落ちる.
「私には、君達の関係を後押しする事は出来ない。
これ以上何を言われても、私の決断は覆らないだろう」
五年越しの説得も虚しく、コンボイは冷たく言い放った。
隣で話を聞いているマイスターも目を伏せる。
「…力になれなくて申し訳ない」
「そういう事だ。どうしてかは君が一番わかるだろう。…ラチェット」
険しい顔のコンボイはラチェットから目を逸らす。
「説得してみせる」と呟いた過去の自分が頭をよぎる。
歪な関係、許されない関係でも、誠心誠意説得を続ければ理解してもらえる。
そんなに甘くないとわかっていても、どこかで期待していた自分がいた。
しかしその期待は今、粉々に打ち砕かれたのだが…。
あの日、わたしちゃんの気持ちを受け止めた日から、すでに五年の歳月が過ぎていた。
*
わたしちゃんを家に送り届けるとマイスターが出迎えてくれた。
「わたしちゃん…!お帰り。今日は遅かったね。ラチェットも送ってくれてありがとう。
お風呂の準備ができているから、入って来るといい」
そう言って、幼い姪の頭を撫でる。
わたしちゃんの腫れた瞼を見て、彼なりに何かを察したのだろう。
ラチェットに目配せをし、
「コンボイさんは、もうお休みになられたよ。何か話があるなら、明日にするといい。
…私でよければ話してみるかい?」
柔らかい笑みを浮かべるマイスターに、自分でも知らない間に強張っていた力が抜ける。
察しの良すぎる親戚を持つのも考えものだ。
「いや、明日私から話すよ。こんな時間までわたしちゃんを連れ回して申し訳ない。
メッセージの通り、夕食は済ませてきたから」
「そうかい…。
もし、何かあったなら、一人で抱え込まない方がいい。
私は君の味方でいたい」
柔らかい笑みは心配そうな表情に変わる。
「はは……ありがとう。そうでいてくれる事を願うよ。
それじゃあ、おやすみ」
ラチェットはそれだけ言うと足早に玄関を出る。
いつもとは明らかに様子が違うのに、自分を頼っては来ない理由を考え、マイスターはしばらくその場を動けなかった。
*
翌日、ラチェットは本家に赴いた。
コンボイに話があると電話をして、話し合いの場を設けてもらった。
場にはコンボイ、マイスター、それからわたしちゃん。
昨日わたしちゃんを送り届けるのが遅くなった事については、マイスターが上手く説明してくれたようで、謝罪と、二度とこんな事が無いようにすると約束して、許してもらった。
和やかに話は進み、
「ところで今日は、改まってどうしたんだい?」というコンボイの言葉に、意を決して口を開く。
居住まいを正し、コンボイを真っ直ぐ見据えた。
「コンボイさん、単刀直入に申し上げます。
今日の話というのは、わたしちゃんとのお付き合いの事です」
口に出した後で、前置きもなく単刀直入に伝えてしまった事を後悔する。
しかし、前置きらしい前置きというのも無いなと思い直した。
ラチェットの視線を受けるコンボイは、目を閉じて視線をかわし、腕を組んで、難しい顔をしはじめる。
ラチェットの様子から、冗談ではない事は分かるが、言っていることの理解が追いつかなかった。
わたしちゃんは緊張から太腿の上で両手を握り込んで、息を止めていた。
数秒が、何時間にも感じられるほど、重い空気が流れた。
コンボイの眉間の皺は深くなり、それを見かねたマイスターが、
「コンボイさん…大丈夫ですか」
と肩に手を添える。
その声にようやく目を開けたコンボイはようやく口を開いた。
「…自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
「はい。私達だけの問題ではない事も、承知しています」
「………」
コンボイはまた押し黙ってしまった。
「…ラチェット、とりあえず、今言っていた事の説明を聞かせてもらえるかな。
事の経緯と、君はこれからどうしたいのか。
それと、わたしちゃんの気持ち…もね」
コンボイの代わりに口を開いたマイスターは、わたしちゃんを見て微笑んだ後、ラチェットに向き直った。
空気が、一瞬で和やかなものに変わる。
ラチェットは、昨日の診療所での出来事と、わたしちゃんの気持ちを受け止めると決めた事。
付き合う上で、誠意を持って一緒にいたい事、そして、認めてもらう為なら何度でも説得するし何年でも待つ。という事……
話終わると、コンボイの眉間の皺はまた深くなる。
「君達の話は、概ね理解した。
しかし、それを…そんな事を今すぐに認める訳にはいかない…」
「な、なんで…っ」
今まで横で聞いていたわたしちゃんが声を上げる。
一度の説得で認めてもらえない事は分かっているつもりでも、気持ちの整理が追いつかない。
「うん。
それはまだ、君が自分で思っているよりも、ずっと幼いからだ」
「そ、そんな事ないよ……わたし、おじさん達に認めてもらうように頑張るから…」
「これは、君達二人だけの問題では無いのは理解しているね。
君の頑張りだけで、この問題は解決しない。ましてや君はまだ未成年なんだ。
この先、わたしちゃんは将来の事もある…
それについてはどう考えてるんだ」
「……」
「私は、彼女が私に飽きるまで一緒にいるつもりです」
「わたしちゃんが君に飽きた後はどうするんだ、きっぱり忘れるのか?」
「はい」
「………」
コンボイは話にならないとばかりに頭を振る。
「…わたし、飽きないよ…!
ラチェットおじさんとずっと一緒にいる…。
だから!……そう思う事ってダメ…なの…?」
「そういうところが、幼いと言っているのだよ」
「……っ!」
諭すような話し方なのに、コンボイの視線は鋭く、わたしちゃんは押し黙る。
「結婚を前提にしていない未成年と付き合って、ラチェットは周りからどう思われる?
こんな小さい村だ、噂はすぐにでも広まるだろう。
ましてや君達はおじと姪。“血の繋がった家族”なんだ」
「………」
「その時、傷付くのは君達だけでは無いんだ…。
本家も、わたしちゃんのご両親も巻き込む事になる。
彼のことを大切に思うなら、事の重大さを、もう少し考えなさい」
わたしちゃんは俯き、太腿の上で握った拳に視線を落としている。
ラチェットはそれに自分の手を重ねる。
「私も覚悟を持ってこちらに来ています。
納得していただけるまで、何度でも何年掛かっても、説明を続けるつもりです」
「ラチェット……」
コンボイは何かを言いかけたが、口をつぐんだ。
「とりあえず、君達の話は分かった。しかし、これは私の一存では答えられない。
そして、今すぐに答えが出るものではないという事も、分かっていると思うが」
「はい」
コンボイはふうとため息を吐き、わたしちゃんに向き直る。
「…わたしちゃん、話してくれてありがとう。しかし、これは難しい問題だ。
今は分からなくても、君が成長するに従って理解出来る事を願うよ。
今の私に答えを出す事は出来ない…。とだけ覚えておいてくれ」
わたしちゃんの目を真っ直ぐ見つめて話すコンボイに、「はい」と言うことしか出来ない。
「それと、君の行動次第でラチェットがどう思われるか、きちんと考えるんだ。
大切にしたいと思うなら、彼に我儘を言わない事だ。
……この意味がわかるね?」
「……はい」
「それと、自分のやるべき事はきちんとやる事。
今のわたしちゃんなら、きちんと学校へ通って、自分の責務を果たす事。わかるかい?」
「…はい」
「……まぁ、今捲し立ててもしょうがないな。私が伝えたい事はこれくらいにしよう…。
マイスター……」
マイスターに目配せをすると、
「じゃあ、わたしちゃんには向こうでお茶を淹れる手伝いをしてほしいんだ」
わたしちゃんの背中に手を添え、部屋を出た。
不安そうに振り返ると、ラチェットは大丈夫と頷いた。
コンボイは二人が見えなくなったのを見計らい、重い口を開く
「ラチェット…分かっているとは思うが、一線は越えるなよ」
「……重々承知しています」
「私達から見ても、わたしちゃんはラチェットに懐いてスキンシップが多い…。
そこだけはきちんと責任を持ってくれよ。まだ彼女は幼いんだから」
“幼い”に口調を強める。
「はい。きちんと、彼女が成人したらと思っています」
「それと、きちんと学校は卒業させるんだ。君に“飽きた”時に手遅れにならない為に。分かったな」
「はい」
「はぁ……わたしちゃんの両親にはなんて説明しよう」
緊張の糸が切れ、大きな溜息を吐いて姿勢を変える。顎に手を当てたコンボイはうーんと考え込む。
「わたしちゃんが帰る日に両親が迎えに来るので、私から説明させてください。
そして、サ家代表としてコンボイさんにも同席していただきたい」
「む、分かった」
*
わたしちゃんが帰る日、迎えに来た両親を別室に呼んで説明を試みたラチェットとコンボイだったが、驚くほど重く受け止められず、
「あなた、まだそんなこと言ってるの?確かに小さい頃からよく懐いていたけど…。
もう小さい子供じゃないんだからね?」
そう言って困ったように笑っていた。
ラチェット自身がいくら付き合いたいと説明しても、
「そんなに真剣に子供に付き合ってあげなくてもいいのよ?
ここの家は、本当にこの子に甘いんだから」
そう言って車に乗り込んで行ってしまった。
コンボイも予想していない反応に黙ってしまったので、マイスターが代わって場をとりなした。
わたしちゃんでさえ、その反応は予想していなかったのか、隣で目を白黒させていた。
「またメッセージ送るよ。何かあったらいつでもこっちに戻っておいで」
「うん。わたしも送るね。…寂しいけど、分かってもらえるように頑張る」
「私も…好きだよ。わたしちゃん」
握り合った手を、祈るように額に当てる。次に会えるのは冬の長期休暇か。
ラチェットは、去って行く車が見えなくなるまで手を振った。
「これが普通の反応なのか…?」
コンボイはラチェットに言うでもなく呟いた。
「子供の話に、大人が付き合ってあげていると受け止められてしまいましたね…。私もそれは予想外でしたが…」
夕陽を見つめたまま、マイスターも自分の思いを呟く。
「まあ、私に子供は居ないが…。
誰だって、自分の娘といい歳の大人が、まさか本気で…とは思わんよ」
「お二人で私の悪口ですか?
これでも十分、おかしい大人の自覚はありますよ」
振り向いたラチェットが自虐気味に笑った。
「む…笑い事では」
「まあ、ラチェットにも考えがあるのでしょう。それより、他のおじ達にはなんて説明します?」
「それもあるのか」
「今すぐではなく、ある程度話しが固まったらにしましょうか」
「そうしよう。今はまだなにも決まってないからな。それにしても…疲れた」
「今日はコンボイさんの好きな物を沢山作りますよ。何がいいですか?
ラチェットも、本家で食べて行くだろう?」
「ええ、いただきます」
和やかな食事の最中、二人のこれからの事を少し話したが、なににしても今は時間をおく事が重要、という結論に落ち着いた。
*
その後、わたしちゃんは通っている学校を卒業し、看護の道へ進んだ。
進路に悩む中、ラチェットのように困っている人を助けたいという気持ちと、将来的にラチェットと一緒に働きたいという思いからだった。
冬の長期休暇に遊びに来たわたしちゃんは、嬉しそうに進路の報告をした。
ラチェットも喜び、「何か分からないことがあれば力になるよ」と伝えたのだった。
そして春、わたしちゃんは五年一貫の学校に入学した。
学校は忙しく、普通教科と並行して専門的な知識を身につけるのはたくさんの努力が必要だった。
本家に遊びに来れる日数も短くなり、その中で不安になって涙を見せることもあった。
それでも、認めてもらいたい一心でわたしちゃんは課題に打ち込んだ。
“付き合いを認めて欲しい”とは簡単に口に出さなくなった。
結果を出してから、きちんと認めて貰おう。そう、ラチェットと約束したからだった。
コンボイもその頑張りは認めていたし、何も知らない他のおじたちも、わたしちゃんが頑張る姿を見ていた。
そして、五年後の冬、国家試験に合格したと、わたしちゃんから連絡があった。
ラチェットが電話越しに「おめでとう」と伝えると「ありがとう」と涙でくぐもった返事が返ってきた。
コンボイもマイスターも、本家の人間全員が喜び、次に本家に遊びに来る時は、ご馳走を用意しておくと約束した。
*
それから数ヶ月後、本家には看護師免許を見せに来たわたしちゃんと、両親の姿。
「おじさん、お邪魔します」
つい数ヶ月前に会ったと思ったのに、その時よりも大人びたわたしちゃんの姿に、アイアンハイドは涙を滲ませる。
「大きくなったなぁ、わたしちゃん。もう成人だもんなぁ…。初めて会った時はこーーーんなに小さかったのに!」
アイアンハイドはわたしちゃんの小さい頃を思い出し、目を細めた。
「ふふ、おじさんは全然変わらないよね?」
「そういう事も言えちゃうんだもんなぁ〜、子供の成長は早いよ…」
腕組みしてうんうんと頷いていると、
「すっかり、人気者だね」
マイスターがお茶を配りながらわたしちゃんに微笑みかける。コンボイは両親と部屋の隅で話していた。
わたしちゃんは看護師免許を広げて見せながら
「見て!マイスターおじさん!
わたし、ちゃんと約束守れたよ!自分のやるべき事、しなくちゃいけない事、きちんと終わらせたよ。
だから、認めてもらえるよね…」
そう言って上目遣いで見つめた。
「認めるってなんだ?」
アイアンハイドは隣にいたプロールに聞くが
「…いや?」
首を傾げた。
「その話は、コンボイさんが来てから…ね」
お茶を配り終えたマイスターが微笑んで立ち上がると、コンボイがわたしちゃんに声を掛ける。
「わたしちゃん、ちょっと来てくれ。……ラチェットも」
その時が来た、ラチェットとわたしちゃんは顔を見合わせて頷き、コンボイの後について別の部屋に移動する。
緊張で握り締めた拳は、汗でぬるついていた。
*
「あなた達、本気なの?」
テーブルを挟んだ向かいにそれぞれ両親、ラチェット、わたしちゃん。
そして、双方を見渡す位置にコンボイが座り、その後ろでマイスターが控えている。
両親はコンボイからの説明を聞き、驚いて顔を見合わせた。
「本当です。コンボイさんの説明の通りです。
前に一度説明させていただいたのですが、改めて私からも説明させて下さい」
ラチェットは当時を思い出し、なるべく生々しくない様に、わたしちゃんの想いを受け止める覚悟を決め経緯を話す。
「五年経った今でも思いは変わりません。
わたしちゃんが成人した今、ご両親、そして本家から正式にお付き合いの許可をいただけませんでしょうか」
ラチェットは頭を下げる。
「わたしが勉強を頑張ってこれたのも、ラチェットおじさんのおかげなの。
お父さん、お母さん、コンボイおじさん、お付き合いさせてください」
わたしちゃんも隣で頭を下げる。
コンボイは手持ち無沙汰なのか、腕組みをして見守っている。
「…そんな事は認められません…」
先に口を開いたのは母親だった。震えた手で口元を抑えながら、やっと絞り出した声は掠れている。
「あなた達はおじと姪で、血が繋がった家族なのよ…!」
立ち上がってラチェットに掴み掛かる。
ラチェットは抵抗しない。母親を止めようとした父親の手は強く振り払われ、
「あなたも何か言ったらどうなの!」
と怒鳴られる。
「私達、親の知らないところで何をしていたの!」
母親は顔の目の前で怒鳴り声を浴びせ、ラチェットは飛沫に顔を顰める。
「お母さんにも説明したじゃない!」
わたしちゃんが母親の肩を揺らすが、
「あなたねぇ、中学生と付き合いたいと言われて、本気で受け止める親がどこにいますか」
「…っ、なので、わたしちゃんが成人するまで、待ってから」
「誰がそんな話を信じるんですか!
娘は何回もこちらに遊びに来ているんですよ!一体、娘に何を吹き込んだの!!」
ラチェットから手を離した母親は血走った目でコンボイに詰め寄る。
「あなたも!!よくも今まで騙してくれたわね!ふざけないで!!」
母親は一際大きく怒鳴ると、その場に座り込み声を上げて泣き出した。父親はどうすればいいか分からないようにオロオロして、ようやく母親の肩を抱いた。
ラチェットは乱れた服を直して居住まいを正す。隣でわたしちゃんは啜り泣いている。
重い現実の姿。
ラチェットがわたしちゃんに手を伸ばそうとした時、その光景を黙って見ていたコンボイは、重い口を開いた。
「私には、君達の関係を後押しする事は出来い。
これ以上何を言われても、この決断は覆らないだろう」
ラチェットはわたしちゃんの手を握り締めて懸命に笑顔を作る。
マイスターも下を向いていた。
「…わたしは、何の為に今まで頑張って来たの…?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をラチェットに向ける。
「わたしちゃん…ごめん…」
自分の不甲斐無さから出た謝罪の言葉だったが、わたしちゃんには終わりの言葉に聞こえた。
「わたしちゃん…!」
気付くと立ち上がって走り出していた。マイスターが部屋の中からわたしちゃんを呼んだが、止まらなかった。
本家の廊下を走り抜ける。
途中、集まっていたおじ達が何事かと部屋から出てきたが、体をぶつけながらその間をすり抜け、靴も履かずに外へ向かう。
階段を駆け降りて、草道を進む。お腹の片側が痛くなる程走り続けて涙で前なんか見えなくて、転んだ膝には血が滲んでいたけど、もう全部どうでも良かった。
「わたしちゃん!!」
*
全力で走りながら大声を出すのは難しく、叫んだ名前は、前を走るわたしちゃんに聞こえているのか分からない。
絡れそうになる脚を必死に前に出して追い掛ける。それを続けて、やっと追いつけたのは、腕を掴んだ反動でわたしちゃんがバランスを崩したからだった。
倒れそうになる体を抱き止めて、こんな時なのに随分大きくなったな…と思ってしまう。
「わたしちゃん…」
肩で息をする体を抱きしめる。
迷っていた腕が、ラチェットの背中に周り、わたしちゃんは声をあげて泣き出した。
しばらく背中を撫でていると、落ち着いたのかわたしちゃんが小さな声で呟く。
「……消えちゃいたい…」
「消えちゃいたい…?まだセックスもしてないのに?」
場違いな言葉に反応し顔を上げるわたしちゃんに、ラチェットは続ける。
「私はずっと待ってたんだけどな…」
わざと同情を誘う表情をしてみせる。
「わ、わたしだって…!
でも…お母さんもコンボイおじさんも、皆あんなに怒ってた…もう戻りたくない…」
上げた顔をまた沈ませたわたしちゃんの頭を、自分の胸に押し付ける。
「どこか遠くへ行こう。誰も私達を知らない所で二人で暮らそう」
本心だった。わたしちゃんがうんと頷けば、このまま攫う覚悟は出来ている。
そして、期待に応えるように腕の中の彼女は小さく頷いた。
*
それからの行動は早く、ラチェットはわたしちゃんを抱える様にして自宅に帰ると、大きなカバンに必要な物だけを詰め、車に押し込んだ。助手席にはわたしちゃんが座り、ラチェットがよく履いているサンダルを足に引っ掛けている。
診療所を長期休暇にしておいて良かった。と思うと同時に、もう帰らない覚悟を決めて鍵をかける。
「おじさん…」
運転席に乗り込んだラチェットに、不安そうな顔を向ける。
「大丈夫…。でも、途中で戻りたくなったら教えて。それまでは止まらないから…」
優しく微笑んで、走り出した。
*
「あなた警察でしょう!なんとかしてよ!!」
母親のがプロールに怒鳴った。
わたしちゃんが出て行ってから、しばらく経っていた。
皆、はじめはラチェットが連れ戻しに来るんだとばかり思っていたのだが、時間が過ぎるたび、よくない事を考え始める。
マイスターはラチェットに何度も電話を掛けているが、通じないらしい。
そんな状況に痺れを切らした母親がプロールに掴み掛かった。
「待ってください!プロール、実は…」
マイスターが二人の間に割って入り、経緯を簡潔に伝える。
プロールは、部屋を見渡し、「あぁ…そういうことか」と妙に納得した。
警察官として、こういったトラブルを処理する事は少なくない。そして、ここ数年のラチェットとわたしちゃんの距離感が近いと感じていたのは、気のせいでは無かったと理解したのだった。
冷静に事態を把握しようと努めたが、母親の怒りは収まらない。
「あの男は娘を誑かして、出て行ったのよ!早く捜索願でもなんでも出して!」
「落ち着いて下さい。状況を聞くところによると、わたしちゃんは自分から出て行ったんですよね…。
私達はその後、ラチェットが走って追い掛けるのを見ています」
「何言ってるの?…娘が幼い頃から手を出していたのよ?」
「それは今は分かりません。それに今は…」
「いいから早く探してきて!!」
母親は言葉を遮るが、プロールは冷静に、母親に話を続ける。
「落ち着いて聞いてください。
今のわたしちゃんは、本人の意志で行動できる年齢です。
この状況で出て行ったのは確かに心配ですが、わたしちゃんはもう大人です。
自分の意思で出て行ったんだ…誘拐じゃない…
。
俺たちに無理矢理連れ戻す権利なんてあるのか…?」
最後は自分に対しての疑問だったが、プロールの言葉に母親は首を垂れ、その場にうずくまった。
*
車は村から大分離れた場所で止まっていた。
サービスエリアで買った夕食を済ませ、ワンボックスの後部座席を倒す。
今夜はここで車中泊になる。…といっても、ラチェットは仮眠のつもりだが。
手際よく窓に備え付けられたカーテンと、後部座席と運転席を仕切っているカーテンを閉じれば、寝るには申し分ないスペースが確保された。
初めての車中泊にわたしちゃんは目を輝かせ、秘密基地みたい!と言って毛布にくるまった。さっきまで死にそうな顔をして心配していたけど、笑顔が戻って本当に良かった。
「私は少し仮眠してから運転に戻るけど、わたしちゃんはそのまま寝てていいからね」
少し離れて隣に横たわる。離れると言っても狭い車内では、“くっついていない”程度の意味しか持たない。
しかし、それが不満なわたしちゃんは、モゾモゾと体を動かしラチェットの腕と体の間を捩じ込む。
むしろ、どうしてくっつかないのか、とでも言いたげな。むっとした抗議の視線を受けたラチェットは吹き出して、素直に腕枕をする。
「わたし、ラチェットおじさんの恋人だよね」
「わたしちゃんは、私の恋人とだよ」誰が認めなくても、ね。心の中で自嘲した。
「…だったら何で離れるの?せっかく、恋人になったのに」
「うっ、それは…」
「もう子供じゃないよ」
「ごめん…」
大切にしたくて、笑顔にしたかったのに、結局全部捨てさせてしまった。
「わたしちゃん…好きだよ。愛してる」
細い体を抱きしめると、「わたしも」とはにかんだ笑顔が返ってくる。たまらず唇を重ねると、首に手が回り、もっと深くとねだられた。
わたしちゃんの柔らかい唇を上下の唇で挟み、顎に手を添えて角度を変えて何度も口付け、最後にちゅっと吸い付いて離れた。
「名残惜しいけど、今日はここまで…」
「ん…」
甘えた声で頷くと、ラチェットが頭を撫でる。
ゆっくりと大切なものを扱うように、優しく、丁寧に撫でられていると、わたしちゃんの瞼は重くなり、しばらくすると規則正しい寝息が聞こえ始める。
「おやすみ」
いつまでも幼い頃と変わらない、愛しい寝顔に呟いて、ラチェットも瞼を閉じた。
*
「マイスター、私はどこで間違ってしまったんだ」
コンボイは手に持っている盃から視線を逸らさないまま、つぶやいた。
「…みんな、何も間違ってないです。みんな自分の事に一生懸命なだけです…」
二人は月明かりが照らす縁側に腰掛けている。
“身内の不祥事”ということで、もう少し様子をみる、という結論に達した親戚一同。
何か動きがあれば連絡を、と約束して両親は帰って行った。
「ラチェットのことです、何かあれば連絡してくれますよ。
ほら、昔から自分より人を優先してしまう性格でしたから…」
「私達だけでも、最後まで味方でいるべきだった…」
マイスターは口を開いたが、伝えたい思いは言葉にならず、また口を閉ざした。
「待ちましょう…今は」
「ああ…」
二人を拒絶してしまった自分達に連絡をくれる確証も無かったが、今はただ願う事だけしか出来なかった。
*
「今日からここで暮らそう」
そうラチェットに言われた時は、目を丸くした。
こういう事になって、これからの生活拠点はビジネスホテルやネットカフェ、車中泊を想像していたから。
暮らそうと言われた場所は、高台に立つ洋風な一軒家だった。
だいぶ古そうなそれは、ラチェットが昔お世話になった先生の持ち物だったという。
ここに来た事があるの?というわたしちゃんに、
「もう大昔の話だよ。医者になってしばらくして、……なんかもう全部嫌になっちゃった事があるんだよね。
そのまま飛び出して、フラフラして、そうしたら医者だっていうおじさんに話し掛けられたんだ。
それから色々話して、“それじゃあうちで働いてみない?”って…
医者が嫌になったって言ってるのにねぇー?」
荷物を床に置き、持参した布巾でテーブルを拭きながら懐かしむ。
「でもね、こういうのも何かの縁かな…って、前のところを辞めて、その先生がやってる近くの小児科で働いてたんだ」
「近くに病院があるのね…」
空気を入れ替えるために窓を開け放つと、小さい町が広がっている。遠くには海も見えて、思わず村を思い出してしまう。
「そ、もうその先生は引退して海外に行っちゃったんだけどね。
ここは先生と過ごした思い出もあるし、私の第二の家だったから、買い取って寝かしておいたの。
でも、…こんな風に君と来る事になるとは思わなかった」
寂しそうにも、愛おしむ様にも見える眼差しがわたしちゃんに注がれる。
レースのカーテンが風ではためいて、新しい風を運んでくる。
海の匂いがした。
お世話になった先生はこの近くで小児科医として働いていたそうで、先生が居ない今でもその病院は健在していた。
当時一緒に働いていたスタッフはまだ数名在籍していて、ラチェットが尋ねるととても喜んでくれた。
昔話に花が咲いて、ラチェットが事情をかい摘んで話すと
「急に来たと思ったら、また雇ってくれなんて…。本当に何を考えてるんだか……初めて来た時と全然変わらないなぁ。
でも、先生が居たら有無を言わず君を雇っていると思うよ」
病院の偉い人はそう言って、またよろしくとラチェットと手を握り合った。
ラチェットが病院に行っている間、近くを散策してたわたしちゃんは、小さな教会を見つけた。
中に入ると、ちょうど子供達とシスターが祈りを捧げているところだった。
その光景は、ステンドグラスから注がれる光に照らされ、あまりにも神秘的で、しばらくその場を動けなかった。
扉の近くのシスターに促され、椅子に座って見よう見まねで目を閉じる。
何を祈ったらいいのか、神に何を縋ればいいのか分からなかったが、おじさん達と両親にごめんなさい。と、心の中でつぶやいた。
家に戻り、わたしちゃんに働き口が見つかった事を話すと、家の時と同じく目を丸くして言葉を失っていた。
「とんとん拍子に話が進んでびっくりした?」
「う、うん…」
「ふふ、私もこの五年間、何もしてなかったわけじゃないんだよ。選択や手段は、あるに越した事ないからね」
あの日、出まかせで遠くへ行こうと言ったわけでは無かった。だめなら、だめなりにわたしちゃんと進んでいける道を模索していた。
「わたしちゃんはどうだった?のどかで結構いいところでしょ?」
「わたし、近くの教会に行ってきたんだけど、凄く綺麗だった…。
あと、子供達が沢山いたんだけどイベントでもあったのかな?」
「ああ、あそこの教会は孤児院も併設しているんだよ。私も何回か手伝いに行ったな…」
「そう…」
「興味あるなら、ボランティアも募集してるし、手伝いに行ってみたらどうかな。
……しばらくここにいると思うから、町と人たちと交流するのはいいと思うよ」
「うん、そうしてみる」
今日のこれからの予定は、町まで日用品の買い出し…という名のデートだった。
町へ出て、ラチェットに案内されながら地形を覚えていく。
「覚えるのはゆっくりでいいよ。後、図書館もあるからご飯を食べたら寄ってみよう」
町を回る最中、二人の手は繋がれたままで。
何にも縛られず、誰の目も気にする事無く、笑い合えた。
五年、それ以上の時間を取り戻す様に、二人で寄り添ってこれからの長い時間を生きていく。
そう思うと、くすぐったくて、にやけてしまう顔が抑えられなくて。
そんなお互いの顔を見て、また笑ってしまったのだった。
心地良い風が二人の頬を撫でた。
*
いくつかの季節が過ぎて、ここでの生活にもすっかり慣れた。
わたしちゃんは、教会と孤児院の手伝いで毎日充実している様だった。
子供に触れ合えて成長を見るのが楽しい、とよく言っている。
ラチェットも小児科として勤務を続け、最近では症状をよく見てくれて子供に優しい先生として、評判が広がっている。
「ラチェット、この間読んだ物語に書いてあったんだけどね」
「うん」
数少ない休暇は、お互いの休みを合わせるのが恒例になっていた。
小旅行に出掛けたり、家でゆっくり過ごしたり…。この町でも、旅先でも、二人をおじと姪だと思う人は誰も居なかった。
ここへ来てから今まで、わたしちゃんはずっと“奥さん”だった。そしてこれからも。
「人に親切にすれば、来世で願いが叶うって。ラチェットはたくさんの人を助けてきたから、なんでも叶うね」
「来世か。遠いな…」
「わたし、願いが叶うなら、またラチェットのお嫁さんになりたい。
でも今度は、おじさんと姪っ子の関係じゃなくて、普通の……恋人同士からがいい…」
「わたしちゃん…」
「ラチェット、好きになってくれた事、あの時わたしの手を引いてここまで来てくれた事、全部、嬉しかった…」
肩にもたれかかる
「わたしちゃん好きだよ……好きだ」
抱きしめることしか出来ない、受け止める事しか出来ない。
「私のお嫁さんは、わたしちゃんだけだよ…」
そう言って強く抱きしめる。
「わたし達、地獄に落ちるのかな…」
あの日、本家で最後に見たおじ達と両親の顔が頭に浮かぶ。
たまに、泣きながら起きた時に見ている夢も、あの景色だった。
「物騒だね。でも、わたしちゃんとなら何度地獄に落ちてもいい…。
君が落ちるなら私も一緒に落ちよう」
わたしちゃんの震える手を握りしめる。
誰かに認めてもらうという夢は叶わなかった。
彼女が笑顔でいられるなら何でもする。そう自分自身に誓ったあの日から、ずいぶん遠くまで来てしまった、と思う。
きっとこれから先、二人で生きていくたびに、今日のように何度振り返りながら、あの日を思い出すのだろう。
地獄に落ちるというなら、きっと、この感情を抱いた時からそれは約束されていたのだろう。
彼女を抱きしめながら、ごめんねという言葉を飲み込んだ。
「大丈夫、これからも、わたしちゃんは私が守るよ」
2人の溶けた体温が、風にさらわれていく。
地平線から伸びた雲は、旅をするように流れながら形を変える。
「久々にドライブでもいかない?」
ラチェットは立ち上がり、海を見つめる
「愛の逃避行?」
わたしちゃんのブラックジョークに苦笑いする
「そんなの、どこで覚えたの」
「ラチェットが教えてくれたんじゃないの?」
ラチェットの腕を抱き込むようにしながら抗議の視線を送る。
「……そうだね」
「ふふ」
ラチェットの、変わらない優しい視線にずっと見守られて今まで生きて来た。そして、これからも。
二人は笑い合い、車へと歩き出した。
**********************
END
目覚まし時計の音が、意識の遠くで聞こえる。
見ていたはずの夢は霞にかわり、もう微かな内容を思い出す事さえ出来ない。
今日は何日だっけ……あ、そういえば今日は終業式か。
明日から夏休みだった!
うーーーんと背伸びして、カーテンを開けると、強い陽の光を浴びて目が覚める。
勢いをつけて起き上がり、中学の制服に袖を通す。着慣れた制服ともしばらくお別れか。帰ってきたらクリーニングの準備もしなくちゃ…それから親戚の家にも行く用事もあるし……ああ、せっかく夏休みに入るというのにゆっくり出来そうもないな。
そう苦笑いして、リビングに降りる。
ドアを開けるとコーヒーのいい香りと、トーストの焼ける匂いがして、一気にお腹が空いてきた。
「わたしちゃん、おはよう。朝ごはん出来てるから一緒に食べよう」
そう言って、お父さんが笑う。
わたしの、大好きなお父さん。
でも、その笑顔を向けられるたび、わたしの胸の奥はチクチクと痛む。
理由はなんとなく分かっている、けど、認めたくなくて、まだ、考えないように蓋をしている。
今はただ、大好きなお父さんとずっと一緒にいたい。それだけだから
「ラチェットお父さん、おはよう」
「わたし達、地獄に落ちるのかな…」
「物騒だね。でも、わたしちゃんとなら何度地獄に落ちてもいい…。
君が落ちるなら私も一緒に落ちよう」
本当に終わり。