曦澄2こばめば拒むほど、彼の笑みは深くなっていくことに最近気づいた。
「……藍宗主」
姑蘇藍氏での清談会を終え、江澄は一人で姿を消した男を見つけ、その背中に声をかける。姿と気配を追うのに必死で、藍氏の中でも奥まった山の奥に辿り着いてしまった。もしかしたら禁域に足を踏み入れたのでは、という考えは、静かに振り返ったその顔が穏やかな笑みを湛えていることで答えを得た。そもそも、他の者の気配に気づけないほど、この男は生易しい性格と実力ではない。
おびき出されたのか、と気づいた時にはもう遅く、江澄はこの場を知らないし、もうすでに声をかけてしまっている手前、なんでもありません、と引き返すにはもう遅かった。
まっすぐに見つめてくる男を木々の隙間から差し込んだ太陽が照らしている。江澄がいる場所は日陰になっていて、明暗が分かれていた。
(まるで、)
まぶしくもないのに、目を細めてしまう。いや、まぶしいのかもしれない。人柄もよく温和で、柔和な笑みを絶やさないくせに、実力さえ持つ藍氏の双璧の一人。この男はきっと劣等感やどうしようもなさなんて感じてこなかったのかもしれない。しかし、その実、江澄はこの男が負った傷を近くで見てしまったのだ。この十数年、お互いに負った傷も、抱えた想いも、誰かと比べるものではない。
それでも、どうにも目の前の男を前にすると、江澄は肩に力が入ってしまう。皆が褒めたたえるその笑みにつられて笑うこともできず、近い距離に安堵よりも緊張を覚えてしまうのだ。
「……江宗主」
そう呼ばれて、少しだけ胸がいやな音を立てて軋んだ。
こんな山奥で、誰もおらず二人きりだ。普段なら違う名で呼ばれるところをこの人は“宗主”を付けた。この言葉の意味するところは、明確だ。
(なにを、いまさら……)
江澄の顔に自嘲的な笑みが浮かんだ。何度も笑みを浮かべて優しくされて、そのたびに必要ない、慣れ合うつもりはない、と拒んできたのはどこのどいつだ、と自分を罵倒した。距離を保っていたのは、江澄の方だし、好きだとか惚れているなんて類を言われたことは無い。ただ、時たま掠めるように触れた温度が江澄の心臓を騒がしくして、頬に熱を灯すのが非常に困っていただけだ。まるでこれでは、うら若き乙女が想い人を意識してるかのようじゃないか。
江澄は自分の脳裏に浮かんだ考えをハッと笑い飛ばして、一つ息をついてから揖礼をした。
「失礼。気分が悪いのかと思い、追いかけてきてしまった。貴殿の様子がどこか……違っていたので。しかし、思い違いだったようだ。ここは貴殿の庭だ。何かあっても俺の出る幕じゃなかった」
距離を開けようとわざと慇懃な態度で接したが、最後に漏らした言葉が無意識のものだったため、江澄は気づかなかった。
彼は、常なら目の上の者に対しては、一貫して“私”を用いていたのに。
礼をして、何も言わない男をもう一度江澄は見つめた。
いつからだろうか。彼は江澄が気づくくらい必要以上に江澄を気にかけてくれるようになっていた。常は優しく、無茶をすれば厳しく。そんな態度を向けられたのは13年以上ぶりで、江澄はぞっとするような思いをしつつも、いつの間にかそのことに慣れ始めていたのかもしれない。これは、本当に、ばかげていることだ。
“たった一人に”思われている人を、かつての義兄を傍で見るのにも慣れてきたころだった。自分の考えは徐々に甘くなってきたかというのか。いまだ宗主として足らぬものも多い。共に宗主として歩むものへ寄りかかるべきでは、ない。
ないのだ、と。わかっている。
江澄は無意識に止めた息のなか、藍曦臣を見つめた。これが、今が、潮時で。あとは普段に戻るだけ。その時間の狭間を少しだけもう少しだけ見て居たかった。彼が感じた一抹の夢を、夢で終わらせるために。
「綺麗だな。貴方は」
思わず江澄の口から言葉が漏れる。誰もが褒めたたえる藍氏の宗主藍曦臣。きっと誉め言葉等受け取るのに慣れているだろう。江澄は気に留めることもなく、ただそう漏らしてからもう一度目を伏せてわびた。
「それでは」
そういって、この夢から一歩踏み出そうとした、その時。
「待ってくれ」
思った以上に近い距離でその声がして、腕を取られた。
先ほどまでは10歩以上も離れた場所にいたというのに、いつの間にこんなに近くに来たというのだろうか。
「…………江澄」
深いため息と共に吐き出された名前に、思わず江澄は目を丸くする。夢に掴まれてしまったのだ、それは驚く。しかし、彼の口から出たのは掠れた声だった。
「なんだ」
「……行かないでください」
肩を落とした藍曦臣を見上げて、江澄は首を傾げた。
「具合が?」
「悪くないよ」
向かい合えば、光の下にいた藍曦臣が江澄と共に明暗の狭間に立っている。その姿を見上げて、江澄はまた落ち着かなくなった。
「そうか。ならよかった。離してくれ」
「いいえ」
「……」
「……貴方を……試すような真似をしてしまって、申し訳ない」
「何も試されてはいない。あなたが謝る必要はない」
「……江澄……」
藍曦臣がほとほと困ったような声を出して、眉尻を下げた。その顔が先ほどの深い笑みよりもずっと、江澄に安堵を与えた。
「なんだ、藍渙」
思わず、藍宗主でも藍曦臣でもなく、そう呼んでしまった。自分よりも年上の男が情けなく謝る姿が少し、おかしくて。江澄江澄と呼んでいいなんて言ってないのに勝手に呼ぶのだ。このぐらいいだろう。先ほどまでの体のこわばりが抜けて、江澄は目を細めた。
「……」
藍曦臣はそんなふわりと口元に無防備な笑みを浮かべる江澄を呆然と見つめる。そして、思わず傾けそうになった体をなんとかぐっと堪えた。
「……貴方は、本当に……」
首を横に振る男に、江澄は笑みを消した。
「なんだ。言いたいことがあるなら……」
「今は言わないでおきましょう」
「……」
江澄はその含みに少々いら立ったが、まあいいかと握られた自分の肩を見つめた。いまだ離されることのないそこは、じんわりと温かい。そして、どうしてだか、今までのように緊張はしなかった。
ふと脳裏に、人目もはばからずにお互いにくっついては幸せそうに笑いあう義兄といけ好かない藍曦臣の弟の姿が浮かぶ。
「藍渙。」
江澄は藍曦臣の後ろに差し込む光に目を細めながら、思わず口にした。
「なんでしょう。」
「貴方は、幸せになる方法を知っているか」
陽の光が強い。まるで目がくらみそうだ。先ほどまでの心を巣食った緊張感はもう和らいで、目の前の男の作り物なのではないかと思うほど美しい顔がそこにある。その瞳はじっと自分を見つめていた。そのことに、どうしてこうも、安堵を覚えてしまうのだろう。
藍曦臣はうわ言のような江澄の様子をじっと見つめながら言葉を探した。
「……私にもわからない」
いつもは丁寧な口調を崩さない男は、その実いつも丁寧であり続けるわけではない。外されたその距離に揺蕩いながら、江澄はその明朗な声に耳を澄ませた。
「……幸せになる方法も、なり方も、私にはわからない。しかし……」
きっと藍曦臣の脳裏にも一組の夫夫の姿が浮かんでいるのだろう。口元にやらかな笑みを浮かべた藍曦臣は、一度目を伏せてから睫毛を揺らして再び江澄を見つめた。その瞳には、柔らかい日差しのような、それでいて激情を奥に無理やり押し込めているようなそんな温度が揺らめいていた。江澄はその瞳をじっと見つめ返した。その奥の扉に、興味があったから。
「貴方を……想うのは私にとっては、不幸ではない。喜びにも思える。返らない気持ちだとしても、それでも、やはり……捨てきれないな」
柔和な笑みが少しいびつになって、言葉をとぎれとぎれに選ぶ姿に、江澄はまた目を見開いた。藍曦臣は、一度だって、その優しさの意味を明かしたことは無かった。ただ、少し親しくするだけで。江澄が体を引けば、その分だけ引いて追ってはこなかった。
しかし、今はどうだろう。掴まれた肩は依然そのままで、まるで睦言を交わす程の距離で囁かれている。まるで、こんなのは、誰かを……。
「まるで、あなたは俺を口説いているように見える……」
思わず呆然と江澄がそういえば、藍曦臣の方が目を見開いた。
変なことをいってしまった、と江澄が驚いて離れようとする前に、藍曦臣が両手で江澄の肩を掴んだ。
「そうです」
そして、必死な声でそう言った。くしゃりと歪んだその顔が、これまたみたことがないような顔で江澄は目を白黒させる。
「そうです。そうだ……いまさら……今さらなのか……私がわかりにくかったのか……?」
普段の藍曦臣であれば、“そうだと言ったら、どうしますか”と笑みさえ湛えてそういうだろう。しかし、そんな脳裏に浮かんだ完璧な姿はべりべりとはがれて落ちていく。
目の前にいたのは、ただの男だった。藍曦臣という、ただの男。
江澄と変わらない、ただの一人の男がそこにいた。
そのことがなんだかおかしくて、江澄はふっと声をあげて、そして堪えきれずに体を揺らした。
「じゃ、江澄……?」
いきなり肩を震わせて笑い始めた江澄に藍曦臣は目をぱちぱちと瞬かせる。
「藍渙……っあなたは、面白いな」
動揺するなんて、俺のことで!
なんだかそれがおかしくて、胸がむずむずして、江澄は笑い続けた。
おろおろとする男が、あと数秒で自分を取り戻すことはわかっていたが、その瞬間が惜しくて、江澄は思わずその顔を両手で挟む。
「藍渙」
江澄が低く掠れた声でそう呼んで、藍曦臣を見つめた。藍曦臣は息をすることができなかった。そのことにますます笑みを深くする。
藍曦臣は、心の中で一人の男を思い出した。その人は非常に弟を揶揄うのが上手で、時々こんな愛しさと悪だくみを混ぜたような顔をすることがある。
藍曦臣は思った。
──この二人は、本当に、なんて兄弟なんだ!
藍曦臣は餌を前にして苦行を強いられる動物のように、辟穀でも感じたことのない飢えで喉を唸らせた。
彼の笑みはもう浮かべられず、頬を僅かに赤くした男がそこにいた。