忘羨とある法具※おそらく口調はラジドラ
※2021年5月記載
「……忘機」
優しい声がして顔をあげる。膝を突き合わせて静かに茶に口をつける藍忘機の茶器の中身が幾ほども減っていないのを見て、藍曦臣は苦笑した。
「……」
「口に合わなかったかな」
「いいえ。」
とうにぬるくなった茶器に忘機が口をつけて、ようやく茶を飲み込んだ。
「……本当に飲んでいるのは、酢かな」
口元を袖で覆ってぼそりとつぶやいた言葉に、忘機はちらりと視線をあげて兄をみたあと気まずそうに逸らした。
「ん?」
魏嬰、と呼ばれた気がして魏無羨は振り返る。にぎやかな街並みを歩きながら、片手に天子笑をもって振り返れば、後ろにいた藍景儀が危ないな!と叫んだ。
「なんだよ、今呼んだだろ」
「呼んでない!というか今日はただの買い出しだったのに……なんであんたがついてきてるんだ!」
「お前が一人で寂しそうだったからだろぉ?」
その言葉に景儀はぐっと言葉を詰まらせた。今日は思追は雲深不知処で別の番に駆り出されており、足りなくなった食材を買いに景儀が出ていた。
「それにしても、お前が買い出しに出るとはな。いつも雲深不知処には運んでもらってるのに、わざわざ買いに来るなんて……他に用があるんじゃないか?」
「うるさいな。いいから選べよ。」
鋭いところを突く無羨に、景儀が内心冷や汗をかきながら店を指さした。
「俺が選ぶのか?姑蘇藍氏の料理は味気がなく砂を食ってるような……いや、なんでもない。そうじゃなくて……俺はあの料理の材料なんて知らないぞ」
「いいから。言ってみろってば」
「ああ?なんだ~~?」
怪しいなあという無羨の背中を押して、景儀は急かす。無羨の片手には天子笑。景儀の片手には無羨がおいしそうだなあといった食材がぶら下がっていた。そのすべての支払は、景儀がした。
「なんで俺が……」
はあ……とため息をつく景儀に背中を押された無羨がまた口を開こうとしたが、その前に別の声が響く。
「お兄はん!みていっておくれやす」
にこりと笑ったお姉さんが手で無羨と景儀を招いていた。
お姉さんが手に持っているのは饅頭だ。
「うちの一番人気どす。どうです?お兄はん、えらいかっこいいさかい、安くしますよって」
ふふふと口元に笑みを浮かべたお姉さんに、無羨が笑みを返す。
酒を片手に、いろんな種類があるんだねえ!と近寄っていく無羨をみて一瞬景儀は寒気がした。
習慣で周囲を見渡して忘機がいないかどうか確認してしまう。
「一つあげますよって」
食べてみてと手渡された饅頭を無羨が口にする。
「可愛いお兄はんも」
「え、あ、はい」
ぽんと手に置かれた饅頭を呆然と景儀は見つめた。
「あ、あの時の藍のお兄さん!こっちもみていってくれよ!」
無羨が足を止めれば、即座に違う店からも声がかかる。あれよあれよという間に、無羨の周りには人が集まり、藍氏には世話になっているからという声もあり、無羨の腕にも景儀の腕にもありあまる贈り物と買った食材であふれてしまった。
「うわ……」
手にもてない程の量を抱えて、もうこれ以上は無理だ……と心の中で参った景儀を隣にいた無羨がちらりと見下ろす。
そして、笑顔で街の人に声をかけた。
「ああ、もういい。いいよ!十分だ。お代は足りなかったら藍氏に言ってくれ」
そういって片目を瞑れば、周囲にいた人は笑った。またお兄さんが払うんじゃないのか!と。
それにいつもじゃないだろ?と返す無羨は楽しそうだ。
藍氏の者は言葉数が少ない。冷たくはないが、雑談の類はあまりしない。
それに比べて愛想もよく、見目もよく、口に長けた無羨はどうやら姑蘇の街で気に入られているようだった。その姿を見て、景儀は心の中で何度目かわからないため息をついた。
手にした食材は、きっと無羨の好みの味を作り出すことができるんだろう。
もらった饅頭も雲深不知処では食べれない濃い味だった。山椒が効いたぴりっと刺激のある味に、無羨は何個かそれを買っていた。
「また来るよ、お姉さん」
そういって笑う無羨を見つめて、景儀は自分を無羨に同行させた仙督の顔を思い浮かべた。食材や食べ物を買ってくるように自分に頼み、一緒に帰ってきてほしいと頼まれたのは数刻前だ。“誰の食べたい”食材なのか、は言われなかったが、そんなことは聞くまでもないと思っていた。
(きっと、この食材は魏先輩の為なんだろうな)
本当は自分で行きたくても、今日は沢蕪君と詰めなければならない話があるといっていた。
それをひどく残念がっていたのは、景儀から見てもみてとれた。
(でも、含光君が一緒じゃなかくてよかったかも……)
人に囲まれて親しく振る舞う男。
その人がどれだけ含光君にとって大切で、愛されている存在なのか嫌というほど知っているから。
目の座った含光君をみなくて済んだ、と思って景儀はほっと息を吐きだした。
「…………」
「おやおや……これは、人気者だね」
温度の低くなる空気を感じながら、曦臣はほほ笑んだ。
彼らが見つめる先には、一つの甕がある。
そこには冷泉の水がたっぷりと満たされており、その甕の中には赤い玉が浮かんでいる。何の変哲もないその甕の中に浮かぶ赤い玉に霊気を流し込めば、それは瞬く間に赤い色が広がり、彩衣町の様子、もとい、もう一つの対になる藍色の玉を持つ無羨の様子を映し出していた。
これは、最近無羨が作り出した法具の一つだった。
「忘機」
「……」
曦臣の声すら届かないのか、じっと甕を見つめる瞳が冷えている。
声こそ聞こえはしないが、映る水面にはいろんな人に声をかけられている無羨が映っており、曦臣からすればただただ微笑ましい光景が広がっていた。
魏無羨が姑蘇の町に溶け込む様子は、喜ぶべきことだろう。
(忘機……隠せていないよ)
手に持っていた茶器にヒビが入る様子を見て、曦臣はそっと、今日は静室に近寄らないように子弟達に伝えないとね、と苦笑した。
「兄上」
「どうかしたかい」
「この、法具の評価は」
「そうだね。すごいと思うよ。ただし、作るのにかなりの時間と彼の霊力を使うと言っていた。量産は難しいだろう。これは、君と彼で持っているといい。もし他に作ったとしても、少人数で使用するほうがいいだろうね。魏公子はさすがだ」
「はい」
無羨を褒められて、冷えていた忘機の空気が少し和らぐ。誇らしげな顔に、曦臣は微笑を返した。
「さあ、これにて検証は終わりにしよう。」
甕に手を入れ、水面を揺らす。その瞬間、その光景は消えた。
「行っておいで。忘機」
「はい」
もう用は終わったと告げれば、忘機がすぐさま濡れることも厭わず赤色の玉を水の中から取り出して、大事そうに握った。
彼と繋がる対の玉。それを優しく指先で撫でて、忘機は礼をしたあとに寒室を辞した。
「……終わったか」
胸元に入れていた玉から霊力のつながりが切れたことを感じて、無羨は町の人に笑顔を向けて、雲深不知処へと戻ることにした。本来の目的が済んだからである。
彼はもともと町に一人で行くつもりだった。そこに現れたのは景儀の方だった。
「何?」
「いや、こっちの話だ」
歩くのに苦労している景儀の抱える荷物の中からリンゴを一つ取り、無羨は齧る。
「これ持って帰れるかな」
「大丈夫だ」
「あんたの分はあんたが持てよ!」
「ああ、大丈夫だって。ほら」
よたよたと歩きながら雲深不知処へと足を向けていれば、無羨が天子笑を持つ手を空へと向ける。視線をあげれば、そこにいたのは見慣れた姿だった。
「含光君!」
「藍湛!みえたか?」
忘機が避塵に乗って降りてきた。
無羨の前に立てば、無羨は先ほどの町の人にみせた笑顔ではなく、ひどく甘ったれた顔で忘機を呼んだ。
(うわ、)
うわ、と景儀は思った。その顔は、全然違う。愛想よく話していた人たちに向けるのも、自分たちに向ける顔とも、全然。
景儀は見てはいけないものを見たような気がして、視線を逸らした。
「どうだった」
「君は凄い」
「そうかそうか!」
嬉しそうにほほ笑む無羨を忘機が優しい瞳で見つめていた。
「俺は人気者だろ?」
「……」
しかし、その言葉に忘機の瞳がすっと温度を下げる。
それに気づいてか気づかずか、機嫌が良さそうな無羨が忘機の腕に絡んだ。
「安心したか?」
静かに問われた声。そこには揶揄いなどなかった。
「お前の、姑蘇藍氏の、株を下げなかっただろ」
その言葉に忘機も景儀も呆然と無羨を見つめた。
いつも自由気ままで、恥知らずと言われても気にしない男が、姑蘇藍氏を気にしていた。自分のせいで誰かが悪く言われるのを厭う人間だ。彼は夷陵老祖で、今だ口さがない言葉をかけられることもある。それに加えて、藍氏が悪く言われるのも、知っている。
「君は……」
「俺は町の人ともうまくやってるよ。お前達の名前に傷はつけない。つけたくないんだ」
だから、見てほしかった。
そう静かな声が、騒がしい男の口から紡がれるのを、景儀はぐっと息を詰まらせた。
「大丈夫だったか」
まるで子供が聞くように問う声に、景儀は思わず口を開いた。
「あんたが、気にすることじゃないだろ!」
「え」
景儀の声に、無羨がぱちりと目を開く。
「何をしても、気に入らない奴は口さがないことを言うんだ。あんたが何をしても、誰が何をしても、だ。あんたがいるからって、俺達が傷つくことなんてない。姑蘇藍氏は名門だ!その誇りも失われない!もちろんあんたが好かれる方がいいに決まってる。でも、魏先輩!あんたが我慢する必要なんて何もない!」
はあっはあっと息を乱して景儀は一息に言った。
誰かのために、いつも自由な人が、好きにしろと笑ってくれる人が、不自由になるのは、違うと思ったからだ。
その言葉に、忘機も頷いた。
「君がうれしいと、私も嬉しい。でも、君が姑蘇藍氏の為に無理をするのは違う。私はそれを是としない」
「そうだ!あんたはそのままでいいし、十分だろ。むしろ愛想を振りまきすぎて含光君なんて、絶対にヤキモチをやい……」
そこまで言って、景儀は口を閉ざした。
ちらりと、静かな視線が突き刺さる。
「……先に、戻ります!」
ひやりと汗をかいて、景儀が礼をして辞そうとするが手に持ったものでうまくできない。
その様子をみて、無羨は笑った。
「藍湛、頼むよ」
「うん」
突然下を向いた景儀の腕が軽くなる。
山ほどあった食材は、忘機の肩腕の中に引き取られていた。
「え、含光君。私が運びます!」
「いい。疲れただろう。先に戻りなさい」
「えっあ、はい」
それじゃあ、と。礼をして景儀が背を向ける。
その背に向かって、無羨は声をかけた。
「ありがとうな!景儀!」
その言葉を受けて、景儀は家規に逆らわないギリギリの速度で駆けた。
きっと、含光君は人に囲まれる魏無羨をみて嫉妬しただろう。彼は道侶だから。
でも、自分も。
魏先輩と慕うあの人が、自分が育った町に愛されるのも嬉しいし、そのために無理をするなら苦しいのだ。
「水臭いだろ!魏先輩!」
ふんっと口から出した言葉は、照れ隠し。
とっくに家族のようになった人たちとの時間が、自分は思った以上に楽しいのだと、景儀は雲深不知処に戻りながら自覚した。