秘密 どうも自分は、あのウザい後輩に懐かれている気がする。ふと見た携帯には着信が四件。電話を掛けてきた相手は、シャオ・リーチェン。ムーレンの課の後輩だ。暫く前までは、ムーレンの事をあからさまに嫌っているのが分かるぐらいだったのに、ここ最近何かと側に寄って来るし、休日はこうやって電話攻撃だ。しかし、彼に懐かれる心当たりがない訳ではない。
暫く前、リーチェンの仕事の失敗のアフターケアをして、落ち込んでいる彼を励ました事がある。励ますと言うよりは、ムーレン的にはいつも自分が思っている事を言っただけなのだが、普段割と辛辣な事しか言わないと言うのもあってか、リーチェンの中で、ムーレンのイメージが変わったようだ。いつもキツい事しか言わないけど、ほんとは優しいんですね、なんて満面の笑みで言われた日には、若干の気持ち悪さを感じた程である。
他人に好かれようと嫌われようと興味がないムーレンだが、リーチェンに懐かれて悪い気がしないのは否めない。リーチェンはとても社交的で優しい。仕事に対する熱意もあるし、ムーレンが嫌う要素は全くないと言っていい。ただ、若干ナルシストでウザい、と言う所を除けば、であるが。
彼の事を気に入っているかと言われると、もしかしたらそうかも知れない。実際、明るくていい奴だと思うし、自分には持っていないモノを沢山持っている。純粋に、羨ましいと思う事もある。
ムーレンは着信に返信しようかどうか迷っている。今日は休日なので、きっと何処かへ出掛けようと言う誘いだろう。数回、リーチェンの誘いに乗って一緒に出かけた事はあるが、それなりに楽しかったと思う。なので、リーチェンと出掛けるのはやぶさかではない。ただ、今日は本を読んで過ごそうと思っていただけに、若干腰が重い。電話を掛け直すのも面倒なので、断りのメッセージを送ろうとした途端、何かを感じ取ったかのように、リーチェンからのコールが掛かる。ムーレンは軽くため息を吐いて、通話ボタンを押した。
やっと出た! と開口一番大きな声を出されて、ムーレンは一瞬電話を耳から遠避ける。いっつもテンション高ぇんだよ、馬鹿。
トンさん、今日も暇してるでしょ? と言う失礼な物言いにイラッとしながらも、僕は今忙しいんだけど、と冷静に言うが、またまたー! と聞く耳を持たない。
「前にトンさんが好きって言ってたアーティストの展覧会が昨日から開催されてて、一緒に行かないかな、と思って」
一瞬、ムーレンの指がピクリと動いた。非常に魅力的な誘いである。だが、この時間から動くとなると……腰が重い。魅力的な誘いだが、どうも面倒くささが勝ってしまい、今日は断ろうと口を開こうとした矢先、実はもうチケット買ってあるんだよね、と言うリーチェンに、うっと言葉に詰まる。
「…………行く」
ですよねー! と嬉しそうに言うリーチェンが若干憎らしい。何でコイツはこんなに用意周到なんだ。まんまと嵌められた感はあるが、行くと言ってしまったからには仕方がない。ムーレンは待ち合わせ場所と時間を決めると、重い腰を上げて、出掛ける用意に取り掛かる。行くと決めてしまえば、徐々にテンションは上がって来る。そして一瞬我に返り、テンションが上がっているのは展覧会に行くからだ、と思い直した。決してリーチェンと出掛けるからではない。
ムーレンは何かと接待に呼ばれる事が多い。件の女社長の様に、彼の容姿を気に入った人間に呼ばれる事もあるが、単に酒が程々に飲めてちゃんと接待の会話ができると言った所が重宝されている。ムーレンは普段は口数は少ないし、辛辣ではあるが、ちゃんと仕事が出来る人間である。ビジネスな会話も勿論出来るし、相手を喜ばせる術も知っている。とは言え、仕事の延長であるし、非常に気を使う。会食が終わった後はドッと疲れるし、気を張って飲んでいる為、一気に酔いが回って来る。今回もそうだ。上司や得意先と別れた後、一気に回ってきた酔いに、覚束ない足取りで帰路につく。疲れた、今すぐ寝たい、と言う思いが全身を支配するが、道端で寝る訳には行かない。
ふと、何故かリーチェンの事を思い出した。アイツはいつも僕に引っ付いて来る癖に、必要な時に側にいない。リーチェン自体、ムーレンの何でもないのだが、全く理不尽な思いがムーレンの頭をよぎる。ムーレンは苛立った様に携帯を取り出すと、着信履歴をリダイヤルする。数コールもしない内に、どうしたんです? とリーチェンの声が聞こえた。
「……眠い」
ああ、何故か電話したけど話すのが面倒くさい。そんなムーレンの思いを察したのか、リーチェンが、そう言えば今日接待でしたね、と言った。
「今何処にいるんです? いる所教えてくれたら迎えに行きますよ」
「……そう言うんじゃないし、来なくていい」
リーチェンに迎えに来て欲しくて電話をした訳でもないし、彼に会いたい訳でもない。だからと言って、じゃあ、と電話を切る事もできない。自分はどうしたいのか、答えは出ずに暫く沈黙が続く。暫くして、リーチェンが、近くに何が見える? と聞いてきたので、何気なくランドマーク的なものを告げると、そこに居て、と電話が切れた。ムーレンは力が抜けた様にその場にしゃがみ込んだ。何せ眠くて思考が追いつかない。リーチェンに電話した事ももう既に忘れそうだ。しゃがみ込んだ先でうつらうつらしていると、ふと肩を掴まれた。ぼやけた視線の先には、見慣れた顔が映る。ああ、またウザいやつが来たな、と思う反面、何故か安堵している自分がいる。思わず、なんでお前がいる、と言えば、目の前の男の眉尻が下がった。
「あんたの酒癖の悪さは大体知ってるから」
喧嘩してなくてよかったよ、とリーチェンがムーレンを抱くようにして立たせる。以前、酔っ払って喧嘩しかけた所を見られたことがある。そのことを言っているのだろう。別にムーレンは酒癖が悪い訳ではない。ただ眠くなって前後不覚になるだけだ、と反論しても、はいはい、といなされる。リーチェンの腕の暖かさが伝わって、更に眠気がムーレンを襲う。思わずリーチェンの肩に頭を預けた途端、全身の力が抜けた。けれど、ムーレンの身体は地面に落ちる事は無く、しっかりとリーチェンに抱き抱えられている。この心地よさと、何とも言えない安堵感に、ムーレンは徐々に意識を手放して行った。
耐え難い喉の渇きで目を覚ましたムーレンは、暫くじっと天井を見つめた。そしてここは自分の家ではないな……と朧げに思う。接待が終わって、急に酔いが回って、何となくリーチェンに電話したんだっけか。……と言うことは、ここはリーチェンの家か。まだ酒の残っている頭で、ゆっくりと耳に意識を集中すると、隣から微かな息遣いが聞こえた。少しだけ頭を動かして横を見ると、すやすやと熟睡しているリーチェンがいた。リーチェンの家には何度か来たことがあるが、ベッド以外に大人二人が寝るスペースなどない。自分の家にムーレンを連れ帰って、すっかり眠っているムーレンをベッドに寝かせ、その隣で寝たのだろう。
リーチェンの狭い部屋を、ムーレンは以前、犬小屋と表現した。この部屋が犬小屋であれば、住んでいるリーチェンはさしずめ犬だろう。それも結構な大型犬だ。最近の、リーチェンのムーレンへの懐き方はまさに大型犬と言っても良いだろう。そう考えると可笑しくなって、ムーレンは小さく笑った。そして寝ているリーチェンの方を向き、ゆっくりと指をリーチェンの髪に絡ませた。リーチェンの短い髪はまるで短毛の犬を撫でている様だ。
「……わんって言ってみろよ」
リーチェンを起こさぬよう、笑いを堪えながら小さく呟く。そして段々と面白くなってきて、ゆっくりとリーチェンの髪を撫で回す。本当に大型犬のようだ。彼の人懐っこい性格も、がっしりとした体型も、主人に忠実な所も。意味の分からない、たった一本の電話でちゃんと迎えに来てくれる。けれど、とムーレンは思う。これだけ懐かれている理由がわからない。リーチェンの事を贔屓した事もないし、別段良くしてやったつもりもない。他の社員と扱いは同じはずだ。
ムーレンはリーチェンの髪から指を離すと、そっと彼の頬に指を滑らせる。まさか、僕の事が好き……だとか? そう思った瞬間、咄嗟にリーチェンから指を離す。そしてその考えを打ち消すように、自らの髪をかき上げた。こいつには彼女も居たはずだし、始終女の子の話をしているじゃないか。何を馬鹿な事を、と寝返りを打とうとした瞬間、微かな声を上げてリーチェンの腕がムーレンの腰に巻き付き、引き寄せた。まるでリーチェンに抱きしめられているかのような体勢に、思わず、シャオ・リーチェン!! と声を上げるが、リーチェンが起きる気配は一向にない。あまつさえ、ムーレンがその腕から逃れようとする度に、リーチェンはムーレンを抱く腕に力を込める。ムーレンは観念してリーチェンの腕に収まった。なんて馬鹿力だ、くそ、と呟くも、リーチェンには聞こえていないだろう。抱きしめられたリーチェンの胸から、ゆっくりとした鼓動が聞こえる。ムーレンはふと、彼の胸に顔を近づけ、鼓動を聞いてみた。規則正しく鳴る鼓動と少し高めのリーチェンの体温が相まって、物凄く心地よい。ムーレンはゆっくりとリーチェンの体に腕を回し、そしてぴたりと彼に体を寄せた。人の体温と鼓動がこんなに気持ちのいいものだとは。ムーレンの体の奥から、何とも言えない多幸感が溢れてくる。それは少しむず痒いような感覚で、堪らずリーチェンの胸に顔を埋めた。そして顔を上げると、再びリーチェンの頬に指を這わせた。
「リーチェン……起きてないのか……?」
確認するようにムーレンが問う。リーチェンが起きていない事を確認して一体何がしたいのか。ムーレンの問いかけに応える事なく、リーチェンは規則正しい寝息を立てている。ムーレンは少し上に体をずらすと、リーチェンの頬を手のひらで包んだ。
自分の心臓の音が煩い。バクバクと部屋中に響いているようだ。指が震えている。ムーレンはゆっくりとリーチェンに近づくと、薄く目を閉じた。そして唇で彼のそれに触れる。それは触れるか触れないかの微かなものだ。ムーレンは数回、それを繰り返すと、そのままリーチェンの胸にまた顔を埋める。これは動物に対する愛情表現の様なもので、決して恋人のそれではない。迎えに来てくれた忠犬に対してのご褒美の様なものだ。自分の恋愛対象は女性であるし、それはリーチェンも同じだろう。そしてまだ自分は同性のリーチェンに何故かキスしてしまうぐらい酔っ払っている。それに、キスしたとて女性に感じる様な感情は芽生えていない。これはただの悪ふざけなのだ。
ムーレンはゆっくりと寝返りを打つと、リーチェンに背を向けた。そして、思いとは裏腹にまだ煩く鳴っている鼓動を落ち着かせるように深呼吸をする。
さっきの出来事は僕だけの秘密だ。誰にも絶対に言わない、秘密の悪戯。
ムーレンは瞼を閉じる。けれど、背中に感じるリーチェンの温もりと、自分の鼓動の音で、なかなか寝付くことができなかった。
トンさん、朝ごはん食べれる? と言うリーチェンの声で、ムーレンは重い瞼を上げた。隣で寝ていたリーチェンが起きた事も気づかずに眠ってしまっていたようだ。ムーレンは瞼を擦りながら起き上がると、まだぼんやりとした声で、食べる、と言った。小さなテーブルに置かれたのは、湯気を立てている白い粥だ。ムーレンは少しだけ掬って口に入れると、美味い、と呟いた。二日酔いの胃に染み渡る。ムーレンは目の前で粥を食べているリーチェンに、おい、と声をかけた。
「シャオ・リーチェン、お前僕を抱き枕にするな」
リーチェンは一瞬しまった、と言う表情をするが、すぐににへら、と眉を下げた。
「あー、俺、隣に人が寝てると、どうも抱きつく癖があるんですよね……何つーか、人の温もりに反応しちゃうって言うか」
トンさん寝れなかった? と問うリーチェンに、物凄く迷惑だった、と睨む。
「ほんとお前犬みたいだな、人にくっ付いとかないと死ぬ病気か何かか?」
よく言われます、とへらへらと笑うリーチェンを一瞥すると、また再び粥を口に運ぶ。
リーチェンはきっと気づいていない。昨夜の悪戯は僕だけの秘密。そう思うと、微かな背徳感と恥ずかしさがじんわりとムーレンを包む。久々に感じた人の温もりが惑わせたただの戯れだ。
黙々と粥を食べるムーレンに、今日は休日だしどこか行こうよ、とリーチェンが嬉しそうに言う。
「じゃあ今日は公園へドッグランでもしに行くか」
そう言って、思わず吹き出したムーレンを、リーチェンは不思議そうに見つめるのだった。