めざましウサギ(悠脹)カツン カツン カツン
磨き上げられた黒のハイヒールが鳴る。
しなやかな長い脚に這うように張り巡らされた、パツパツの網タイツ。
細くくびれた腰と豊かな逞しい胸筋の曲線を強調するような、ピッチリとした肩出しのボンデージスーツ。
血管の浮き出た筋肉質な手首に巻かれた白いカフス。
たくましく太い首を飾る安っぽい付け襟。
そして―――尻を彩るふさふさとしたまあるいしっぽと、頭の上に揺れる白く長いウサギの耳。
それが、このバニーボーイ・バーで働く脹相の制服だった。
脹相にはとにかく金が必要だった。
兄としてまだ独り立ちしていない八人の弟たちを養わなければならないのだ。とても昼間の肉体労働だけでは足りない、と悪友である真人に相談して勧められたのがこの店のバニーボーイバーの仕事だった。真人のニタニタとした笑顔が鼻についたが、その労働条件を聞いた脹相はその日のうちに真人と共にバーの門を叩いていた。背に腹は代えられぬ、というやつだった。
急な欠員が出て困っていたんだと喜ぶ店長は、営業スマイルなどというものを生来持ち合わせていない脹相を『顔が良い』という理由だけで即日採用した。脹相としても破格の給料、さらに客からのチップは直接懐に入れてもいい、などと言われてしまったら、更衣室で店長が笑顔で差し出した――この、やたらと布面積の少ない、意味不明で、なんとも馬鹿げた――ウサギを模した制服を、着ないという選択肢はなかった。
その日から、脹相はバニーボーイになったのだ。
ダークブラウンの調度品とワインレッドの絨毯、そして金色の照明でやたらに上品に作られた店内を、脹相と同じ恰好をしたバニーボーイがシャンパンボトルとグラスを乗せたトレーを手に歩き回っている。
脹相もそれに倣い、ハイヒールを鳴らしウサギ耳をぴょこぴょこと揺らしながら飲み物を運ぶ。白い肌は黒いボンデージスーツと網タイツに映え、二つに結われた深く黒い髪から飛び出す黒のウサギ耳はまるで本物の黒兎のよう。凛と背筋を伸ばして、しなやかで逞しいその彫刻のような体躯で店内を颯爽と歩く姿は多くの客の目線を奪う。脹相はこの店の中で一番美しいウサギだった。一抹たりとも笑顔を浮かべていない、という点を除けば。
笑顔以外の接客作法は、店長の熱心な教育の賜物だった。最初はどうにも慣れることが出来ずに何度も転げてしまい、接客の間ずっと額の汗と眉間のしわと舌打ちが止まらなかったハイヒールという難敵も、今やすっかり慣れて全力疾走だってできるようになった。それもこれも、『ハイヒールは脚に負担がかかっちゃうんだよ』と、弟の壊相が毎晩のようにヒール疲れの脚をマッサージしてくれるおかげだった。なんて兄想いの優しい弟だろうか。ありがとう、壊相。流石は俺の弟だ。脹相はハイヒールを履くたびに優しい弟の事を思いだした。
そう。弟のためならば何だってできる。俺はお兄ちゃんなのだから。
脹相はそうやって愛おしい弟たちの事を想うことで―――ときおり自分の脚や尻に触れてくるセクハラ客を殴りたくなる衝動を何とか抑えていた。『格式の高い紳士の社交場』という触れ込みで繁盛しているこの店は、確かに落ち着いた服装や雰囲気の客が多かった。だからと言って、こういった手合が全くいないわけではないのだ。わざわざこういったコンセプトの店を選んで〝社交〟とやらをしているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。正直相手にしたくはなかったが、店のルールには反していないしこれでチップが貰えるならば、と脹相はいつも不快さを隠そうともしない苦虫を嚙み潰したような顔でその〝紳士共〟に酒を注いでやっていた。
「あ、オニーサン!」
ふいに後ろから掛けられた快活な声に、空いたグラスをトレーに乗せていた脹相はゆっくり振り返る。
自分に声をかけたわけではないのではないか。あわよくばそうであれ。という期待を込めて。
だが、そこには薄桃色の髪の青年が、チョコレート色の目を真っすぐこちらに向けて立っていた。幼さの残るその瞳とスーツを着ていないところを見ると、面白半分でこの店にやってきた大学生、といったところだろうか。ほんの少し赤い頬に緊張と好奇心が見える。最近ではめずらしくない客だった。彼の後ろのテーブルでは、同じく若い黒髪の青年と茶色の髪の少女がやたらに真剣な面持ちでこちらをチラチラと覗いている。ああ、面倒なことになりそうだ。
「………オニーサンではない。ウサギちゃんだ。」
脹相は出そうになるため息を押し殺し、そのかわりに眉間に深くしわを寄せて店長の指導の通りにそう応える。何がウサギちゃんだ。俺はお兄ちゃんだぞ。非常に不本意ではあるが、これがこの店での設定だった。
「あ、そ、そーいうやつなん? えーっと、んじゃウサギ、さん―――」
一瞬きょとんとしていた青年が頬を掻きながらぎこちなく微笑むと、おもむろにごそごそとポケットをまさぐり始めた。
「これ、受け取ってくんねーかな」
青年が差し出していたのは丁寧に折りたたまれたお札だった。
脹相の目が光る。チップだ。しかも一万円札。
それにしても、やはりこの青年はこういう店には慣れていないのだろう。少なくともこの店では、チップはわざわざ席を立ってウェイターを呼び止めて受け取ってくれないかと丁寧に差し出すようなものではない。と言っても、それをこの青年に優しく教えてやるほど脹相は暇ではないし、そんなことをする義理も――そして、このチップを受け取らない理由もなかった。
だが、受け取るためにはやらなければならないことがあった。
脹相はまた一つため息を呑み込むと、青年がもじもじと差し出したままの一万円札を指さした。
「俺は、それには触れられない」
「へ?」
青年が不思議そうに首をかしげた。
そう、この店にはもうひとつくだらないルールがあるのだ。
『バニーは、お客様がその手を放すまで決してチップに触れてはいけない』
では、一体どうやってチップを受け取ればいいのか、というと……説明するよりも、見せた方が早いだろう。眉間のしわが深くなる。脹相は片手でトレーを持ったまま、青年の目線に合わせるように少し屈んだ。
ああ、本当に、全くもって―――馬鹿げたルールだ。
「………ここか」
脹相の指が首元の付け襟を指さす。
がっしりと下あごの下、汗ばんだ白く太い首筋にうすく紐の痕が付いている。
喉ぼとけをスルリとなぞった指先が少しずつ下に滑り、青年の目がそれを追う。
「ここか」
上目遣いで青年の反応をうかがいながら、ボンデージスーツと胸の膨らみの隙間に指をかけて広げる。
そのやわらかな曲線の奥。
ちらりと見えた淡い紅色の先端に青年の身体が硬直したのが分かった。
初心な反応に、少しだけ口角が上がる。
身体の上を踊るようにさらに下に滑っていく指先を、瞬きを忘れたように目線で追ってくる。
――次が最後だ、早く決めろ。
「ここ、に」
脚の、付け根。
ハイレグのようになったスーツが覆う鼠径部。
股の間からスーツの淵をなぞる様に指を滑らせて、腰骨のあたりまでなぞってから、ゆっくりと後ろを向いて白いしっぽを見せつける。
そのまま、網タイツが張り付く尻とスーツの隙間に指を差し入れてほんの少し浮かせると、後ろでごくりと息を呑む音が聞こえた。
そうか、ここが良いのか。じゃあ、さっさと、ここに。
「―――挿んでくれるか?」
「ぁ…え……と………」
青年は脹相の尻を凝視した状態で、顔を真っ赤にして固まってしまった。
一万円札を握りしめたままで。
「……ハァ………」
脹相はついに小さくため息をつく。
初心な子供を相手するのは酔っぱらいやボディタッチしてくる輩を相手するよりも格段に面倒だ。
まぁ、いい。チップは貰ったも同然だ。明日はこの金で兄弟みんなでピクニックにでも行こう。
「……おい、さっさと入れろ。俺は忙しいんだ」
せっかく尻のスーツをめくりあげてやっているのに、チップは一向に固まったままの青年の手から零れてこなかった。
焦れた脹相は苛立ちながら青年に向き直ると、ここが一番入れやすいだろうと、少し屈んで胸元の布地をめくって見せた。
やっとのことで青年の手から零れたチップが自分の胸の谷間に吸い込まれていくのを確かめていた脹相は気がつかなかった。
いつの間にか青年の瞳がギラギラとした獰猛な光を放ち始めていた事に。
そう。
この時、脹相は知る由もなかったのだ。
自分の何気ない行動が、眠れる虎の恋心を起こしてしまったことを。
そして、いつしか自分がその虎に――頭からまるごとペロリと食べられてしまうということを。
おしまい