惚気 ヨンジエと付き合い始めて早数ヶ月。そもそも仲の良い(一方的なヨンジエの恋慕もあったのだが)兄弟だった二人である。恋人になった今も喧嘩をする事もなく、恋人としての関係もとても順調だ。ヨンジエはシンスーに益々べったりになり、今までシンスーが受けた事の無い様な愛情を沢山くれる。今まで辛い恋ばかりを経験してきたシンスーにとって、彼が与えてくれる愛情は何ものにも変え難い、温かで幸せなものだ。
お待たせ、と言ってヨンジエが持って来たのは、手作りのプリンだ。可愛い器に入ったそれは、キッチンからでも美味しそうな甘い香りがしていた。元々料理を全くしなかったヨンジエだが、料理が得意でないシンスーに代わって料理をする様になり、今ではお菓子まで作れるようになっていた。これもひとえにシンスーの為だと彼から聞く度、そしてシンスー好みに作られた料理を頬張る度、シンスーの心は満たされる。自分はこんなに愛されているのだと再確認するのだ。
ことりと置かれた器から広がる甘い香りに目を細めると、食べてみて、と隣から声がする。シンスーはテーブルに置かれたスプーンを手に取ると、黄金色の表面をそっと掬って口に運んだ。柔らかな感触が舌の上でゆっくりと溶けていく。控えめな甘さがまさにシンスー好みだ。思わず、美味しい、と言うと、ヨンジエの切長の瞳が弧を描いた。
「俺にも食べさせて」
あーんと口を開いてねだる所などは年相応で可愛い。シンスーは思わず頬にキスしたくなる衝動を抑え、プリンを掬ってヨンジエに食べさせてやる。ヨンジエは、美味しくできた、と満足そうに頷いた。うん、ほんとに美味しいよ、と相槌を打つとまた一口、とスプーンを口に運んだ。
「シンスー、俺ももっと食べたい」
君のはこっちに……とシンスーがヨンジエに顔を向けた瞬間、ヨンジエの唇がシンスーのそれに重なった。そして軽くシンスーの唇を舐めると、甘いね、と囁いた。どくん、とシンスーの心が跳ねる。
ヨンジエとキスをしたのはいつだったか。ヨンジエと付き合い始めてから家族全員で暮らしている為、恋人同士の触れ合いはほぼ出来ないと言っていい。それが出来るのは、今日の様に両親が揃って出掛けている時のみだ。
久々のキスで体温が上がる。そして潤み始めた瞳でヨンジエを見つめると、もっと食べたい? 囁くように尋ねた。一瞬、ヨンジエの瞳が揺れ、ゆっくりと頷くのを確認すると、一口プリンを口に含んだ。そしてヨンジエの頬に手を添えると軽く口付ける。それが合図かのように、ヨンジエの舌がシンスーの口内に侵入した。シンスーも彼を迎えるように薄く唇を開く。舌を絡め合う度、甘い味が広がり、思考が霞ががってくる。まるで酔っているようだ。ふわふわと甘い香りのヨンジエのキスで体の芯から熱が広がって行く。キスの合間に、すごく……甘い、と吐息混じりに囁けば、何かを押し殺したような声で、うん、と聞こえた。
「ねぇ、プリンじゃなくて、あなたを食べたい」
熱に浮かされたような瞳をしているのは、自分だけではない。懇願するような、それでいて獰猛ささえ感じる瞳で見つめられ、シンスーはぶるりと小さく震えた。期待しているのだ。彼に隅々まで食べ尽くされることを。シンスーはその言葉に応えるようにヨンジエの耳たぶを甘噛みした。
「僕も……君に食べて欲しい」
ヨンジエの唇がシンスーの唇を軽く食み、唇から首筋へと移動していく。軽く噛まれる感覚が甘い疼きとなって、もうすでに敏感になっているシンスーの体がびくりと跳ねる。互いの熱い吐息が混じり合い、どちらのものか分からない薄い喘ぎが絡み合う。そして互いの体温を求めるように、肌を触れ合わせた。
かさり、と言う衣摺れの音で、シンスーは目を覚ました。いつの間にか移動していたのだろう、ここは見慣れたヨンジエのベッドだ。温かい体温を感じ、緩慢な動きで隣を見ると、ヨンジエが携帯を弄っている。さっきの衣擦れの音は、ヨンジエが携帯を取りに行った際のものだろう。シンスーが起きた事にも気付かず、熱心に何かを打ち込んでいるヨンジエに、ねえ、と声をかけた。
「ヨンジエ、おはようのキスして」
少し拗ねたような声色で囁くと、ちょっと待ってね、と暫く携帯を操作した後、シンスーにキスを落とした。
「携帯ばっかり触って、僕は放ったらかし?」
キスを待たされた事に少し拗ねたシンスーは、そう言ってヨンジエの頬を軽く抓る。ヨンジエは、ごめん、と再びシンスーにキスをした。
「友達のメッセージに返信してたんだ」
だから拗ねないで、とまだ熱の残るシンスーの体を抱きしめた。シンスーは、友達……と呟くとヨンジエの背中に腕を回す。長くヨンジエの兄をやっているが、ヨンジエから友達と言うワードをあまり聞いた事がない。それに、ヨンジエ自身から友達などいらないと聞いた事もある。だから、ヨンジエが自分の事を好きだと言った時、その好きだと言う感情は友達と呼べる人間のいないヨンジエの、ただの執着だと思った事もあった。だから先程の、友達、と言う言葉に少しの違和感を感じてしまう。シンスーや両親に言っていないだけで、本当は友達と呼べる人間がいるのかもしれない。世間から見ると、気難しい部類に入るヨンジエとて、二十歳の若者だ。友達がいない方が逆におかしいだろう。
「大学の友達?」
ヨンジエの言う事を疑う訳ではないが、どうしても疑っているような質問になってしまう。シンスーの問い掛けに、うん、そんな感じ、とさらっとヨンジエが答える。そして何か思い当たったように片眉を上げた。
「もしかして、ヤキモチ?」
ヨンジエは、へへ、と笑うと、可愛い、とより強くシンスーの体を抱きしめる。
「ヤキモチなんて焼かなくても、俺にはシンスーだけだよ。誰よりも何よりも、俺にとって一番なのはあなただ」
知ってるだろ? と優しく微笑むヨンジエにシンスーも笑顔で応える。ヨンジエが自分以外見ていないことは知り過ぎるほど知っているし、十分に愛されているのもわかる。きっと自分は、事後に少しの間でも放っておかれたのが気に入らなかったに違いない。事後であるほど、ヨンジエの温もりが恋しいのだ。
「そう、ヤキモチだよ。僕は君とずっとくっ付いていたいのに」
そう言ってヨンジエの足に己が足を絡めると、ヨンジエに再び熱が宿るのが分かった。ゆっくりと足を動かすと、苦しげな吐息と共に、煽らないで、とヨンジエがシンスーの喉元に噛み付いた。シンスーは満足げに柔らかく息を吐く。果たして、両親が帰って来るまでに平常に戻れるだろうか。
やっぱり気になる、とシンスーはヨンジエの姿を見つめた。夕食が終わり、二人リビングに残って食後のコーヒーを飲んでいる。久し振りにヨンジエと身体を重ねた日に気になった事が、一度気になってしまうと物凄く気になる。以前より明らかに、ヨンジエが携帯を触っている頻度は増えている。これもきっと大学の友達とのやり取りだろうが、やはり前に比べて多く感じてしまう。いっそヨンジエに尋ねたい気持ちもあるが、友達だ、と言われた事もあり、同じ事を何度も聞くには気が引ける。それに、嫉妬深いと思われるのも嫌だし、ヨンジエを疑っていると思われるのも嫌だ。ヨンジエはあんなに愛してくれているのに、それを信じる事ができない人間にはなりたくない。ヨンジエがくれた幸せな言葉達を信じているのだ。ヨンジエに限って自分以外に好意を寄せるなど、ある筈がない。
シンスーの視線を感じたのか、ヨンジエが携帯から視線を外し、不思議そうにシンスーを見つめた。何かあった? と尋ねるヨンジエに、シンスーは慌てて笑顔を作るが、上手く誤魔化せているかは分からない。
「いや……その、ヨンジエが熱心に携帯見てるから、何見てるのかな……って」
しまった、と思った。思っている事まんま尋ねてしまった。シンスーは内心の焦りを隠すようにコーヒーに口を付ける。そしてこっそり上目遣いでヨンジエの様子を伺ってみると、ヨンジエは特に気にする様子も無く、デザートの皿をシンスーに寄越した。
「最近、どく……と、友達からの連絡が多くてさ、シンスーを放ったらかしてる訳じゃないんだけど、そう感じてたらごめん」
ヨンジエの指がシンスーの指に触れる。ヨンジエに要らぬ心配をかけてしまったかも知れない。自分の方が年上だと言うのに、十代の若者のような小さな嫉妬心を抱いたことが急に恥ずかしくなり、シンスーはおもむろにデザートを頬張る。ヨンジエとて仲の良い友達の一人や二人いるだろう。むしろ、人付き合いが苦手なヨンジエに友達が出来たなんて、喜ばしいことではないか。
「ううん、大丈夫だよ。僕も大学時代の友達は今も仲が良いし、大事にしないとね」
そう、何も心配することなんてない。ヨンジエは生涯僕を愛してくれる。改めてそう思うと、ずっと気にしていた事が急にバカらしくなってきた。
「でも、お兄ちゃんは結構寂しがり屋なんだからね」
そう言って、少しだけ尖らせた唇で、ヨンジエの指に口付けた。
そう言えば、今日はリーチェンもムーレンも会社を休むと言っていたな、と昼を告げるチャイムでシンスーは思い出す。二人は数日会社を休んでバカンスに行くらしい。いつも昼は三人で取っている為、今日は一人だ。ヨンジエとチャットでもしながら昼食を取ろうとエレベーターを待っていると、後ろからイエ主任、と声が聞こえた。お一人なら一緒にお昼行きません? と声を掛けてきたのは、同じ部署のメイファンだ。どうもメイファンも今日は一人らしい。たまには同じ部署の部下と昼食を取るのもいいか、とシンスーはにこりと頷く。
ここ、美味しいから良く来るんですよ、とメイファンに連れられて入った店は、お洒落なカフェだった。オーダーを通し、他愛もない話をしていると、そうだ、とメイファンが携帯を取り出した。そして幸せそうに頷いている。あまりの幸せそうな様子に、どうしたの? と声を掛けると、キラキラとした瞳をシンスーに向けた。
「私のすごく大好きなブロガーさんがいるんですけど、数日前に更新されてて。その人のブログが愛で溢れててもう堪んないって感じなんです!」
今にもハートが飛びそうな勢いでメイファンが話し出す。
「男性同士のカップルで、そのブロガーさんが理学部の学生さんで、彼氏が年上商社マンなんですよ。学生さんと彼氏の日記みたいなもので、ずっと片想いしてて、漸く恋が実ったって所から始まってるんですが、学生さんの愛がほんと深過ぎてこっちまで幸せになるって言うか! で、その彼氏も年上なのにすっごく可愛いんですよー!!」
そう言って興奮気味にメイファンが自分の携帯をシンスーに渡した。ゲイの歳の差カップルか、とシンスーも興味半分に携帯を受け取る。自分とヨンジエも歳の差カップルだし、同じ境遇のカップルの日常も気になる所だ。そして歳の差の壁をどう克服しているのかも気になる。
シンスーは興味津々にそのブログを読み始めた。二人は同棲したいものの、お金の問題で未だ同棲に至っていないようだ。彼氏の方も仕事が忙しいようで、ろくに会えないらしい。その寂しさや恋しさがつらつらと語られている。その文面から、この学生は彼氏のことを本当に愛していることが窺える。確かに、物凄く愛が溢れているのがわかる。こんなに愛されて、商社マンの彼氏はさぞ幸せだろう。自分とヨンジエのように。
【今日、久々に彼氏に会った。いつ見ても本当に可愛いしかない。いや、愛しい、もか。彼の好きなケーキを焼いてあげると美味しいと満面の笑みだ。俺はケーキなんかより彼の笑顔が見れるのが嬉しい。本当に愛しい、俺の恋人。彼の笑顔は世の中のどんなお菓子より甘い。でも誰にも見せない、このブログの読者にも! 彼の笑顔は俺だけのモノだから。そして、ずっと会えなかったからか今日の彼は結構大胆だ。いつも割と煽ってくる方だけど、今日はやばかった。まぁ俺がちょっと焚きつけたってのもあったけど、ケーキをちょっと口に含んでからのキスとか、高等技術すぎる。キスがほんとに甘くて、頭がクラクラした。】
なかなか大胆だな、と読み進めるが、刹那、ん? とシンスーは違和感を感じた。うっすらと既視感すら感じる。
【そんな事されたら彼ごと食べたいって思うのは当然だろ? 俺がそう言ったら、君に食べられたい、だって! 物凄く潤んだ熱っぽい瞳が本当にセクシーで可愛くて俺は今にも死にそうだ。俺の恋人は世界一可愛いしエロい。異論は断じて認めない。そんなこと言われたら、俺も火がついてしまって思わず彼の首筋に噛み付いたら、ビクッて身体が震えて、ほんとに可愛い。そしてその時の声もまたエロくて可愛】
シンスーは思わず携帯をテーブルに勢いよく置いた。水の入ったコップがかたりと揺れる。
……ちょっと待て、これって僕? そしてこの学生はヨンジエ……?
フェイクは入れている様だが、このページに書かれている事は、先日久しぶりにヨンジエと身体を重ねた日の事だ。シンスーは羞恥で真っ赤になっているであろう顔を両手で隠すと、うう、と唸った。
「ね!! すっごいラブラブでしょ!? 読んでるこっちが恥ずかしくなってきますよね! 壮大に惚気られてる感じで! そして読者も割といるみたいで、コメント欄もすごいんですよ。でも学生さん、ちゃんとコメント返してくれてて。コメ返しも惚気の延長みたいなものですけど」
シンスーは思わず机に突っ伏した。漸く合点がいった。ヨンジエが友達への返信と言っていたのはこの事か。
その後、メイファンと何を話したか、何を食べたか覚えていない。そして、最早午後の仕事を何をしたかさえも。
ほうほうの体で帰宅したシンスーは、まずヨンジエの部屋を訪れた。ヨンジエはレポートを書いているようで、机に向かってペンを動かしている。そしてシンスーが部屋に入ってきた事に気づくと、おかえり、と微笑んでいる。シンスーはヨンジエのベッドに腰を下ろすと、ブログ……書いてるんだね、とぼそりと呟いた。ヨンジエは一瞬しまった、と言う表情になり、読んだの? と恐る恐る尋ねる。シンスーはその言葉にこくりと頷いた。
「あ……あれは!! お、俺……シンスーの事惚気られる友達とかいなくて、何気なくあなたがいかに可愛くて素敵でエロ……いや、愛しいかを書いてたら、いつの間にか読者が増えてて、あなたの可愛さに賛同してくれるのが嬉しくて……」
焦ったように言い訳するヨンジエを手で制すと、シンスーは思わず俯く。恥ずかしさで今にも死にそうだ。
「……怒ってるんじゃないんだ、ただ、凄く恥ずかしくて……その、君の惚気が凄過ぎて」
「だって本当のことだから! シンスーは俺の唯一無二の恋人……」
分かったからもう言わないで、と顔を上げると、わたわたと焦っているヨンジエが目に入り、それが可愛くて思わず笑ってしまう。
「惚気るのは良いけど、あんまり恥ずかしい事や特定される様なことは書かないで」
そう言ってヨンジエの胸に赤くなった顔を埋める。物凄く恥ずかしい気持ちもあるが、実はその中に嬉しさも含まれている事にシンスーは気付いている。惚気るほど、他人に自分の事を自慢したいのだ。ヨンジエの中で、自分は最高の恋人だ。そう公言されているようで心地良い。最高に愛されていると実感する。シンスーはヨンジエをぎゅっと抱きしめた。
「愛してるよヨンジエ。僕にとっても君は最高の恋人だ。今度、リーチェンやムーレンに君の事惚気てみようかな、ヨンジエはこんなに可愛いんだよって」
そう言うシンスーの額に、唇が触れる感触がした。
「うん、どんどん俺のことみんなに惚気て? 俺がいかにあなたとお似合いで最高の伴侶かって事」
ふふ、と笑うシンスーの唇に、ヨンジエの唇が重なる。暫くは互いに壮大な惚気大会になるんだろうな、と思うとそれも悪くはないとシンスーは思う。
……尤も、聞かされる方はたまったものではないが。