はなれていても「しばらく遠征で家を空けるよ」
そう言うと、鍾離先生は持ち上げていた尻尾を少し垂らして、そうか、と短く答えた。
冬の間は通年を通して温暖な璃月でも、時折寒い日が存在する。段々とそれらが少なくなって和らいで、春の兆しがそろそろ見える頃だという時期のことだった。寒そうにしていた鍾離先生も、幾分暖かくなってきたこの時期であれば、一人でも大丈夫だろう。
先生の頭から生えた黄金色の角が、不思議といつもよりくすんで見える。頭を撫でたくなって、そっと手を伸ばすけれども、勘付いたのか伏せていた顔を持ち上げられた。大きな両目がじっとこちらを見る。
「いつかえってくるんだ?」
「うーん、ざっくりだけど、夏前には…かな。それも早ければの話だけど。詳しくは話せないな」
「それだけ分かればじゅうぶんだ」
任務の詳細は組織外には話せない。前に伝えてから、深掘りしてくる事はなかった。
鍾離先生はふむ、としばらく考え込む仕草をした後、思いついたように両眼をぱちりと瞬かせた。長いまつ毛が揺れる。
「少しまっていてくれ」
こちらの返答も待たずに踵を返すと、ぺたぺたと磨かれた床板を裸足で歩きながら、自室の扉を開ける。するりと橙色の柔らかな毛先を持つ、長い尻尾が部屋の向こうに吸い込まれてから、タルタリヤははあと息を吐いた。
旅人達と一緒に行った秘境で、タルタリヤを庇う形で遺跡の奥底へと落ちてしまった鍾離先生は、どういうわけか角と尻尾が生えた幼い姿でひょっこり戻ってきた。その後はもう大変だった。仙人達は慌てるし、往生堂にはどうにか休暇申請を出すも堂主に探られそうになるし、旅人達もずっとひと所には居られないから、なし崩し的にじゃあ璃月にいる間は俺が面倒みるよ、と言うと、よろしくたのむ、と少し舌足らずな喋り方で了承されて、そうして今に至る。
随分背丈が小さくなっていたので、精神年齢も幼くなったのかと思ったが、どうやら中身は元の六千歳以上の鍾離先生のままのようだった。けれど、身体の作りに引っ張られるのか、普段よりもやや幼い言動がたまに顔を覗かせる。さっきだってそうだ。僅かだけれど、いつもより寂しそうな様子だった、ような気がするのだ。
それでも一人で過ごしていくくらいの事はできるし、角や尻尾を引っ込めて、港を歩きまわる事もできる。モラの持ち合わせは変わらず無いので、支払いは俺が持っているが。
やがて、かちゃりと扉を開ける音がして、鍾離先生が戻ってきた。大事そうに、胸の前に掲げた両手には何かが包まれている。
「それは何?」
聞かれて、ぱっと花開くように指を解いて現れたのは、ころりと丸みのある石珀だった。つやつやとしていて、飴玉のようにも見える。
「これをおまえにわたそう」
「俺に?」
「お守りみたいなものだ」
稲妻の神社ではそういったものがあると、前に聞いた事がある。元とはいえ、神様から直々にお守りを渡されるとは。とんでもない加護がついているのでは?と思いながらも、せっかく差し出されたものを受け取らないわけにもいかない。
「ありがとう。貰っておくよ」
摘みあげると、小さな石珀は部屋に差し込むわずかな光を捉え、ささやかに輝く。橙を帯びた黄色は半透明で、石の向こうの景色をきらりと透かしてみせた。
***
幾つもの任務を終えて、自室としている宿の部屋へと戻ってくる。月の光が差し込む、青黒い室内に誂えられたベッドに倒れ込む。ふかふかな感触が身体を包んで、異国の匂いが漂う。嗅ぎ慣れなさから、不意に璃月の鍾離先生の家のベッドを思い出した。先生が拘りを持って揃えた家具だったので、一級品のものが並んでいた。あれの寝心地はやはり良くて、不覚にもぐっすり眠ってしまった事もある。そうやってとりとめのない考えを始めていると気付き、無為に時間を浪費するのは嫌だったので、さっさと寝支度をし、明日に備える事にする。手早く諸々のことを済ませると、布団をかぶって瞼を閉じる。
璃月での日々をつい思い出した影響か、寝る時にいつも脇にいた小さな体温がないことに、ほんとうに少しだけ、物足りない気がしてしまった。振り払うように頭を振る。そういえば元気にしているかな、と室内を眺めて考えたところで、側の机の上で、何か橙色の光が灯っている事に気がついた。はて、光るものなんて置いてあっただろうか?身を起こして近寄ると、光っていたのはあの日鍾離先生から貰った、小さな石珀だった。生きているかのように、ゆっくりと明滅を繰り返している。手に取ると、じんわりと暖かい。受け取った時はこんな風ではなかったはず、と首を傾げていると、微かに人の声が聞こえてくる。
最初は廊下に人でもいるのかと思ったが、音の出所は扉の向こうではない。それは手元から。どういうことだと、半信半疑のまま手のひらの上の石珀に耳を近づけると、聞き覚えのある声がした。
「きこえるか、こうしどの?」
「鍾離先生!?」
「ああ」
久しぶりに聞いた声は、静かなようでいて、実のところ嬉しさが滲んでいた。
「これ、どういうこと」
「こうしどのにわたした石珀と、おれがもっている石珀をきょうめいさせて、とおくでも話ができるようにしたんだ。うまくいってよかった」
「わざわざそんな事をしていたとはね…全く気が付かなかったよ」
わざとらしく肩をすくめてみせると、ふふ、と鍾離先生は笑った。
「これで、はなれていてもさみしくないだろう?」
そう言われて思わず、は、と息をのんで驚いてしまった。ややあって、どっちがだよ、と大きな声を出して笑う。鍾離先生も笑っている。橙色の光が手のひらをじんわりと染めているのを見ていると、どうにもくすぐったい気持ちになってしまって。むず痒い心地をどうにかしたくなって、俺は小さな石珀の表面を撫でてやった。