夢 今日は一世一代の大舞台だ。緊張のあまり、どきどきと響く心臓の音が煩くて、周りの音が聞こえない程だ。リーチェンは、ジャケットのポケットに忍ばせた小さな箱に指先で触れる。……きっと大丈夫、俺たちは十分すぎるほど愛し合ってる。
キャンドルの仄かな光が、ムーレンの美しい顔を照らす。そして、黄金色に光るフルートグラスを傾けると、一口、口を付けた。なかなかグラスに手を付けないリーチェンに、飲まないの? と首を傾げる。リーチェンは緊張で震える手でグラスを持つと、一気に飲み干した。とん、とグラスを置くと、ポケットの中の小箱を取り出した。いよいよだ、今からムーレンに二回目の告白をする。
「トントン……いや、ムーレン、愛してる。俺と結婚してください」
震える手で、ぎこちなく開けた小箱の中には、二つのペアリング。リーチェンが結婚指輪にと買ったものだ。ムーレンは、いきなりのリーチェンの告白に驚きを隠せないらしく、瞬きをするのを忘れたかのようにリーチェンを見つめる。今は驚いているみたいだが、もう少ししたら嬉しそうに目を細めて微笑んでくれるに違いない。もしかしたら喜びで泣いてしまうのではないか。リーチェンの中で、ムーレンの次の行動がシミュレートされては消えていく。
さあトントン、早く俺に返事を聞かせてくれ。
「リーチェン……それは受け取れない」
喜びとは程遠い表情で、ムーレンが口を開いた。そして、すっと小箱を指で押し返す。余りの想定外の出来事に、リーチェンの動きが止まる。今ムーレンは何と言った? 聞き間違いではないのか。俄かに信じがたい。
「リーチェンの事はもちろん好きだ。だけど、結婚を考えられるような関係じゃないし、第一僕は同性のお前と一生添い遂げる勇気がない」
今にも泣きそうな顔でムーレンが言う。そしてごめん、と言って席を立つとそのまま店を出て行ってしまう。リーチェンはそんなムーレンの後ろ姿を見ることしか出来なかった。思考がついていかない。言葉の意味すら理解できない。何も、分からない。開いたままの瞳から、雫がぼたぼたとテーブルクロスを濡らす。何故? 俺たちは愛し合っていたんじゃないのか? 一生一緒にいると誓ったはずなのにそれは嘘だったのか? 何故……何故!!
がばり、と起き上がると、頬が涙で濡れているのが分かった。真っ暗な自室。ああ……とリーチェンは両手で顔を覆った。なんと言う恐ろしい夢。どくどくと打つ鼓動が早鐘のようだ。夢で良かったと思う反面、何故あんな夢を見たのか自分でも分からない。刹那、酷く心が騒ついて、居ても立っても居られなくなり、自室を飛び出した。そして、ムーレンの寝室に入るなり、眠っているムーレンを抱きしめる。ムーレンが息苦しそうに、なんだよ……と言ってゆっくりと瞼を上げた。怖い夢を見た、とムーレンの耳元で囁くと、呆れた様にムーレンが笑う。そして、渋々掛け布団を捲り、中に入ってくるよう促す。こうやって夜中にムーレンのベッドに潜り込むのは初めてではない。だから、ムーレンもある程度慣れているので、拒絶されることはない。今日はそれが有り難かった。本当に怖い夢を見たのだ。ムーレンを側に感じていないとどうにかなりそうだった。たかが夢だと言うのに、心が乱れてどうしようも無い。リーチェンはムーレンを抱くようにして横になる。そして、愛してるよ、と耳元で囁く。ムーレンも夢現の様子で、僕も、と答えてくれる。今はその答えだけで安心できた。ちゃんとムーレンも自分を愛してくれている。
夢、なんて言うものは、覚醒して時間が経てば忘れるものだ。リーチェン自身もいい夢も悪い夢も、そう長く覚えていることはなかった。ただ、先日見た夢は忘れようにも、ふとした瞬間に思い出してしまうのだ。それだけインパクトが強かったと言うのもあるだろうが、互いに同性と言うハンデに不安が無い訳ではない。その少しの不安が夢に現れてしまったのか。とは言え、リーチェンはムーレンを離しはしないし、ハンデなんて乗り越えてムーレンと一生共にいる覚悟は出来ている。ムーレンも、同じ思いだと信じているが、実際まだ訊ねた事はない。
ムーレンの携帯に電話がかかってきたのは、夕食も済んで二人まったりと過ごしている時だった。電話を取るなり、何、と少し不機嫌な様子で答えるムーレンに、リーチェンは若干の違和感を感じた。そして、電話で話しながらソファから立ち上がると自室の方へ歩いて行ってしまう。何か聞かれたらまずいことでもあるのだろうか。互いに隠し事は止めようと言った間柄だ。気になってしまうのは仕方がない。かと言ってムーレンの側に行って話を聞くなんて常識外れなことはしたくないリーチェンは、ムーレンが戻るのをそわそわしながら待っていた。
ようやくムーレンが帰ってきたのは、三十分程経ってからだった。少しイラついたように携帯を置くと、どさりとソファに腰を掛けた。何かあった? と肩を抱きながら訊くと、疲れた様な笑みを浮かべる。そんなムーレンの表情に、余計気になってしまったリーチェンは、何でも話聞くから、と食い下がる。こうなるとリーチェンは諦めが悪い。ムーレンは、やれやれと言う様に肩をすくめた。
「実家からだよ、電話。最近、恋人はいないのかとか本当に煩くて。うちの親の友達が自分の娘のお見合い相手探してるみたいで、僕は断ってるのに、会うだけでも、って諦めないんだよな」
困ったように笑うと、僕にはお前が居るのに、とリーチェンの頬を撫でる。ムーレンはそう言うが、リーチェンの心は騒ついたままだ。ムーレンの親はきっとムーレンが異性と結婚して、普通の家庭を作る事を望んでいるのだろう。今はまだ上手く断っているのだろうが、この先どうなるかは分からないし、ムーレンが断り続けてくれると言う保証もない。親の為に自分を捨てて、他に家族を作るのかもしれない。何もかも未確定で、安心できる未来などない。あの夜の、あの夢がフラッシュバックする。ムーレンが俺を捨てる。堪らず、ねぇ、とムーレンに問いかけた。
「ほんとに俺だけ? 俺だけずっと好き? 俺とずっと一緒にいてくれる?」
矢継ぎ早にそう質問するリーチェンに、ムーレンは一瞬言葉を失ったように見えた。自分の感情がコントロールできない。今のリーチェンは、ムーレンからの安心できる答えを求めて、求めすぎて、呼吸のできない魚のようだ。ムーレンは本当に自分だけを見てくれるのか、自分をずっと選び続けてくれるのか。ムーレンの腕を掴んだ指に思わず力が入る。少しだけ、ムーレンの眉が歪んだ。
「……ちょっと待て、何言ってんの? 断ってるっていっ」
じゃあさ、とムーレンの言葉に被せるようにリーチェンが言う。優しく微笑んでいるつもりなのに、顔が強張っているのがわかる。上手く笑えない。
「俺、挨拶に行くよ、トントンの恋人だって。 それで万事解決だろ? お前がしつこくお見合いを迫られることもないし、どうせ俺たちずっと一緒にいるんだし、お互い親に紹介しても何の問題もないだろ?」
な、と答えを求めてみても、ムーレンは固まったままだ。きっとあの夢のせいだ。不安で不安で仕方がなくて、なんでも良いから答えを求めている。その質問が、突飛で常識外れだったとしても。無駄に切羽詰まって、下らない問いを投げかけているのは分かるが、濁流のような濁った思いを止めることはできなかった。刹那、ムーレンがリーチェンの腕を振り払う。
「お前さ、今自分が何言ってんのか分かってる?何があったのか知らないけど、無茶苦茶言ってるって自覚ある?」
ないよな、と言って呆れたような、悲しむような瞳でリーチェンを見つめた。ムーレンの言葉に一瞬言葉が詰まる。自分は一体何を思ってムーレンに詰め寄っていたのか。
「……少し頭冷やせ」
暫くの沈黙の後、ムーレンがゆっくりとソファから立ち上がる。リーチェンは部屋を出ていくムーレンを目で追う事しかできない。……行かないで、ずっと側にいて、そう縋ってしまいそうになるのを必死で耐えた。
はぁ、と一人ソファに寝そべると、両腕で顔を覆う。暫く深呼吸をしていると、熱せられた心が徐々に冷めて行くのが分かった。と同時に、ムーレンに何てことを言ってしまったのかと罪悪感が込み上げる。ただの被害妄想なのだ。実際、おかしな夢を見ただけで、ムーレンに何かされた訳でも、何か言われた訳でもない。家族の事なんて最もデリケートな問題で、軽々しく結論を急いで良いものでは決してない。リーチェンもそれは分かっていたはずなのに。同性だからこそ、ゆっくり解決しなければならない事なのに。自分のバカな行動が情けなくて、ああ、と声に出せば、顔を覆った両腕にじわりと熱が広がる。そしてその熱がどんどん広がって、いつしか噛み殺すような嗚咽に変わっていく。情けねぇなあ、と何度も独りごちて、いつしか涙と闇がぐちゃぐちゃに混ざって行った。
食器の重なるような音がして、リーチェンは重い瞼を上げた。どうやら昨日はそのままソファで寝てしまっていたようだ。ぼやける視界で捉えたムーレンは、もう既に着替えており、食事も済ませてしまっているようだ。テーブルにはリーチェンの為の食事が置いてある。リーチェンはのろのろとソファから立ち上がると、おはよう、とくぐもった声で言った。そんなリーチェンを一瞥すると、今晩シンスーと夕飯食べてくるから、とそのまま鞄を持って出て行ってしまった。リーチェンはぼんやりと彼を見送り、出勤の支度を始める。いくらムーレンと喧嘩をしていたって出勤時間は迫ってくるし、仕事もこなさねばならない。洗面所の鏡に映った、パンパンに目が腫れた自分の姿を見て思う。今日はとにかく何も考えないようにして、夜ムーレンに謝ろう。
ムーレンが家に帰ってきたのは、意外にも早い時間だった。シンスーと食事をして帰ると言っていたムーレンだ、てっきり遅くなるだろうと思っていたリーチェンは、心の準備が出来ぬまま彼を迎えた。ぎこちなさが全身に現れる。昨日の事を謝りたいのに、どう切っ掛けを作れば良いか分からずに右往左往しているリーチェンをチラリと見ると、ムーレンはソファに座り、ぽんぽんと自分の隣をタップした。そして一度ゆっくりと瞬きをする。
「リーチェン、昨日のあれ、一体何?」
怒るでもなく、責めるでもなく、静かな口調でムーレンが尋ねた。リーチェンはムーレンの手を握ると、夢が、と言った。
「お前が俺を捨てる夢を見た。プロポーズしたけど断られたんだ。それがショック過ぎて俺……ただの夢だって分かってるのに、ほんとに捨てられるんじゃないかって気が気じゃなくて」
酷い事言った、と顔を伏せる。溜息のようなムーレンの呼吸が聞こえ、彼の指がリーチェンの頬に触れた。
「お前さ、僕の事信じてないのか?」
ムーレンの言葉に、勢い良く顔を上げると、そんな事ない! と叫んだ。信じている、信じているけれど、不安で仕方ないのだ。
「トントンが俺のこと好きで、ずっと一緒にいるって信じてるし、俺がそうしてみせる! 何があっても離さない!」
リーチェンの必死な表情に、漸くムーレンの表情が柔らかくなる。
「それでこそリーチェンだ。何が何でも僕を離さないんだろ?」
それでいいんだよ、何を心配する事がある? と優しく微笑むと、軽くリーチェンに口付けた。 ムーレンの言葉に、自分の心が軽くなるのが分かった。何を不安になる事がある? いつでも自分は己の希望を叶える為にがむしゃらに行動してきたではないか。不安に思う暇があったら行動を起こしてそれを払拭すれば良い。悪夢のせいで本来の自分を見失っていた。
「そうだよな!! 俺は絶対お前を離さないし、絶対に幸せにするよ、だから離れるな」
いつもの調子が出てきたリーチェンに、ムーレンが嬉しそうに笑う。
「……僕も、もうずっと前から、お前から離れられなくなってるんだよ」
リーチェンはムーレンの頬を撫でると、思い切り抱きしめる。言葉では伝わらない自分の思い全てが伝わればいいのに。どれだけ自分がムーレンを愛しているか。
「これ以上は、トントンにプロポーズする時に言わせて」
今のままだと、勢いのままプロポーズしてしまいそうだ。リーチェンは昔から、プロポーズする時は思い切りロマンティックな場所で、と決めている。ちゃんとセッティングするから、それまで待ってて、トントン。
リーチェンを抱き返し、そっと頭を撫でながら、僕も色々ちゃんと考えてんだよ、とムーレンが囁く。
「来週、僕の実家に行かないか?」
ムーレンの言葉に驚いたリーチェンは、思わずムーレンの顔をまじまじと見つめてしまった。
「え? いいいきなり過ぎないか? まさか、こここ恋人って紹介……」
動揺して吃るリーチェンに、そうじゃなくて、と微笑む。
「それじゃ余りに唐突だろ! 先ずは友人としてのお前を家族に紹介する。そして徐々にお前との関係を知って貰えたらなって」
ムーレンの言葉を聞いて、思わず視界が滲む。自分以上に、彼は自分達の関係についての最善を考えてくれている。これ以上の幸せはない。
「シンスー達みたいに、僕はお前と一緒に色んな事乗り越えて行きたいんだよ」
「それ、何てプロポーズ!?」
ムーレンを抱く腕に力を込める。心配する事なんて何もなかったのだ、初めから。
涙混じりの声で、愛してるよ、と言うのが精一杯だった。夢は見るものではなく、叶えるものなのだ、と一生の伴侶を抱きしめながら、心の底からリーチェンは思った。