至極厄介な誕生日「どうしよう。まさかこんなことになるとは思ってなくて……」
夕暮れの医務室で夏油が項垂れると、向かいに座る家入が青汁の原液を無理やり飲まされたような顔をした。つまりは相当ひどい顔ということである。
「どいつもこいつも、ここを無料のキャバクラか何かと勘違いしてんの? くだらない話を嫌な顔せず聞いてほしいなら、酒を注いでくれる若くて可愛い女のところに行きな」
「なんてことを言うんだ。硝子は今も若くて綺麗だし、硝子にお酒を注いでもらえるならいくらでも金を積みたい男はそこらじゅうにたくさんいるよ」
「掘り下げてほしいのはそこじゃないんだわ。なんでどいつもこいつも一番に私のところに来るわけ? 自分の尻の穴くらい自分で拭けって言ってんだよ」
ひどい言われようである。夏油が家入のもとを訪ねたのは初めてのことだし、これでも悩みに悩み抜いて苦渋の決断として足を運んだのだ。
「そんなつれないこと言わないでよ。こんなことを相談できるのは硝子しかいないんだ。私の唯一にして絶対の安全地帯なんだよ」
「五条が聞いたらブチ切れそうなこと、さらっと言わないでくれる?」
「だって本当のことだろう。それに悟は、そもそもの悩みの種なわけだし……」
夏油が口ごもると、家入がこれみよがしにため息を吐いた。夏油だって、友人の貴重な時間を邪魔したいわけではない。だが、自分ひとりでは手に負えないと判断したからこうして恥を忍んで助言を乞うているのだ。
「一体何が不満なんだ。誕生日を真っ先に祝ってもらって、欲しいものを全部買ってもらえて、なおかつこれから豪華絢爛なクルージングディナーに連れて行かれるんだろ? そんな恵まれた人生の何がご不満なわけ?」
夏油はなにも、唯一無二の親友が自身の誕生日を祝ってくれること自体に困っているわけではない。むしろありがたいことだと思う。疎遠になっていた時期があったのに、再びこうして変わらぬ友情を向けてくれるなんて、どんなに感謝してもしきれないくらいだ。嫌だなんて言ったら間違いなく天罰が下るだろうし、だから夏油は、この状況が嫌なわけでは断じてない。
ないのだが。
「なんというか、ちょっと気合いが入りすぎてるというか……度を超えすぎてるというか……」
「お前だってあいつの誕生日にそれなりのことをしたじゃん。五条から聞いたよ、待ち伏せして拉致って銀座の貸切レストランでふたりきりでディナーしたんでしょ?」
「だって、悟に先約があるかもしれないと思って……やむを得ずだよ」
「な〜にがやむを得ず、だ。やってることなんてほとんど変わらないじゃないか」
変わらないはずがないだろうと、夏油は奥歯をぎりと噛み締めた。五条のやったことを、ちょっとその辺の良い店で食事することと同列に並べられては困るのだ。
「今朝の十時頃、何してた?」
「え、徹夜明けで仮眠してたけど」
「そうか、だから硝子は知らないんだ……」
「何を? ていうか、そうやっていちいちもったいぶられるのがウザい」
心に刺さる一言はあえて聞き流し、夏油はこくりと唾を飲み込んだ。
「あのね、今日、悟が小型機を飛ばしたんだ」
「小型機? なんのために?」
「空にでっかく描くためさ。『傑、誕生日おめでとう』って」
小言が続くかと思われたが、そうではなかった。家入が呆れを通り越したような顔をして、文字通り言葉を失っている。
快晴の冬空いっぱいに刻印された飛行機雲の文字を、夏油は穴にも入りたい思いで見上げたのだ。関係者にとどまらず、あの文字を目撃した一般人は千人単位でいるだろうし、今頃SNSでは空に描かれた「すぐる」が誰か、すでに人探しが始まっているかもしれない。
「いや、祝ってくれる気持ちは嬉しいんだよ? 嬉しいんだけど、なんていうか、悟の祝い方ってもうほとんどあれなんだ、まるで恋人にプロポーズするみたいな……」
言葉尻を濁すと、医務室の中に沈黙が訪れた。自分でもあえて言語化しなかった一言をいざ形にすると、想像以上の衝撃がある。
「一言、言っていい?」
「どうぞ」
「そういうの、夏油はとっくに受け入れてるんだと思ってた。あんたたち、まだ付き合ってなかったの?」
「まだもなにも、私たちはそういう関係じゃないよ。この関係性を崩すつもりもまったくないし」
「そうか? あいつの方はそうでもないだろ」
夏油は項垂れた。そうなのだ。この問題の一番の悩みどころは、お互いが相手に求めるものがどうやらイコールではないらしい、ということなのだ。
「やっぱり、硝子もそう思う?」
「思うだろ、そりゃ。まさか夏油、全然気づかなかったとか言わないよね?」
「言わないよ、さすがに。ここまでされて気づかないわけないだろう。誕生日という大義名分を得ていよいよ全力で囲い込みに来たというか。はぐらかせるのも時間の問題かな、とは……」
「どうしてはぐらかさなきゃいけないわけ?」
「え?」
想定外の問いかけに、夏油は目を丸くした。
「出せばいいじゃん、結論。夏油、満更でもないって顔してるよ」
「それは……」
夏油は口ごもった。別に、五条からの働きかけが嫌なわけじゃない。まっすぐに向けられる気持ちも不快ではなかった。
「もちろん、友人としては好きだ。それは間違いない。ブランクを経てもこうして受け入れてくれたことに、感謝もしてるんだ。でも……」
「でも?」
言い淀んだ夏油は、そこで一度短く息を吸った。
「悟と同じ意味での好きかは、正直わからなくて……」
そのとき、突然部屋の外でゴトンと何かが落下する音が響いた。夏油は素早く椅子から立ち上がり、勢いよく医務室のドアを開け放った。そこにいたのは──
「悟……」
医務室のドアの前に棒立ちになっていたのは、今まさに話題にしていた五条だった。一体いつから立ち聞きされていたのかと、みるみるうちに血の気が引いていく。
「あは、ごめん、全然聞くつもりなんてなかったんだけど。傑の姿が見えないから硝子のところかなって寄ってみただけでさ、ほんと邪魔するつもりなくて、あは、あはは〜」
夏油が何も言えないでいるうちに、突然五条が堰を切ったようにペラペラと早口で捲し立てた。
「悟、あの」
「僕なんにも聞いてないから! 積もる話もあるだろうしどうぞごゆっくり〜! そういや伊地知に報告書出せって言われてたんだわ、じゃっ!」
次の瞬間、五条が脱兎も舌を巻くスピードで走り去った。唖然と瞬きをしていた夏油は、我に返るやいなや、すぐさま五条の後を追いかけた。
まずい。なんというか、タイミングが最悪すぎる。
「悟、待って、悟!」
必死に叫ぶが、先を行く五条の逃げ足の速さたるや、ウサイン・ボルトも真っ青だ。こういうとき、五条の全長の半分以上が脚であるという事実をまざまざと思い知らされる。
全力疾走する廊下で、生徒たちとすれ違った。普段校内は走らないようにと注意する人間がこれではまったくもって立場がないが、だからといって諦めることもできない。
「あは、また五条先生が何かやらかしたんかな〜」
横を通り過ぎたとき、虎杖が笑っているのが耳に入った。いつもならそうだろうが、今日に限ってはそうではない。やらかしたのは、夏油の方だ。
五条が校舎の外に飛び出した。術式を発動されてしまう前に、夏油は先手を打った。手持ちの呪霊を足元で爆発させ、その爆風を利用して五条に飛びかかる。後ろから腰を羽交い締めにし、そのまま一緒に地面に倒れ伏した。
「ぐえっ」
潰れた鳴き声を出して五条がばたんと倒れた。そのまま夏油は全体重をかけ、五条の動きを封じる。
「ギブギブギブ! オマエのタックルはマジで洒落になんないって!」
五条が暴れているが、構わず締め技をかけた。関節の動きを封じられた五条は必死の抵抗を試みていたが、やはり敵うことはないと悟ったのか、やがて全身の力を抜いた。
「なんでだよ、なんで追いかけてくるんだよ……」
つくりものの陽気さでコーティングされていないありのままの五条の声は、いつになくか細く、弱々しかった。
「普通ここは逃がすところじゃん。赤っ恥晒した僕に気を遣ってしばらくひとりにさせる場面でしょうが」
「ひとりにさせられないから追いかけたんじゃないか」
「なんでだよ、ひとりにさせてよ。とてもじゃないけど今オマエと顔なんか合わせられないよ」
なんと声をかけるべきだろう。どう見ても夏油と家入の会話は五条の心を傷つけた。なおかつ最後に放った一言は、五条にとって相当なダメージとなっただろう。
わかっていたことだったのに、愚かにも夏油は言葉にしてしまった。
「……僕ばっかひとりで盛り上がって馬鹿みたいじゃん。実は傑が喜んでないなんて、夢にも思わなかった」
「違うんだ、悟。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」
「違くないよ。傑の本心に気づきもしないでひとりで突っ走るの、もう何度目だよ。いっつも僕は、大事なことを見落としてばっかりだ」
言葉が出なかった。いや、言葉なんて結局、心の中にある感情を完璧にあらわしてくれるものではない。五条に対してどんな感情を抱いているのか、そもそも夏油自身が正確にわかっていないのだ。
「悟、お願いだから自分を責めないでくれ。祝ってくれてすごく嬉しかった。それは本当だ。こんなに大事にしてもらえて、身に余る幸せだとも思った」
「でも、傑は困ってるんでしょ」
「悟のせいじゃない。これは私の問題なんだ。私の、覚悟の問題」
本当はわかっていた。はぐらかしていたのは五条の気持ちではない。自分自身の感情だ。
「悟にもらうものを全部返せるのか、ずっと不安だった。いざ蓋を開けてみて全然釣り合わなかったらどうしようって、直視することから逃げていたんだ」
だって、五条は夏油にとって、たったひとりの親友だから。ふたりの関係を安易に変えてしまい、もう二度と今までのふたりに戻れなかったら、そうしたら自分は一体どこに根を張ればいいのだろう。散々回り道をした自分を変わらずに受け入れてくれた存在を、みすみす失ってしまったらどうしよう。それがずっと、心の端っこに引っかかっていたのだ。
夏油の向ける好きが、五条のそれと噛み合わなかったら。同じものを、同じように返せなかったら。
そのとき、今度こそ夏油は、ひとりだ。
「全っ然わかんねえよ。その覚悟とやらが決まったら傑は僕のこと好きになってくれんの? 覚悟が決まらなかったらずっとこのままなの? ていうか、そういう意味で好きかわからないってどういうこと? こういう意味では好きでそういう意味では好きじゃないってこと? 何がどう違うの?」
五条が勢い任せに捲し立てた。
「そもそも好きに違いがあるってこと? この前『悟のこと世界一大好き』って言ってくれたのは嘘だったってこと? 本当はそんなこと思ってないのに僕に無理やり言わされただけなの? ていうかそういう意味ってどういう意味だよ!!」
五条がますますヒートアップしていき、語気が強くなる。
「もらったもの返すってなに! 別に同じ分だけ返してほしくてプレゼント選んだわけじゃねえよ!」
「物じゃなくて気持ちの方だ」
「じゃあ傑は僕のこと嫌いってこと!?」
「嫌いだなんて一言も言ってないだろ!」
「好きじゃないってことは嫌いってことだろ!」
「短絡的すぎるだろ! 友だちとしては好きって言ったのが聞こえてなかったのか!?」
「友だちとしてじゃなければ好きじゃないって何語!? それはどういう感情なの!? ここにいるのは僕とオマエじゃん! 友だちも家族も恋人もクソも関係あるかよ!」
「恋人とクソを並べるんじゃないよ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃねえだろ!」
五条の勢いに乗せられて、夏油までつい白熱してしまった。全力疾走に上乗せされた口喧嘩に、ふたりして肩で息を弾ませた。
「……もう頼むから離せよ。さっきからひとりにしろって言ってんじゃん。世界一惨めな人間を上から眺めて楽しいですか?」
先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、今度は一転、五条が地面に伏せて呟いた。
「悟、アイマスク取って。ちゃんと目を見て話したい」
「やだ」
「お願いだから」
「絶対絶対死んでもイヤ」
夏油が手を伸ばすと、五条が抵抗した。しばらくの間攻防が続いたが、それでも馬乗りになっているのは夏油であり、有利なのは夏油だ。
ついに五条のアイマスクを引き抜くことに成功した。なるほど、こういう時は騎馬戦の鉢巻きの要領ですっぱ抜けばいいのだな、などといらぬ知識を蓄えたところで、目の前に五条の眼があらわになった。
思わず息を忘れる。光を通さない黒い布地の奥で、君はそんな顔をしていたのか。
赤らんだ目元、小さな雫をつけた睫毛、そしてなんとも形容しがたい美しい青は、いつもより少し潤んで夕暮れの鮮やかな光を弾いていた。
そのとき身体の中で起きた爆発、あれは一体何だったのだろう。とにかく夏油の内側で、確かに、間違いなく、何かが爆ぜたのだ。
それは小さな死であり、生だった。心臓が拍動を止め、それからどっと血流を送り出した。血潮が血管の内側を迸り、体温が上がり肌が汗ばみ、軽い目眩に視界が明滅した。色はより鮮やかに視界に飛び込み、匂いも音も、肌に触れる空気の感触さえ今までにないくらいはっきりと感じられた。
「……なんだ」
ほとんど笑ってしまいそうになりながら、夏油はぽつりと吐露した。いや、実際のところは本当に笑っていたのかもしれない。
「……私、ちゃんと君のことが好きじゃないか」
ほんのちょっといじけたように尖る唇。乱暴にアイマスクを剥ぎ取ったせいで乱れた前髪。その合間から覗く丸いおでこ。恨めしそうに見上げてくるツンとした表情だって、ちっとも怖くなどない。恐ろしいほどに、愛おしくて仕方がないのだ。
「ねえ、悟。キスしていい?」
「は!? なんで!?」
「なんでって、キスに理由なんていらないだろ」
「そういう意味では好きじゃないかもとか言ってたのはどこのどいつ!?」
「うるさいな。嫌ならしないけどそれでいいの?」
「や〜だってさ〜、いざしてみてやっぱり違うとか言われたら本当に立ち直れないもん、マジで宇宙まで傷心旅行に行っちゃうかもだけどそういう責任ちゃんと取れんのかって聞いて──」
うるさい口は物理的に塞ぐのが一番だ。ベラベラと騒がしい唇を問答無用で押さえつけてやれば、五条はぴたりと動かなくなった。
飴でも舐めていたのか、五条の唇は驚くほどに甘かった。いちご、オレンジ、あるいはレモン。ひとつには絞れない複雑で甘やかな味が、唇から全身に広がっていく。
好きか嫌いかで言えば好きで、でもそういう好きかと問われると確信がなくて、もし違っていたらと考えると踏み出す勇気がなくて、だが結果的には何もかもが杞憂だった。初めから心配なんていらなかった。いくら頭の中で最悪のシミュレーションを重ねたところで、ちゃんと自分は知っていたのだ。
こんなにもはっきりと、最初から、自分は五条のことが好きだったのだ。
唇をそっと離すと、五条のまん丸の目と視線がかち合った。どうやら瞬きのひとつもしていなかったらしい。惚けている五条がなんだか面白くて、夏油は思わずクク、と笑いをこぼした。
「……あのさ」
「ん?」
「やっぱりなしだったら、オブラートに何重にも包んで優しく言って。これでも結構傷つきやすいハートしてんの」
「ははっ。全然ありだったよ、安心して」
五条がわなわなと唇を震わせた。まったく、押しが強いかと思えばとことん打たれ弱くて、よく見えていると思えばまったく見えていない、こんなにも面倒で扱いにくい男を夏油は他に知らない。
だが、自分もなかなかいい勝負をしているということは、指摘されなくてもわかっているつもりだ。
「さあ、これからディナーに行くんだろ? こんなところで油を売っている暇はないよ」
「さっきまで全然乗り気じゃなかったくせによく言うわ」
「じゃあ行かないのかい?」
少しの意地悪を込めて片眉を上げれば、五条は一度頰を膨らませたのち、諦めたように眉尻を下げた。
「行かないわけにはいかないよ。オマエがこの世に生まれ落ちた日を祝わないなんて、到底無理な話なんだ」
そうかい。それなら空に飛行機雲で愛を描くことだって、君にとっては当然のことだったのかもしれないね。
『至極厄介な誕生日』