覗き込んだ。
「ねえ一彩、知ってる? 記憶を思い起こすのって、一番は嗅覚からなんだって」
「……?」
「いい思い出になったんだな~ってこと♪」
楽しそうな声色の含みに、そのときは気づかなかった。
夜の星奏館ブックルームは静まっている。ふんわりと落ちる灯りを浴びながら、一彩は次回のイベント企画を練るべく資料をあたっていた。覗く書棚の反対側にはマヨイが立っていて、協力して本を探しているところだった。
一彩の中では企画イメージがまだぼんやりとしていて、目でなぞる背表紙のタイトル群がいまいちピンとこない。
そんな中ふと、棚の一冊に目が止まった。
『不思議の国のアリス』。少女がうさぎを追って不思議な世界に迷い込む話で、白い薔薇を赤く染めるトランプ兵たちも登場する。——先日のライブ企画応募のために調べた本だった。
手の伸びるまま背表紙を指の腹で撫でていると、人の気配が背後にあった。振り返るとマヨイが本を手にこちら側へ周り込んでいた。その本の重なりにハッとする。
「一彩さん、こちらは何冊か見つかりましたが、そちらはいかがでしょう?」
「あ……。ごめん、ぼうっとしていたよ」
マヨイの顔が曇る。
「……すこし、座りましょうか」
不思議に思うよりも早く、マヨイがテーブル席の椅子を引く。勧められるまま席に着くと、マヨイは本をテーブルに置き、正面からずいと一彩に迫った。意思のこもった視線がまっすぐ一彩にぶつかる。
「……あのう! 一彩さんに何か悩みごとがあるなら、私でよければいくらでも話を聞きますのでぇえええ……っ!!」
「えっ? ……ま、待って――マヨイ先輩?」
決死の覚悟、と詰め寄り手をとるマヨイに、一彩は目を白黒させた。
「どうしたんだ?」
「あ……。いえ、そのう、ぼうっとされていたので……また私の知らないところで一彩さんに何かあったんじゃないか、と」
「!」
薔薇を見た日。
フラワーガーデンを訪れた当日、一彩は気がそぞろで皆から顔色を窺われていた。特にマヨイは輪をかけて心配し、その後のライブの応募から当日まで、ずっと一彩をサポートしてくれていたのだ。
——それこそ、一彩本人が気にしていなかったことまで気に病んで。
「……」
握られた手を見る。マヨイの手はしっかりと一彩を捉えたままだった。
また、心配させてしまったらしい。
「ごめんねマヨイ先輩。でも今回は何もないよ。疲れていたつもりはないんだけど……どうもぼうっとしてしまって、だめだね」
笑ってみせて、憂いないことをアピールするとマヨイは張り詰めていた息を吐く。力の抜けた肩で長い髪がするりと滑るのに気を取られていると、マヨイがこほんと空咳する。
「……、何もないならいいんです。早とちりをしてすみません」
「ううん。僕こそ、手伝ってもらっているのに集中不足で、気を使わせてしまって申し訳ないよ。でもほんとうに、頭に浮かんでいたのは、マヨイ先輩を心配させるようなことではなくって……」
「——では他に、どんなことを?」
聞かれて言葉に詰まる。
それは、あるにはあるけれど——どうしてか、今はマヨイに伝えてはいけない予感がした。
「……フム」
「一彩さん?」
「言えないんだ。僕もまだそれをよくわかっていなくて、うまく言葉にできないから」
たしかに胸の奥にあるのに、正しく言語化できない。これを言い表わすには一彩が理解することが必須で、それには時間が欲しかった。
「僕の中の答えを見つけられるように、もう少し考えてみるよ」
「そうですか……」
宙ぶらりんな答えにマヨイは拍子抜けしたが、ふと、何かに気づいたように一彩を凝視する。
「もしかして一彩さん、何かつけてますか? これは……薔薇の香りでしょうか」
「え……」
見つめる瞳にぎくりとした。
「——うん、……ハンドクリームだよ。薔薇の香りなんだ」
「一彩さんが買ったんですか?」
「ウム? そうだよ」
マヨイが首を傾げる。
「……薔薇、お好きでしたか?」
昼にも同じ問いをされた。それを尋ねた桃李にはフラワーパークでの話をしたなと思い返しながら。
「ああ……うん、その……マヨイ先輩と嗅いで、好きだったからね」
そう答えながら、胸の奥がくすぐったくなる感覚に一彩は内心で首をひねる。マヨイはもちろん好きだし、ともだちと話すのも嬉しいことのはずなのに、目の前で細まる視線から、触れ合う手のひらの熱から、猛烈に逃げ出したくなっている。
いったいこれは、何なのだろう?
ハンドクリームから焦点を外してしまいたくて、話題を探した。
「ええと、マヨイ先輩とは、二人で薔薇を見て回ったよね」
「——ええ」
マヨイの口が綻ぶ。
「綺麗でしたね。いい香りでしたし……一彩さんと逸れてしまったときには慌てましたが、たのしかったですねぇ」
「……うん」
「顔の傷も……もう治りましたね」
マヨイの指が頬に触れ、顎までをやさしく辿る。薔薇を潜って作った傷はすでに塞がり、毎日の洗顔でも染みたりはしない。とっくに消えているけれど、心配してくれたマヨイが確認したいように、一彩は撫でられるまま顔を傾かせた。ほう、と息が吐かれる。
「すっかり綺麗なお肌に戻って安心しました」
そう言うのに。まるで花を覗き込むように、マヨイはさらに距離を詰めてきた。
上機嫌な微笑みが、ひどく、近い。
「——」
一彩の中に衝動が走る。身体を後ろへ引いてしまいたい。けれど椅子が背を、触れたままのマヨイの手が一彩の顔を押し留めている。
「ふふ。いい香りがしますね……♪」
「……ッ」
——あの日褒められた薔薇たちも、こんな心地になったのだろうか?
どうしてか熱の灯ってしまう頬を気取られたくなくて、ゆっくり視線を床に逃がす。俯いたところで、肌の紅潮は隠し切れないとも考えられずに。
真っ赤な耳を見たマヨイが吐息で笑った。
つくった傷は元どおり、何もなかったように消えたのに。
あの日に似た香りを選んで、自ら赤く染まる。自分の内に息づいた気持ちに、一彩ばかりが気づいていない。