桃のお届け便 湿気を帯びた風が生温く頬を撫でる。遠くの空は少し雲が分厚く見えて、夜から雨が降るというのは間違いないらしい。仕事は気になるが大雨の中帰るのは嫌なので、雨足が強くなる前に帰るかと考えながら、窓を閉めに席を立つ。
いつの間にか癖になっていた桃園の方を見下ろすと、忙しなく動く人影、チシャの姿が見えた。真面目に働いているなら結構、と目を離そうとすると、偶然にもチシャがこちらを見上げた。目は良い方だが、さすがにこの距離から表情までは分からない。何やら大きく手を振って訴えている様だ。しばらく見ていても、はっきりとは分からず、もちろん声も聞こえない。そもそも自分に向けての合図ではないかもしれないとそのまま窓を閉めて踵を返した。
…バタバタバタ
コンコン、バタンッ!
先程の出来事から数分後、ノック音と扉が開く音がほぼ同時に聞こえた。神殿内でも怖いと畏れられているカイドウの部屋をこんな風に騒がしく、転がり込む様に訪ねてくるのはチシャだけだろう。
その姿に、猪突猛進、という言葉が脳裏を掠める。武官だった頃、野営のテントに突っ込んできた小猪を思い出した。人懐っこい小猪だったが、さすがにもう大きくなっているだろう。そんな事を考えていると、神殿を走るな、ノックをしろ、と言うタイミングを一拍分逃してしまう。最近、こういう事が増えており、リョウブに『丸くなったね。ひとり限定で』と笑われることも少なくない。
「チシャ…」
「あ、あの、ごめんなさい!さっきの伝わりましたか?!」
「さっきのとは何だ」
「一生懸命伝えてたのに!」
チシャがいるだけでこんなに賑やかしくなる。息を切らせたチシャの腕の中には桃が入った籠。数個とは言え、桃園からこの部屋まで辿り着いた速さはなかなかのものだ。息を整える様に何度も深呼吸しているので、話は進まない。しばらく放っておくかと書類に再び目を落とそうとすると、ぐいっと腕を引っ張られる。
「カイドウ様!」
「…なんだ」
「あの、採れたての桃、食べませんか?!今日の桃はすごく状態が良いんです!あ、もちろん神殿のお供え用は納めました!さっき窓に近付いてきてくれたから、休憩時間なのかなって…だから、急いで持ってきました!」
まるで幼子の様に目を輝かせられると、弱い。特に休憩時間など決まっていない。むしろ少しでも早く帰る目処を立てる為に、集中しなければと思っていたところだ。しかしそのまま伝えて良いのか迷いが出る。
「いらなかったですか…?」
沈黙を否定と捉えたのか、強気の表情から一変、くしゃりと泣きそうな顔になる。その顔を見た瞬間、「貰う」と反射的に口が動いていた。
「良かった!絶対おいしいですから!待っててくださいね」
カイドウの言葉に、ほっとした様に笑う姿を見ると、まあいいかと思ってしまう。表情がくるくると変わるのは見ていて飽きない。その感情がどこからくるのか、何という名前が付くのかはよく分からなかった。
部屋に備え付けられている簡易なものしか設置されていない厨に行き、木のナイフで手際よく皮を剥いていく姿を見ながら、書類を汚さない様に端へと寄せた。