思っていたよりも遅い時間になってしまったな、と思いながら嵐山はボーダー本部の廊下を帰宅のために歩いていた。
先に嵐山隊の後輩たちを帰し、その後に少しだけと思ってやり始めた報告書に思っていたよりも時間がかかってしまい想定していたよりも遅い時間の帰宅になってしまっていたのだ。
遅い時間になってしまったため廊下やその先のラウンジには人気はなく、照明も人が少ない時間は落とされているので昼間に比べて薄暗く閑散としている。
ラウンジを横切ろうと廊下からラウンジの入口に入りかけたとき、嵐山は足を止めた。
人がいる。
ラウンジの真ん中に大きな笹が飾られており、その前に人がいるのが見えた。
ボーダーは戦闘部隊の集まりだ。こんな戦闘ばかりで殺伐とした雰囲気を和らげようとした本部側の催しの一環で、イベントに応じてラウンジではこのようにクリスマスにはクリスマスツリーを、七夕には笹を飾っている。
今はちょうど七夕の時期で大きな笹が飾られていて、その横に短冊とペンが置いてあり各自の願い事を書いてその笹に飾ることができるようになっていた。
その笹の前に立っている背中は見覚えがある青いジャケットと茶色い髪の毛で、そのまま素通りすることなく嵐山は足を止めた。
誰もいない薄暗いラウンジに一人、そっと笹になにかを……この状況からどう考えても短冊なのだろう、その短冊を結びつけている。
「……迅」
「っうおおおおっ!」
まさか声をかけられる、いや、人が通るとは思ってもみなかったのだろう。嵐山が呼びかけた声に、笹の前に立っていた迅は盛大に驚き声を上げた。
「あ、嵐山……」
「そんなに驚かなくても……、視えていなかったのか?」
「あのね……なんでもかんでも視えるほど万能なものじゃないっていつも言ってるだろ」
驚きの表情で振り向いた迅に向かって嵐山は笑いながら歩み寄る。
いつも飄々としている迅が極稀に見せるその驚いた表情が見られて嵐山は少し気分が良かったのでニコニコしてしまうが、その表情が迅には気に入らないようで面白くなさそうに口を尖らせていた。そんな子どもっぽい表情もまた滅多に見られないので更に嵐山の気分が良くなる。
「で、迅はなんの願い事を書いたんだ?」
状況的に見て、迅が誰もいないこのラウンジで願い事を書いた短冊を笹に飾っていたのは明白だ。
神様を信じない迅が七夕に、星になにを願ったのか嵐山には興味がそそられていた。
たぶん、迅のことだ。みんなが健やかであるようにとか自分のことではなくみんなの平穏や幸せを願っているのだろう。
「え……? いや、別に……なにも書いていないよ?」
「……さすがに苦しくないか? この状況で」
「ほぇ……、えっと」
今日は珍しい。明らかにわかりきって誤魔化しようがないのに、迅は自分が飾った短冊のことを誤魔化そうとしている。誤魔化しきれないのは明らかなのに。
呆れたような誤魔化されなかった嵐山の視線を受けて、迅は言葉を詰まらせている。
「別に笑ったりしないぞ」
「……いやー、大したこと書いてないよ。至って平凡なこと、みんなと同じことだよ」
どうしても迅は自分の短冊に書いた願い事を嵐山に知られたくないらしい。
ススス、と横にずれてその背中で笹の、短冊を飾っているであろう場所を隠すようにして立っている。
迅はよく自分のキャラじゃないと言って、その繊細で優しい性格の部分を見せないようにする。飄々としたつかみどころのない仕草でその部分を綺麗に隠すのだ。でも、長い付き合いになる嵐山はその部分をよく知っているし、今更隠す意味もない。
……ここまで隠そうとするということは、恥ずかしいからだろうと嵐山は予想した。そして同時に嵐山のイタズラ心にも火が付く。
「そんな人に見られると恥ずかしい願い事なのか?」
「いやいや、そんなことは……ってか、ずいぶん今日は食らいついてくるね」
「そんなことないなら、見てもいいだろ?」
いつもの嵐山だったら、迅がこうやって隠そうとすれば深くは追及せずに迅が話すまでそのままそっとしていてくれる。信じてなにも聞かないでいてくれた。
でも、今日は絶対見るぞと言わんばかりに迅の短冊に興味津々なのを隠そうともしていない。
スッ! と嵐山が左にずれて覗き込もうとすると、慌てて迅もそちらに体を傾けて嵐山の視界から短冊をガードする。すかさず反対側にスッ! と嵐山は迅の体をよけて覗き込もうとするが、負けずと迅も反対側に傾けてガードした。
嵐山と迅の攻防がそれからしばらく続くが、残念ながら嵐山が覗き込もうとするのを迅が必死で全てガードし続ける。さすが実力派エリート、なかなかの守備力だ。
水色の短冊が迅の背中の向こうに見えるのに、迅の書いている願い事までは見ることがどうしてもできない。ここまできたらなにがなんでも見たいという気持ちになってくる。
「も、もう帰ろうぜ。な、帰りにコンビニでなんか奢ってやるからさ」
「迅、俺の書いた短冊はあそこだ」
「へ?」
嵐山は指差した方を見ると、赤い短冊が確かにそこにあった。そしてその赤い短冊に書かれている文字は迅もよく知る真っ直ぐで力強い嵐山の文字。
「……家族が健康でありますようにって、……おまえらしいね」
見えた短冊の願い事を口にして迅は目を細めた。
周りの短冊には学生の多いボーダーらしく、テストで赤点を取らないようにとか彼女ができますようにとか早くB級になれますようにと書かれている中、嵐山の赤い短冊には自分のことではなく愛する家族の健康を願っている。とても嵐山らしく、好ましいと迅は思った。嵐山のことなので、自分自身のことは自分でなんとかする! とでも言うのだろう。
「よし、俺のを見たから俺も迅のを見るぞ!」
「……いやいやいやいや! おまえが見せてきたんだろ!」
「等価交換? いや、目には目を?」
「ハンムラビ法典! それこういう時に使うものじゃないよね!」
「とにかく、お互いに見せ合いっこだな」
どういう理屈だよ! と突っ込むことに気をとられた迅の隙を嵐山は見逃すことなく、迅の横からその水色の短冊を見た。
こんなに迅が嵐山に見られることを恥ずかしがるのだ、もしかしたら嵐山が当初予想したみんなが健やかであるように願ったわけではないのかもしれない。そうなると、もしかしたら自分とのことなのかもしれないとほんの少しだけ期待が生まれた。
……そう、自分とのことを願ってくれていればいいなとほんの少しだけ期待したのだ。
『ぼんちねこ特大ぬいぐるみが当たりますように 迅悠一』
「……」
「……」
「…………」
「……沈黙やめて」
言葉を発しない嵐山の横で、迅はそう言いながら両手で顔を覆う。
「…………迅」
「やめて……そんな哀れな目でおれを見ないで……」
嵐山は当初の宣言通り、迅の願い事を見て笑ったりしなかった。笑わなかったが、なんとも言えない表情で迅を見つめている。
なにも言わないが、視線が「迅、おまえって奴は……」と語っているのが伝わってくるのだ。それに迅は耐えられなかった。
「だって! だって欲しかったんだもん! 一生懸命点数集めて三十枚で一口のを三十口分応募したよ……でも当たるかどうかわかんないし……もうそうなったら願うしかないじゃん! 当ててもらえるなら星に願うしかないじゃん!」
「……迅、おまえって奴は……」
視線だけでなく、ついに嵐山はその言葉を口にした。
人のいない夜遅い時間にこっそりやってきて、そっと願いながら飾った迅の短冊の願い事。確かにこの願いは迅自身にはどうすることもできない、すでに申し込んだ後の段階では願うしかできないだろう。なので、迅の行動は正しい。正しいのだが……。
「……帰ろうか、迅」
「お、おう」
全てを諦めたような表情でそう言う嵐山に、戸惑った様子で迅は頷く。
自分の願い事で呆れたり哀れむのはわかるが、なぜ嵐山がそんな全てを諦めたような表情になっているのかはわからなかったが、いたたまれない空気になるよりはマシだと思い迅は帰ることに同意する。
「……コンビニでなにか奢ってくれ」
「お、おう……?」
そうして、二人は並んでお互いの願い事が叶いますようにと手を合わせてからラウンジを後にしたのだった。
その後、迅の願い事が叶ったかどうかは星のみが知るのである。
【後日、玉狛にて】
玉狛支部では陽太郎というお子様がいることもあり、季節のイベントや誕生日のお祝いなどはきちんと行っている。なので、七夕も小さな笹ではあるが用意してそれぞれで願い事を書いた短冊を飾っていた。
色とりどりの短冊が飾られている笹を眺めながら陽太郎の歪みながらも一生懸命書かれた字を見つけて、遊びに来ていた嵐山は微笑ましい気持ちになる。
そんな嵐山にキッチンでコーヒーを入れていた迅が用意できたよと声をかけながら、同じく飾られている笹と嵐山の方へやって来る。
迅が嵐山の横に立った時と同時に小南が飛び込んで来た。
「准! 願い事って人に見られると叶わなくなるって……! どうしよう、短冊に書いた願い事叶わなくなっちゃう!」
小南の言葉を聞いて、嵐山の隣に立った迅が一気に青ざめるのが見えた。
数日前、本部のラウンジでのやり取りを思い出し……嵐山はまずいなと思ったと同時に迅が嵐山の肩をガシッとつかんで揺り叫び始める。
「あらしやまああああああー!」
「じじじ迅、おお落ち着けけけ」
「おまえがあああ! おれは隠したのにおまえが見たから! うわああおれのぼんちねこ特大ぬいぐるみー!」
「准どうしようー!」
これはどうしたものかと考えつつ嵐山は迅に揺すられ、小南にすがられ続けた。
……小南に嘘情報を伝えた烏丸がやってきて「嘘です」と言うまで、ひたすら嵐山は揺すられすがられ続けたのだった。