グルーシャとチョウジジムの人たちの話 彼と初めて出会ったのは、ぼくがもっと幼くて、彼の頭にもまだ焦げ茶色の髪が混じっていた頃だった。
その当時、ぼくはプロのスノーボーダーとして世界中の大会に出場していた。会場によって大きく変わる雪質やコースのパターンを知るため、それから新鮮な面白さやスリルを求めて、色々な場所で練習も積んだ。
スノーボーダーは世界中を探しても両手で数えるほどの数しかいない。ただでさえ数の少ないアスリートという人種に加え、雪山という競技の絶対条件がある以上、環境によって盛んな地域とそうでない地域があるせいだ。だから大会の出場者はほとんどいつも同じ顔ぶれだった。
パルデア地方と並ぶ盛んな地域は、遥か遠くのカントー地方とジョウト地方だった。ふたご島のタイガとレイジ、それからチョウジジムのフミヤ、ノリヒロ、キンジ。レベルの高いトリックをキメる同性で同年代の彼らたちとは、本気でぶつかり合える仲間であり良きライバルでもあった。
ジョウト地方にはよく行った。大会の会場になった時はもちろん、プライベートでも何度も行った。雪質が細かく柔らかくて、パウダーの軽やかな跳ね返りがたまらなく気持ち良いからだった。氷の抜け道の山肌でバックカントリーをしてみたり、パルデアとは違うジョウトの景色を眺めてみるのも好きだった。
そうして過ごす青春の中で、上記の彼らと一緒に滑りに行ったり、語り合ったりすることがあった。その話の中でキンジたちは、『ヤナギさん』の話をよくしていた。そのことはよく覚えているし、数年が経った今でも彼らの語りぐさは変わらない。スノーボーダー兼ジムトレーナーであるキンジたちは、そのジョウジジムのリーダーである冬のヤナギを心の底からリスペクトしているのだ。話に聞くだけだったけれど、どうやらこおりタイプのジムリーダーで、日々ポケモンたちと滝や氷の上で修行をしているらしいことだけはわかった。
スノーボードが世界のすべてで、自分だけが絶対的な存在だった当時のぼくには、その尊敬の眼差しがよくわからなかったけれど。
出会ったのはシンオウでの世界大会の時。キンジたちの応援に来ていたところを紹介されたのだった。
思ったよりも小柄なおじいさんだな、と思った。
キンジたちが「とにかくカッコよくてすげーんだ!」と何度も何度も言っていたので、ぼくはツンベアーみたいに筋骨隆々な人物か、オニゴーリみたいにイカついマフィアみたいなのを想像していた。
ところが実物のヤナギさんは杖を付いた老人で、凛々しくも優しい笑顔を浮かべていた。
たしかにカッコいいと言えばイイけれど、幼くノリに乗っていた当時のぼくには、やはり理解には及ばなかった。
「こんにちは」とヤナギさんは言って、杖を持っていない手を差し出した。
ぼくは「どうも」と素っ気なく握手を返した。
こちらのグローブを嵌めた手に反して素手だったことには驚いたけれど、特に言葉はかけなかった。スノーボードの観戦をするにも薄着過ぎる格好だった。
彼はぼくの横にいたアルクジラに興味を示した。たしかにジョウトやシンオウには生息していないから、キンジたちにも最初の頃は珍しがられていたのだった。
アルクジラは人懐っこく彼に抱き着いたりして、にこにこと甘えて戯れた。本当にただの人の良さそうなおじいさんだな、という印象しかなかった。むしろそんなおじいさんをリスペクトしているキンジたちに多少の失望を覚えた。ぼくが人生のすべてをスノーボードに賭けていたのに対して、ジムトレーナーにも暇をかまけるキンジたちをどこかで小馬鹿にしていたのだ。
なのに、その大会でキンジの方が高得点を叩いた。
その瞬間、世界1位はキンジになった。ぼくは僅差の2位だった。
悔しかった。
完成させた絶対零度のトリックをミスなくキメたつもりだったから。
でもキンジはぼく以上にすごかった。最初のレールでスピードを落とさなかったのに、なぜか最初のキッカーをスルーしたかと思うとナックルでダブルコークをキメてきた。奇天烈でクールな構成に会場中が湧き立った。そこから高難度のトリックを連続で成功させ、最後の天然のハーフパイプではトリプルコーク1440。これが本当にエグかった。エアの高さも充分で、着地もミスと言えるものはひとつもなく、すべてが完璧だった。
キンジは得点が並んだ電光掲示板を確認すると、手持ちのポケモンたちやヤナギさんやスキーヤーの女の子たちと満面の笑顔で喜びを分かち合っていた。
ぼくは2位という中途半端な台の高さを噛み締めた。
アルクジラが、ぼくにそっと寄り添いながらキンジたちを見ていた。ひとりで会場に来ていたぼくには、アルクジラたちだけだったのに。
でも、この時はまだ大丈夫だった。次の大会こそは絶対に勝つ。下のヤツらには負けはしない。ぼくは自分の天性の才能と積み上げてきた努力を愚直に信じて、強く強くそう思えていた。
その後、「あれどうやって思いついたの」とキンジに尋ねてみたことがあった。最終的にはハーフパイプに圧倒されたわけだけど、後々になってナックルを使った斬新なダブルコークが気になってきたのだ。ぼくにはそんな発想はなくて大真面目にキッカーを飛んだ。1位と2位の差はそこにあると思った。
「パウワウとヤナギさんのおかげだよ」とキンジは教えてくれた。「オレがボードで伸び悩んでた時にさ、ヤナギさんにパウワウを貰ったんだ。オレはシェルダーとパルシェンしか育ててなかったんだけど、スノボする時にでも連れてって一緒に遊んでやってくれって。そんで雪山連れてってみたらさ、パウワウ、超楽しそうに滑ってんの。そん時の山のコンディションはマジでサイアクだったのに、アイツは腹と尻尾で器用にクルクルーって回ったり、アクアリング出してその輪っかん中を飛んだり跳ねたりしてさ。そんなん見てたら、なんかオレももっと色んなことできんじゃねーかなって思えてきて、一緒に遊びだしたんだ。負けてもいいから好きなように、やりたいようにやってみようって。そんな感じ?」
それからキンジは、ポケモンたちやフミヤやノリヒロのこと、ヤナギやスキーヤーの女の子の話なんかを楽しそうに話した。ぼくはへえ、と相槌を打ちながら聞いていた。雪に反射した太陽みたいに、彼の笑顔は眩しかった。
そして、数年後のフリッジでの世界大会。
キンジは変わらず世界のトップを張り続けていて、ぼくは変わらず2位のままだった。目の前の背中は見えていたし、足元も捉えていたはずだった。手を伸ばせばすぐに肩を掴んで追い越せる位置にいた。ぼくは直近のパルデア地方で開催された6大会連続王者の肩書きを背負い、世界1位を獲りに行くつもりだった。
滑走順はキンジよりもぼくの方が先だった。
緊張は一切なかった。今までもずっとそうだった。湧き上がる高揚感と全能感。ぼくには確固たる自信しかなかった。ビックマウスで煽った顰蹙を力に変換できるほど、ぼくに怖いものなんてなかった。キンジを寄せ付けずに世界のトップに立つんだという、それだけの、たったそれだけの思いだった。
滑り出しは順調だった。
それまで快晴だった天気が急に陰りだしたが、雪雲までは見えなかった。ホームに等しいフリッジ山の滑走コースは細部まで頭に入っていたし、凹凸の位置も感触も骨の髄まで染み付いていた。多少の悪天候も想定済みだし、何度も経験してきている。
一つ目のキッカーでトリックをキメた。絶対零度と呼ばれる技。アプローチスピードは完璧だったし、高さも出せていた。だが突然吹き込んだ風に煽られ、空中でバランスを取り直したせいで回転が今ひとつ不充分だった。
舌打ちしながら着地して、スピードを上げながら次のキッカーに向かって滑った。途中で岩山の大きなカーブに入った瞬間、横殴りの雪が降ってきた。
ゴーグルの視界が悪くなったことはわかった。
それでもぼくには1回目の見せ場をミスしたことの方が重大だった。キンジを追い抜かすためには、世界のトップを獲るためには、次で大技をキメなければと。
そして、
本当に一瞬のことだった。
ふわっと板が浮いた気がした。視界が完全にホワイトアウトしたかと思うと、気付いた時にはもう雪の波に飲まれていた。
何が起こったのかわからなかった。ひたすらに真っ白で真っ暗な冷たい世界で、自分がどこにいるのかも。
指の一本も動かせないまま、ビンディングに固定された脚に急激に痛みを感じた。
呼吸の仕方を忘れた。
あまりの痛みに意識を失いそうになる中、アルクジラとチルタリスの鳴く声が、どこか遠くで聞こえた。
それから、
世間はぼくのことをひと通りナジり、哀れみ、やがて忘れ去っていった。知らないヤツらのことなんてぼくにはどうでもよかったけれど。
どれだけリハビリを頑張っても復帰は絶望的だった。
日常生活を送れるようになった頃には、プロとしてやっていくには時間が経過し過ぎていた。一度壊れて止まってしまっては、アスリートの身体には戻れない。ピークの年齢も過ぎていた。なによりも、心がもう挫折しきってしまっていた。
何もかもが嫌になった。
アルクジラやチルタリスたちがいてくれたから、無為なりにも死なずになんとか生きていただけだった。
度々キンジたちからメッセージが届いた。
中身を見る気にはなれなかったから、読まずに返信もしなかった。
あの大会はぼくの事故によって中断し、後日仕切り直しになったらしい。ぼくは情報をシャットアウトしていたから結果は知らない。けど、事故前の世界ランクではぼくの2位とその下の3位はだいぶ実力が離れていたから、どうせキンジが優勝したのだと思う。
使い道のなかったこれまでの賞金を食い潰して、ごくごく普通の生活をした。ポケモンたちの面倒を見て、リハビリをして、ご飯を食べて、寝る。それだけ。
時々暇つぶしに声をかけてきた人とポケモンバトルをしてみた。人生をスノーボードだけに費やしてきたから気にしたことがなかったけれど、どうやらぼくにはポケモンバトルの才能があるみたいだった。アルクジラやチルタリスたちも、楽しそうに次のバトルへ次のバトルへとぼくを引っ張り出してくれた。今になって思い返せば、文字通り屍のように生きていたぼくを、なんとか陽のあたる場所に連れ出そうとしてくれていたのかもしれない。
バトルに勝ち続けるうちにトップチャンピオンの目に留まり、ジムリーダーを任された。向上心も目標もなかったけれど、いつまでも無職のままでいるには体裁が悪かったから、ちょうどいい、と思って受け入れた。
連戦連勝を重ねてジムリーダーが板についてきた頃、ジムの受付に1本の電話が来た。
普段なら仕事関係も過激なファンも受付の人が卒なく対応してくれるのに、その時ばかりは困った顔で「アユミさんという女性からです」とぼくに受話器を渡してきた。
思い当たる節がないままとりあえず電話を取ってみると、「あなたあのグルーシャさんね?」と聞き覚えのない声がした。彼女はぼくが答える前に捲し立てるように続けた。
「キンジくんからのメッセージはちゃんと見た? 見てるわよね? 見たんなら返信くらいしなさいよ、フミヤくんもノリヒロくんもみんな心配してるんだから!」
昔キンジが話していた、チョウジジムのスキーヤーの女の子だと思い至った。うわ、とぼくは驚いて、咄嗟に電話を切ってしまった。
心臓がどきどきと脈打って、スノーボーダー時代の記憶がどろどろと頭の中を巡った。タイル張りのロビーに立った脚が竦んだ。受付の人はまだ困ったような、心配そうな顔でぼくを見ていた。電話はそれっきりだった。
こういう時に限って、挑戦者も視察も来なかった。
なにもせずにいるにはどうにも落ち着かなくて、ぼくは戦々恐々としながらもジムのロビーでメッセージを確認してみることにした。キンジを始めとしたボーダー関係の交友は、あの事故以来すべて通知をオフにしていた。
開いた瞬間、あいつはバカだと思った。
あの事故以来、信じられないことにキンジはずっとメッセージを送り続けてきていたのだ。最初のうちはぼくを心配する言葉が続き、途中でナッペ山のジムリーダーになったことを知ったらしくそれを喜んでくれていた。それからはポケモンたちやチョウジジムの近況が綴られ、時々ジョウトの風景写真が添付されていた。
やはり、惨めだった。
キンジはチョウジジムのフミヤとノリヒロ、アユミちゃんたちに囲まれて幸せそうな生活を送っている。彼らは続けているであろうスノーボードの話題をわざと避けているのも痛々しい。ポケモンバトルもぼくとは違って楽しくやっているのだろう。その楽しそうな様子がぼくを冷たく突き刺した。
その時、「ジョウトのチョウジジムって、あのヤナギさんのジムですよね?」と、受付の人が話しかけてきた。ずっとぼくの様子を窺っていたらしい。
「知ってるの?」
「ええ。グルーシャさんは知りませんか。その昔、半世紀ほど前に名を馳せた伝説のスキーヤーですよ。……といっても、公式の大会には出場せずに雪山でプロ以上の滑りをしていたというだけですけれど。まあ、だからこそ口上で伝わる伝説なんです。本人はなにも語らないそうですし、昔のことだから映像なんかの証拠も残ってはいません。でも、プロのキンジくんやアユミさんたちがああして慕って集まってくるのは、やはりそういうことなんだろうな、と、古いスキーファンの間では推し量られているわけです」
一度だけ会って握手を交したヤナギさんのことを思い返した。彼の人となりも人生も知らないけれど、足を悪くして年老いてなお、キンジたちのジムリーダーとして優しい笑顔を浮かべていた彼を。歳月が刻まれた掌を。
足を悪くして夢が途絶えて何もかもがなくなって、自分以外の周りの未来が苛立たしいほど眩しい時、ぼくは笑顔を作ることができない。まったくできる気がしない。
キンジのメッセージを見返した。それによるとヤナギさんは、あの土地で日々淡々と散歩と修行を続けているようだ。「とにかくカッコよくてすげーんだ!」と言っていた意味が、ようやく少しわかった気がした。
ジムの長期休みの期間に、ジョウト地方に飛んだ。今までスノーボード以外の目的で旅行をしたことはなかった。かといってコガネやエンジュを観光したかったわけではなくて、なんとなく、パルデアを離れて遠く懐かしい場所に行きたくなった。
ジョウト地方は冬の初めの、カラ風が吹き荒ぶ時期だった。ぼくは空港のあるコガネからエンジュを抜けて、ふらふらと足の赴くままチョウジタウンに向かった。
でもジムには立ち寄らなかった。いまだにメッセージに返信をしていないのでキンジに合わせる顔がない。たぶんアユミちゃんも苦手だ。いや、そもそもこの時期はスキーもスノーボードも世界大会が目白押しだから、どのみちキンジたちはジムにいなかったと思う。
チョウジタウンを通り過ぎて、北の湖まで行ってみることにした。
遠い昔に氷の抜け道の山肌から眺めていたいかりの湖。山の上から見ても湖は大きかったが、平地から見るそこは対岸が見えないほどに広大だった。
アルクジラとチルタリスをボールから出して歩いていると、湖の畔でヤナギさんに出会った。会うのは二度目だった。
彼はぼくの姿に一瞬驚いた顔をして、すぐにまたあの笑顔を見せた。
受付の人に伝説のスキーヤーだった話を聞かされてから、彼の今までの人生はどうだったのだろう、と、途方もなく長い彼の人生を夢想した。これはぼくの勝手な憶測でしかないけれど、たくさんの挫折や絶望を抱えて生きてきた人なのだと思う。そうでなければ、こんな凛々しくも優しい笑顔を浮かべることはできない。
「ねえ。そのカッコ、サムくない?」とぼくは彼の隣に並び立ち、ずっと思っていたことを尋ねた。
吹き降ろしが冷たい冬の湖畔。そんな場所に佇む彼が身につけていた防寒具と呼べるものは、薄手のコートと肩からかけたマフラーくらいのものだった。元々小柄で細身だったのに、この数年間で筋肉も脂肪もさらに落ちたみたいだし、髪も眉も綺麗に真っ白になっていた。けれど、不思議と衰えた雰囲気も寒さに震えている様子もなかった。
「きみこそ厚着すぎやしないか?」
「ぼくはもう滑べんないから、これくらい厚着してないとサムいの」
ヤナギさんはふむ、と考える仕草を見せてから、「それもそうか」と頷いた。「冬は厳しいものだからの。着込んで耐え忍ぶのもひとつの術か」
彼はキャッチコピーのとおり『冬の厳しさを教える者』だった。ぼくに付けられたのは『絶対零度トリック』。トリックをキメることはもう二度とないのに。
「ぼくが耐え難いのは冬っていうより現実なんだけどね。ぼくにとっては現実が、雪のように冷たい」
こおりタイプのジムリーダーらしいことを、と言ってヤナギさんは笑った。
「笑わないでよ。サムいこと言ってるのはわかってるから」
ぼくがどうしてジョウトに来たのか、答えは自分でもわからなかった。
失った遠い過去を懐古したいわけじゃなかった。キンジたちに会って慰めてもらいたいわけでもない。ヤナギさんに同情をしてほしいわけでもない。
「グルーシャくん。冬の厳しさの先には、現実の冷たさの先には、いったい何があると思うかね?」
ヤナギさんは湖の遠くを眺めていた。
「さあ、知らない」
前に進むキッカケが欲しかったのかもしれない、と、ぼくはこの時になってわかった。意固地になって凍りきってしまった心をどうしていいかわからずに、ずっと持て余し続けていた。
「わたしも辛いことはたくさん経験してきたつもりだ。だが、その経験を綺麗に乗り越えてきたわけではない。取り返しの付かないものも癒えない傷もすべてを背負ったまま、今もなお立ち続けておるだけだ。先の景色を見たくてな」
厳しい冬の先は春。
じゃあ、冷たい現実の先にはいったいなにがあるというのか。
「同じこおりタイプのジムリーダーとして、わたしはきみの雪解けを待っておるよ」とヤナギさんは言った。
「それから、目の前にある今の時間と、きみの仲間を大切にしなさい。きみも、わたしも。まだまだ終わってはおらんからの」
はっとして、言われた通りにぼくは目の前を見た。
湖の冷たい風の中、アルクジラとチルタリスがじっとぼくを見つめていた。ジムリーダーという今があって、ずっと側にいてくれたポケモンたちが、目の前にいた。
パルデアではアカデミーの宝探しの時期を迎えた。
その頃にはぼくはジムリーダーの中ではトップの実力になっていた。時々バカみたいに強い子や相性だけを押さえて挑んで来る子に負けることはあったけど、だいたいは勝つことができていた。
宝探しを受けて立つ中で、アオイという学生がぼくのジムに挑んできた。
このアオイとのバトルがぼくの運命を大きく変えた。
ひどい負け方をしたのだ。いや、正確には僅差だった。
アオイには圧倒的な才能があった。手持ちのレベルを上げるために努力をすることができ、ポケモンを繰り出す順番やワザの構成を考える頭脳があり、支持を出すタイミングに光るセンスがあった。天候を味方に付けれるほどの運も持ち合わせていた。
そんなアオイを相手に互いに最後の1匹までを出し尽くした。
そしてアオイのテラスタル化したマスカーニャの体力をあともう少しまで削ったところで、ぼくのチルタリスは倒れた。
チルタリスのテラスタルが砕け、弾けて、手元のボールに戻って来た時、ぼくは悔しいと思った。
悔しい、と、思えた。
それはシンオウの世界大会で、キンジに負けた時とそっくり同じ感情だった。
アツくなるのは怖かった。また本気になって人生のすべてを賭けて、そしてどうしようもない挫折を味わえば今度こそぼくの人生は終わりだ。
でも、ぼくにはもうこれしかない。不器用に今を生きていくには、もうこれしか残されてはいないのだ。
なんでもかんでもに才能があるわけでもなく、何もしなければまた屍のような生活を送ることになる。才能があって努力ができて、悔しさを覚えるほどの情動が向かう先は今はこれしかなかった。
悔しさは努力で払拭するしかないことをぼくはたしかに知っている。
世界トップのプロボーダーになれたかもしれない未来を重ねて、今度はもっと慎重に、今度こそ誰にも、自然や運命にさえ負けたくないと思った。
ぼくはまだ終わっていなくて、アルクジラやチルタリスたちもいるのだから。
アオイがチャンピオンクラスになって、オモダカさんの代行でジムの視察に来た時、彼女は聞いてもいないのにアカデミーの友達や先生たちの話をしてきた。同級生や先輩のことを楽しそうに話し、キラキラと目を輝かせて先生たちのことを語った。
別の日にフリッジタウンでライムさんに会った時には、この前のライブにタイムさんが来てくれたのだと嬉しそうにしていた。
そういえば、とぼくは周りのジムリーダーたちのことを考えた。
カエデさんはハイダイさんの話をよくするし、リップさんはキハダさんやミモザさん、コルサさんはハッサクさんの話ばかりをする。ナンジャモはリスナーたちにレスポンスをし、アオキさんは食堂のおばちゃんの話を時々ぼそりと呟く。傍目から見てパルデアの四天王たちもアカデミーの先生同士もそれぞれに仲がよかった。
みんな仲間や師と呼べる人がいることに、ぼくはこの頃になってようやく気付いた。
気付いて自分のことを鑑みた。残念ながらぼくの身の回りには、仲のいい友人や先生や師と呼べる人はいなかった。
でも羨望や焦燥を抱くことはなくて、ただ、キンジたちの顔が浮かんだ。
無性に会いたいと思った。
キンジとフミヤとノリヒロ、それから、ヤナギさんにも会いたかった。
次の長期休みに、ぼくは迷わず旅行に出かけることにした。
休みなんだしお土産なんかを催促されるのも面倒だから、誰にも言わずに行こうとした。一応、何かあった時のためにと旅行に行って来るとだけ、ナッペ山ジムの受付の人に伝えた。
「ジョウトに行くんですか?」と、受付の人は当たり前のように返してきた。なんで知ってるんだよ、と思いながらぼくはまあ、と肯定した。
「それなら、ヤナギさんとキンジさんとアユミさんのサインを貰って来てくれませんか? 実は私、大ファンで」
え、とぼくは驚いた。
「ムチャ言わないでよ。ムリでしょ、特にヤナギさんは」
「そこをなんとか」
「ヤだよ、恥ずかしすぎるだろ」
なんて押し問答になった。初めて受付の人のプライベートを知ったし、言い合いをしたのも初めてだった。
彼のオタク的な熱意とぼくの頑固拒否はぶつかりあって、どちらも必死で譲らなくて、そのうちにその様子が変に面白くなってきて、ぼくはナッペ山ジムの中で、パルデアの雪山の中で、声を上げて笑った。
ひとしきり笑った後、受付の人は「グルーシャさん、ちゃんと帰って来てくださいね」と言った。
うん、とぼくは頷いた。なんだか笑えたしむず痒かった。
サインは貰えたら貰うと言って結局貰ってこなかった。まあ今後はいつでも貰えるんだから、またタイミングをみて貰ってきてあげようと思う。
ジョウト地方は春だった。
ぼくは空港から一直線にチョウジタウンを目指した。春の暖かな日差しの中、満開に咲いた桜並木を抜け、湖から流れる雪が解けた小川を越えて、山のあわいにある小さな町のジムを目指した。
今度は通り過ぎずに、そのジムの門を叩いた。
キンジはぼくの顔を見た瞬間にぼろぼろと涙を流した。そして嗚咽を上げながら、ずっと心配していたのだと、ずっと会いたかったのだと言って正面から抱き着いてきた。数年ぶりに会ったキンジの身体はよりアスリートらしくなっていたのに、やっぱりちょっとバカだった。
フミヤとノリヒロもその横から抱き着いてきて、軽い調子で小突いたり背中を叩いてきたりした。懐かしくて、みんな変わらずにいてくれて、ぼくは嬉しかった。
アユミさんにはまた怒られたけど、これからは連絡は返すこと、困った時には頼ること、と強く約束をさせられた。それから「キンジくんだけじゃなくて、チョウジジムのみんなもきみの仲間よ」と言ってくれた。
ヤナギさんはあの時と同じ凛々しくて優しい笑顔を浮かべて、ぼくに片手を差出した。
「おかえり」
その片手を握り返した。歳月が刻まれたその掌は、ぼくが今までの人生で知りうる限りの誰よりもすごくて……、とにかくカッコよくてすごかった。
「ただいま」
冷たくて熱いこの世界に。
ぼくはまた、みんなと同じ世界に帰ってきたのだ。
厳しい冬の先にある、冷たい現実の先にあるはずの、暖かな未来を求めて。