不意を突きたい「少し待っていてくれ」
「ん、わかった。待ってるよ」
そう言って、部屋の主は扉の向こうへと消えていった。
洞天内、中央に聳える邸宅の一室。桃色と薄黄色が混じり合う空が、格子状の窓枠を通して見ることが出来る。太陽は沈もうとしているのか、上がっていこうとしているのかは分からない。夢の狭間のような蕩けた色合いは、現実と離れてしまったかのような錯覚に陥る。しかし手元の感触は確かにあって、椅子の木目の手触りや、座った時に僅かに軋む様子もちゃんとそこにある。ん、と軽く両腕を頭上へ伸ばす。遮られた陽が、腕を下ろすと再び眼を照らした。
昼下がりの真っ青な空の下、快い風が吹く日だった。良い茶葉が手に入ったから来ないか、と偶然道端で会った鍾離先生から言われた。その時俺は久々に璃月に来ていて、再会したのもしばらくぶりだった。長く一ヶ所に留まることは少ないし、積もる話もあるだろう。話すことはたくさんある。いいよ、と承諾すると、にこりと笑顔を返された。自身の背中に流した赤いスカーフがさらさらと風に揺られて、端っこについた装飾同士がぶつかる。その拍子に、きん、と細く、ちいさな音がした。
蝶番の動く音と、扉が開いた気配がする。鍾離先生、戻って来たかな。この洞天内に居るのは二人だけだ。ずいぶん待ったよ、と意識を自身の背後に向けかけたその時、首筋の付近を下から上へ、何かが鋭く横切った。風を感じるほどの速さ。途端、感覚が臨戦体制へと切り替わる。心を落ち着けている時でも、即座に感覚を研ぎ澄ませる訓練は、身体に染み付く程にしてきた。そうでなければ戦場では生きてゆけないし、こうして執行官の地位に居るわけもない。振り返ると同時に、片手に水元素で編んだ剣を手にする。武器を手に、いざ振り返ったその先には、赤黒い視界が広がっていた。長い舌がぬるりと蠢き、鋭い牙がずらりと並んでいる。粘ついた唾液が糸を引いて、牙の上下を細い銀色の糸のように繋いでいる。は、と半開きの俺の口から、呼吸し損ねた息が中途半端に這い出した。生暖かい呼気が顔に吹き付ける。湿気と温度を含んだ風に数度瞬く。この状況は何だ、そう頭が僅か数秒逡巡したのを押し除けて、身体が先に動く。座っている椅子の背もたれに片手を置いて、それを起点とし、勢いをつけて飛び退くように離れた。そのすぐ後に、ガチン、と硬質な音が鳴る。目の前に巨大な生き物の、閉じられた大きな口があった。あのまま座っていたら、今頃喰われていただろう、と想像には難くない。
『流石だな、公子殿』
頭の中で鳴るように、聞き慣れた声がする。低くもよく通る、穏やかな声。陽のような暖かさを持ちながら、芯の通った力強さも併せ持つ声。一体どこから喋っているのかと思ったが、まともに考えるのもなんだか馬鹿らしい。長い髭が、剣を持った俺の手の脇をするりと撫でるように通っていく。
「そいつはどうも。ところで鍾離先生、手合わせする気にでもなった?」
突き出していた顎を引っ込めて、巨大な龍らしき生き物は体勢を整える。焦茶色の鱗に、赤茶色の豊かなたてがみ、輝くような石珀色の鉱石を背中に生やしている。この室内では少し窮屈そうだ。まあ、人の大きさに合わせて作られた建築物だから、仕方がないのだが。床を傷つけないようにか、鋭い鉤爪をそっと置くようにし、数歩後ろに下がる。金色の瞳にぎろりと見下される。菱形の瞳孔は元の人型のままだった。
『いや?そういうつもりはない』
途端、部屋の殆どを占めていた体が、虚空に吸い込まれるかのようにしゅるりと消えた。え、と思わず声が出てくる。そうして、龍のような生き物がいた場所には、いつも通りの格好の鍾離先生が居る。
「手合わせ、しないの!?」
「ああ」
「しようよ!?」
「しないぞ」
しれっとした顔で、いつのまにか手にしていた茶器一式を運んでくる。微かな音を立てて、目の前の卓上にそれが置かれる。
「じゃあ、さっきのはなんだったんだよ」
手にしていた剣を霧散させ、荒っぽく椅子に座る。不機嫌さも隠さずに一瞥すると、ふむ、と片手を顎に添えて鍾離先生は考え込む。視線を逸らしていたかと思えば、ちらりとこちらを見て言う。
「公子殿の不意を突いてみたかったのだが」
「は?」
「まあそう簡単にはいかないな」
「何を考えてるんだ…」
心底わからない、とため息をつく。怒ってみたところで、あんまり効果が無いようだ。鍾離先生は何でもないような顔をして、杯へと茶を注ぐ。ふわりとまろやかな香りが辺りに広がって、毛羽だった心が優しく撫でられたような心地になる。
「……良い香りだね」
「そうだろう」
思わず褒めてしまってから、はっとした顔をしてしまう。柔く笑う、得意気な様子の先生の顔を見ていたら、納得できない気持ちと、なんだか、まあいいかという気持ちが混ざって、無下にはできなくて。注がれた杯を手に取って渋々と茶を飲んだら、甘くて優しい花の香りがした。
***
後日、偶然立ち寄った街の書店で暇つぶしに本を漁っていると、龍について書かれたものを見つけた。曰く、「身体ごと口に含んだ後そっと吐き出すことは愛情の意」という記述を目にして、先日のことが脳裏に蘇る。いやまさかな、と思い当たりはすれど、肯定も否定も確信が持てない。聞いたところではぐらかされるだろう。いや、もしかしたら?うんうん唸ったところで答えが出ない事は明白だ。そうして、まあ、思い違いだろうと結論づけて、この問いは胸の内に仕舞っておくこととした。ぱたんと本は閉じられた。
※XのTLで見た、「ハンガリー民話の竜は人の子への情愛を示すために、身体を丸ごと口に含んでそっと吐き出す」という呟きから考えた話でした。