シーグラス「あ、あった!」
波打ち際の海藻が集まっている中に、緑色のガラス片を一つ見つける。角が取れて丸くなった曇りガラスののようなそれは、シーグラスと呼ばれるものだ。
緑色はシーグラスとしてはありふれたものだが、京楽にとってはどんな色よりも輝いて見えた。それはきっと、あの子の瞳と同じ色だからだろう。
もっと無いかと探していると、赤色のものも見つかる。これは滅多に無い色で、これはこれで拾い物だ。
京楽は見つけたシーグラスを握りしめ、近くにある森へと向かって走った。
迷うことなく森の奥へと進んでいくと、視界が開け、こじんまりとした日本家屋が現れる。その縁側には、花柄で水浅葱の着物を着た子どもが座っていた。
「■■■!」
京楽がその子に声をかけて手を降ると、パッと顔を明るくして「春水!」と手を振り返してくれた。
「今日は起きてて大丈夫なの?」
「うん。今日は体調いいからね」
■■は、この街で初めてできた友だちだった。京楽は元々夏休みのため、父親が所有する別荘に来ていた。しかし特に家族が構ってくれるわけでもなく、退屈しのぎに森の中を散策していたら、たまたまこの家の前に立っていた■■を見かけたのが出逢いだった。
■■は病弱なため、家族と離れて祖父母と一緒にこの家に住んでいるのだという。病弱なので街にも殆ど出たことがないらしい。そのため、■■は京楽の話を物珍しそうに聞いていた。
「ヤバッ。もう帰らないと」
外を見ると、日が傾き始めていた。
「……もっと春水の話聞きたかったな」
残念そうに言う■■を見て、思わず頬が緩む。こんな風に言ってくれる友人は初めてだった。
「また明日来るよ!絶対!」
「本当!?約束だよ!」
■■の小指と自分の小指を結び、約束を交わす。それから名残惜しさを感じながらその場を離れた。
それから毎日のように■■の元を訪れた。祖父母がいる時はお茶とお菓子を出してくれ、それを堪能しながら日が暮れるまで話し込むのが日課になっていた。
昨日シーグラスを集めているのだという話をしたら■■が興味を持ったため、わざわざ浜辺で探していたのだ。
「ほら、これがシーグラスだよ」
「わあ!綺麗!!」
シーグラスと同じくらいキラキラとした瞳でそれを見つめる■■を見て、胸が温かくなる。
「それ、■■■の目の色みたいで綺麗だよね」
「そう?」
「うん」
■■は照れくさそうにはにかみ、「そっかあ」と言った。
「体弱くなかったら、春水とシーグラス見つけに行けたのに」
少し寂しげな表情をする■■だったが、すぐに笑顔になる。
「でも、春水がたくさん話してくれるから楽しいよ」
「ボクも、■■■と話してる時が一番楽しいよ」
「……ありがとう」
はにかんで言う■■の顔は夕焼け色に染まっていて、とても美しかった。
「シーグラス、欲しいのあげるよ」
帰り際、■■にそう提案してみた。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、これちょうだい」
■■はそう言って、緑色のものを手に取る。
「それでいいの?赤色のやつの方が珍しいやつだけど……何ならどっちもあげるよ」
「ううん、これがいいの」
■■は手に取ったものを大事そうに胸に抱く。
「だって、春水が同じ色で綺麗って行ってくれたから」
恥ずかしげに目を伏せる■■に、京楽は自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
「ま、またね!」
「うん。また明日」
■■と別れてからも顔の熱が引かない。心臓がバクバク鳴っている。この感情が何なのか分からなかったが、嫌な感じはしなかった。
次の日、「帰る支度をしろ」と突然親から告げられた。
「何で」
まだ1週間はこの別荘に滞在予定のはずだ。
「お父さんの仕事の都合なの」
母は申し訳なさそうにそう言った。
子どもの京楽にはどうすることもできず、渋々帰り支度をした。
車に乗っていると、森が見えてくる。■■は今日も森の奥で京楽のことを待ってくれているのだろうか。
(……■■■に嘘ついちゃった)
明日も会おうと約束したのに。
「……そんなこともあったなあ」
何十年ぶりに訪れた別荘の整理をしながら、京楽は一人呟いた。
大人になった京楽は作家になっていた。純文学を書いていたが、最近スランプに陥っていたため、思いきって環境を変えようと、今は誰も使わない別荘を仕事場とすることにしたのだ。
森の奥にいたあの子への感情は、淡い恋心だったのだろう。しかし、初恋はいつかと聞かれれば間違いなくあの時だと答えられるほどには特別な感情だった。
「あの子の名前、何だっけ」
たった10日のことだったが、毎日のように会って濃密な時間を共に過ごしたにも関わらず、名前だけが靄のようなものがかかって思い出せない。それはもしかしたら、約束を破ってしまった負い目から知らず知らずのうちに遠ざけてしまっていったのかもしれない。現に京楽はその後、この別荘を訪れてもあの子に会うことを避けてしまっていた。
今更とはいえそのことを謝りたいのもあって、別荘に着いてから記憶を頼りに森の中を歩いたが、小さな日本家屋は見つからなかった。手がかりがゼロになり、京楽はガックリと肩を落とした。当たり前だ。何十年も経っているのにまだいるだろうと期待することの方がおかしいのだ。
別荘の掃除をしながら他に手がかりになりそうなことを思い出そうとするが、シーグラスのような緑色の瞳と、夕陽に映える真っ白な髪という珍しい容姿であったことしか思い出せない。それは十分な手がかりとなりそうで、その実、どこにいるかを示すものではなかった。
近所に聞き込みにでも行けばよいのかもしれないが、不審者と間違われる可能性もあるため、想い人探しは断念せざるを得なかった。
荷物の整理などに一区切りつけ、昼食を取ろうと街へ出る。
街中を歩いていると、一軒の喫茶店が目に入り、何となくそこに入ってみることにした。
「いらっしゃいませ!1名様でしょうか?」
溌剌とした女性店員が出迎えてくれ、店の奥の窓際の席に案内される。店内は昼時のため、それなりに込み合っていた。
「清音ちゃん。コーヒーおかわりちょうだい」
京楽を案内した女性店員が他の客に呼び止められる。店の雰囲気から察するに、地元の常連が多いのだろう。
「はーい!マスター、ブレンド1つお願いします!」
清音と呼ばれた女性が厨房に向かって声をかけると、そこから一人の男性が出てくる。
(……え?)
京楽はその男性に目を奪われる。
年頃は京楽と同じぐらいだろうか。背は京楽よりも少し低めだが長身で、長めの髪を項の辺りで1つに束ねている。それだけでも十分目立つだろうが、何より京楽の目を引いたのはその髪色だ。それは探し人と同じような綺麗な白髪だった。
注文の入ったコーヒーを入れているその男性を呆然と見つめていると、彼がふと京楽の方に目をやった。緑色の瞳がこちらを見つめている。目が合うとにっこりと微笑まれたため、慌てて軽く会釈をする。
(まさか、あの子の身内?)
あの子は確か女の子だったはずだ。少なくとも、記憶にある中では女物の着物を着ていたし、あの子の祖父母も女の子として接していたはずだ。そのため、男性と同一人物ではないだろう。年も京楽と近そうだということは、兄か弟なのだろうか。
暫しの間混乱していると、男性の方から近づいてきて、「ご注文お決まりですか?」と声をかけられた。どうやら注文をしたがっているように見えていたらしい。
「あ、ああ。サンドウィッチとブレンドコーヒーでお願いします」
まさかただ目を奪われていただけだとは言えず、京楽は慌ててメニュー表から目についたものを注文した。
「かしこまりました」
男性は再びにっこり笑ってメニュー表を下げると、踵を返して厨房に戻っていった。
それからは料理が来るまでの間、ずっと先程の男性のことを考え続けた。あのような容姿の人物はそうはいない。ましてやこの街で同じ髪と目の色で赤の他人である確率などゼロに等しい。
しかし、いくら考えても答えが出るはずもなく、やがて運ばれてきたサンドウィッチを食べ始めた。
食べ終わってコーヒーを飲みながらも考え続けるが、やはり結論は出なかった。
「お客さん、最近引っ越して来られたんですか?」
会計の際に男性にそうきかれる。
「ええ、まあ」
「なら、よろしければ今後ともご贔屓に」
男性はそう言って、またにっこりと笑った。
(よく笑う人だな)
しかし、嫌いではない。どちらかと言えば好ましい部類だろう。同性である京楽でさえこうなのだ。異性であれば尚のこと好感を持つに違いない。
(ああ、そうか。笑い方も似てるんだ)
京楽は彼に対する好ましさをようやく理解した。
あの子もよく笑う子だった。そして、その笑顔がとても可愛かったのだ。
幼少期の淡い恋心が蘇ってくる。本人ではなく、彼女の面影を持った人物を前にして思い出すというのも皮肉な話ではあるが、会えないと思っていた初恋の相手に会えたような気分になって嬉しかった。
翌日。食材を買うために商店街へ行くと、八百屋の前に昨日の喫茶店のマスターの姿を見つけた。
「あ、おはようございます」
覚えてないだろうと思いつつも挨拶をすると、昨日と変わらずにこやかに会釈された。
「おはようございます。昨日はお店に来ていただきありがとうございました」
「……店の買い出しとかですか?」
「いえ、これは自宅用です」
それにしても買ったものが少なめだと思ったが、もしかしたら浮竹も独身なのかもしれない。
「そういえば、引っ越してきたばかりだって言ってましたよね?よかったらここら辺、案内しましょうか?」
「え、いいんですか?」
子どもの頃に遊びに来ていたとはいえ街のことなど殆ど知らない京楽にとっては、マスターの提案は非常に助かるものだった。
彼と並び、案内を受けながら街中を歩く。
彼の名前は浮竹十四郎と言い、子どもの頃からこの街に住んでいるのだという。一緒に歩いていると、よく声をかけられた。どうやら浮竹は顔が広いらしく、中には彼の店の常連もいた。
話しているうちにお互い同い年だということが判明し、いつの間にか友人相手のような話し方になっていた。今は公園のベンチに座り、プライベートの話へと話題が移っていた。
「京楽はあの別荘に住んでるのか。金持ちなんだな」
「いや、あれは元々親の持ち物で、ボクが買ったわけじゃないよ」
「でも、作家なんだろ?」
作家が皆売れているわけではないのだが。とはいえ京楽の作品自体はそれなりな知名度と売上があるため、京楽自身が金持ちではないと言えば嘘になる。
「……そういえば、浮竹はお姉さんか妹さんはいる?」
「妹なら2人いるが……何だ?やけに限定的だな?」
ずっと気になっていたことを口にすると、訝しげな表情をされた。
「いや、ちょっと子どもの頃にあの森で、キミと同じ髪と目の色の女の子に会ったことがあって。少しの間だけだったけど、いろいろ話したりして楽しかったんだ」
遠くに見える森を指差すと、浮竹は驚いたように目を見開いた。
「……森で、俺と同じ髪と目の色の女の子に会ったんだな?」
「え、うん」
「服装は?」
「えっと、確か水色っぽい色で花柄の着物かな?」
心当たりがあるのか、浮竹はやけに突っ込んだ質問をしてきた。
「京楽は、今でもその子に会いたいのか?」
「会いたいっていうか、謝りたいんだ。次の日も会うって約束したのに、親の都合とはいえ何も言わずに会えないまま帰っちゃったのが、今でも心残りで」
「そうか……でも、恨んではいない――と思うぞ」
「え?」
「お前はその子に外の世界を教えてくれた相手だ。突然会えなくなったのは悲しかったけども、それでもいろいろなことを話してくれたお前には感謝してる――と思う」
やはりあれは浮竹の妹だったのだろうか。彼の話の端々からは、実際に本人に聞かなければわからないような内容であることが感じ取れる。
「……お前はその子に直接謝りたいか?」
「できればそうしたいけど……でも何十年も前のことだし、それに本人の意志もあるし」
そもそも彼女だって覚えていないかもしれないのだ。浮竹は覚えていたが、本人が忘れているのなら、わざわざ思い出させることでもない。結局は、京楽が長年の罪悪感から解放されたいだけなのだ。
「だから、もし妹さんが当時のことについて覚えてたなら、浮竹からボクが謝りたいって思ってたこと、伝えてもらえるだけでありがたいよ」
京楽の言葉に浮竹は安堵したかのようにホッと息を吐いた。
「……まあ妹はもう結婚してるから、その方がいいかもな」
「そう、なんだ」
既婚女性が現在親しいとも言えない独身男性と会うのは、確かにあまり好ましくない。しかしそれよりも、京楽は彼女が結婚しているという方にショックを受けていた。
(初恋は実らないって言うけども)
京楽も今まで誰かと付き合ったことがないわけではない。しかし、いつも長続きしなかった。
一度、担当編集に「先生の作品に出てくる女性は、誰か特定のモデルがいるんですか?」ときかれたことがある。その時は「別にいないよ」と答えたが、読み返してみると、成程あの子の面影を持たせて成長させたような女性が多いことに気づいた。
無意識のうちに思い出のあの子を求めていたからだということを自覚した時、恋人を作るのを止めていた。彼女たちはあの子の身代わりではないのだ。
結婚という言葉を聞いた時、結局京楽だけが当時に囚われているのだと再認識させられた気分だった。自分は世界という名の海を、ただ宛てもなく漂っているだけだ。シーグラスのように何年もかけて変化していき、いつかどこかへ辿り着くわけでもない。
スランプの原因も、作品のマンネリ化を実感していたからが大きい。いい加減、変わる時なのかもしれない。浮竹との出逢いは、そういった意味ではいいきっかけになるだろう。
「大丈夫か?」
黙ってしまった京楽を、浮竹が心配そうに見つめていた。
「うん。何かキミのおかげで吹っ切れたよ」
京楽の言葉に、一瞬浮竹の瞳が寂しげに揺らいだ気がした。しかしそれも一瞬のことで、もういつもの笑みに戻っていた。
「そうか。それならよかった」
浮竹は京楽の周りにはあまりいなかったタイプだ。だからこそ彼との出逢いはきっと、新たな創作への糧となる――そんな気がした。
京楽はそれから定休日以外は毎日のように、浮竹の経営する喫茶店に通うようになった。
新しい自宅は一人で暮らすには広すぎて、どこか寂しさを覚える。しかし、店に行けば浮竹がいる。彼の淹れるコーヒーもある。この店が京楽にとって憩いの場となっていることは、言わずとも明らかだった。
店の一番奥の窓際の席――初めて訪れた時に案内されたその場所が、京楽の指定席となっていた。ここなら執筆をしていてもあまり目立たず、尚且つ浮竹がコーヒーを淹れる様子もよく見える。京楽は彼のコーヒーを淹れる所作が何となく好きだった。派手なわけではないが、目を引かれてしまう。
最初は思い出のあの子に似ているから気になっていたはずだ。しかし、いつしか浮竹そのものに惹かれ始めていることに、京楽はまだ気づいていなかった。
「最近調子良さそうだな」
客のいなくなった店内で、浮竹がカウンター越しに話しかけてきた。
「そう?」
「ああ。最初にお前がここに来た時は、何か悩んでそうだったからな」
その時は人探しの手がかりが無く、途方に暮れていたからだろう。
「ボクの調子が良くなったのは、キミのおかげだよ」
「俺の?」
「うん。だって、浮竹の出す空気って、何だか落ち着くんだよね。こうやって話してて、すごく居心地がいいんだ」
「……よくそういうことを、恥ずかしげも無く言えるな」
浮竹は呆れたように溜息をついたが、その頬は僅かに紅潮しているように見えた。
「そういう浮竹は、何か悩みでもあるの?」
以前の浮竹は笑顔が印象的だったが、最近は仕事が無い時は少し思案顔をすることが増えた気がする。
「ああ、少しな」
「ボクが力になれること?」
「どうだろうな」
「話せることなら話してみてよ。案外、話して解決するかもしれないし」
浮竹は顎に手をやり迷うような素振りを見せたが、ぽつりぽつりと話始めた。
「今住んでるアパートがだいぶ老朽化してて、そこを取り壊して新しい物件を建てるらしいんだ。それはまだ大分先の話なんだが、これを期に引っ越そうと思ってな……けど、なかなか次に住む場所が決まらなくてな」
店からあまり離れていない場所にある物件は立地もよいため、今は部屋の空きが無いらしい。
「この店から近ければいいの?」
「そうだな」
「なら、うちに来る?」
「え?」
浮竹は驚いた顔で京楽を見た。
「ボクの家ここから近いし、もしよかったらうちに来ない?」
京楽の提案に、浮竹は戸惑った表情を浮かべた。確かに突然こんなことを言われても困ってしまうかもしれない。
「急にこんなこと言われても迷惑だよね」
「いや、それはありがたいが……逆に俺が世話になる方が迷惑じゃないのか?」
「全然。一戸建ては一人暮らしには正直広すぎてね。むしろ来てくれるとありがたい」
「しかし」
「一人だと結構寂しいんだよ。ボクを助けると思ってさ」
京楽の真剣な眼差しに、浮竹は根負けしたかのように苦笑いをした。
「わかった。それじゃあ、お言葉に甘えるとしようか」
浮竹の言葉に、京楽は思わずガッツポーズをしそうになり、ふと我に返る。
(あれ?ボクってなんでこんなに浮竹に固執してるんだ?)
今まで恋人を作るも長続きしない理由も、全てあの子の面影を探していたからだ。あの子以外に、本当に心を動かされることがなかったから。
それなのに、今は彼の所作を気にしたり、彼の言葉に喜んでしまったりする。
「どうかしたか?」
浮竹が不思議そうに首を傾げる。
「何でもないよ」
友人相手にここまで踏み込もうとしたことは今までなかった。にもかかわらず、先程は多少強引に浮竹を誘っていた。
(友人の範囲……だよね?)
なぜここまで彼に対して何かしてあげたいと思うのか。京楽は自分の気持ちがよくわからなくなっていた。
それから1ヶ月後、浮竹は京楽の自宅へと引っ越してきた。
「何か、別荘って感じだな」
京楽の自宅を見て、浮竹は率直な感想をもらした。
大きさは普通の住宅とさほど変わらないが、庭が広く、家自体も白い壁に青い屋根という洒落たものだ。その辺りが別荘らしいと言いたいのだろう。
「立ち話も何だし、まあ上がってよ」
浮竹の感想に苦笑しながら、京楽は浮竹を促した。
「お邪魔します」
車から下ろしたダンボール箱を抱えながら、浮竹は玄関をくぐった。
京楽も荷物運びを手伝いながら、彼を二階の一室へと案内する。そこはこの家で一番陽当たりのよい部屋であった。
「ここ使って。陽当たりも良いし風通しも良いし、眺めも最高だから……って、眺めは地元の人にはあまり関係ないか」
京楽の言う通り、窓からは海が見える。波が穏やかで、遠くまで見渡せた。
「ああ、ありがとう」
浮竹は窓辺に立ち、眩しげに目を細めた。
それから2人で手分けをして荷ほどきを始めることにした。京楽は浮竹に荷物を収納していると、ダンボール箱の底から一冊のアルバムが出てきた。
「浮竹、このアルバムは――」
「それは駄目だ!」
普段の彼からは想像もつかないほどに荒げた声に、思わず手が止まる。
「あ……すまない。それは俺が仕舞うから」
浮竹はばつが悪そうに視線を逸らしながら、京楽の手からアルバムを取り上げた。その様子はどこか必死で、彼がなぜこんなにも取り乱してしまったのかはわからないが、触れられたくないのだろうということは察せられた。
「わかった。じゃあボクはこっちの方を片付けるよ」
京楽が別のダンボール箱を開け始めると、浮竹はほっとしたように息をつき、作業を再開した。
浮竹と一緒に暮らし始め、彼についていろいろわかったことがある。
まず、朝が早い。店の開店が7時半のため、6時過ぎには既に家におらず、京楽の分の朝食だけが冷蔵庫に用意されていた。
意外だったのは、プライベートではかなり雑なことだろうか。仕事は丁寧に行っている印象だったが、個人では「まあいいか」と大雑把に済ませてしまうところがあり、そんな意外性が少し可愛いと思う。
そう――浮竹は可愛いのだ。それが一番の驚きだった。顔の造形や身長などはしっかりとしていて男性的なのだが、時折見せる子供っぽい表情や無邪気な行動は、とても可愛らしい。特に、京楽が何か話す度に嬉しそうに笑う姿は、見ているこちらの心までも温かくしてくれる。
(……随分と浮竹にほだされちゃったな)
大の男を可愛いと思うなんて、自分でもどうかしているとは思うが、それでも浮竹のことを可愛いと思ってしまう。何故なのかと考えれば、やはり思い出のあの子と面影を重ね合わせてしまうからだろう。
一緒に暮らすようになって気づいたことがもう一つある。それは、彼は自分のことをあまり語らないということだ。元々の性格なのか、それとも京楽に遠慮しているのかはわからないが、浮竹は自分のことをほとんど口にしなかった。それが何となく彼との距離を感じ、寂しく思う時があった。
しかし、それを無理に聞き出そうとしても、きっと答えてはくれないだろう。だから京楽はそれ以上何も聞かなかった。
脱衣場にバスタオルが無いことに気づく。入浴中の浮竹が困るだろうと思い、バスタオルを持って脱衣場のドアを開けると、浮竹がワイシャツを脱ぎかけているところだった。
「あっ」
ボタンの外されたシャツの合間からは銀色のチェーンが覗いており、チェーンの先には緑色の石のようなものが繋がれていた。しかしそれが何なのかを判別する暇も無く、浮竹はサッと京楽に背を向けてしまった。その行動はまるで、京楽からネックレスを隠したかったように見えた。
「ごめんよ。てっきりもう風呂に入ったのかと思って」
そう言いながらバスタオルを棚に置く。
「いや……いいんだ。ありがとう」
浮竹の声には、先程のような動揺は見られない。
「それじゃあ、ボクはリビングにいるからね。ゆっくり入っておいで」
リビングに戻るとソファに座り込み、先程の浮竹の行動について考える。
浮竹はそもそもアクセサリーの類いを付けることがない。それなのにネックレスをしていたという事は、それはよっぽど大事なものだということだ。そして、今になって考えてみれば、あの時の浮竹の顔は、京楽に対して後ろめたい何かを抱えているような、そんな顔をしていた。
最初はネックレスは恋人からのプレゼントなのかとも思ったが、それならば浮竹が友人である京楽に後ろめたさを感じる必要はない。大事なものと言えば家族からのプレゼントや形見なども思いつくが、それについても同様に後ろめたさを感じる理由がない。
(緑色の石のようなものといえば、あの子にあげたシーグラスを思い出すけど)
シーグラスを加工すればアクセサリーにできることは京楽も知っている。しかし、あくまで京楽がそれを渡した相手は浮竹ではなく彼の妹のはずだ。そのため、彼があのシーグラスを持っているはずがないのだ。
そこまで考えたところで、京楽はある可能性に行き着いた。
(まさか……ねえ?)
もし本当にあれがあの時のシーグラスなのだとしたら、思い出のあの子は妹ではなく浮竹自身なのではないか――そんな馬鹿げた可能性が脳内に閃いた。
しかし、いくらなんでもそんなことはないはずだ。あの子は女の子で、浮竹はまごうことなき男性なのだから。でももしそうだとしたら――
(そうだとして、何になるんだ?)
そう自分に問いかける。
初恋の少女が実は男で、しかもその男が事実を隠して友人として振る舞っているのではないかという、疑惑程度の可能性にショックを受けている自分がいた。
しかし、もし嘘を吐かれていたからといって、一体どうするというのだろう。京楽にとって浮竹は大切な友人であり、それ以上でもそれ以下でもない。嘘を吐いたのだって、きっと何か理由があるはずだ。浮竹の性格上、悪意があって他人を騙すとは思えない。
どれもあくまで推測の域を出ないため、事実確認は浮竹に直接きくしかない。しかし、推測が事実だとして、今まで彼がひた隠しにしてきたことを暴いてしまうようなことは、できれば避けたかった。
浮竹は大切な友人だ。その友人を傷つけたくはない――それは当たり前の感情のはずだった。しかし、本当にそうなのだろうか。自分の感情は果たして友人に向ける範疇のものだと言えるのだろうか。
相手の言葉や表情にここまで心を動かされることも、相手が喜ぶことをしてあげたいし悲しませるようなことは絶対にしたくないと強く思うことも、今までの友人相手にはあり得ないことだった。それなのに浮竹に対してはそれが自然と出来てしまっていることに、京楽は戸惑っていた。
(これは、友情なのか?それとも……)
「京楽、あがったぞ」
名前を呼ばれ、思考を中断される。
後ろを振り返ると、濡れ髪のまま浮竹がリビングの入り口に立っていた。
京楽はそれを見て立ち上がりドライヤーを手に取ると、「ほら、座って」と浮竹をソファに座らせる。
浮竹の後ろに回り、ドライヤーのスイッチを入れる。温風を当てながら浮竹の長い髪を乾かす。
浮竹は特別ヘアケアをしていないようなのだが、彼の髪の毛は見た目よりも柔らかく触り心地が良い。
浮竹は髪を乾かすのも大雑把なため、見かねた京楽が彼に代わって乾かすことにしたのがきっかけだったが、今ではすっかり習慣化していた。最初こそ遠慮していた浮竹も、今ではすっかり京楽に任せるようになっていた。
ふと浮竹の項が目に入る。そこはいつもより赤みがかっており、風呂上がりであることを示していた。それが何だか無性に色っぽく見え、思わずゴクリと唾を飲み込む。
「ん……っ」
浮竹が小さく声をあげる。その声で我に返ると、自分の手が彼の項に触れていることに気がついた。
「ご、ごめん!」
慌てて手を引っ込める。
「いや、大丈夫だ」
浮竹は笑って言ったが、耳まで真っ赤になっていた。そんな様子の浮竹を見て、欲望がムクリと鎌首をもたげる。
まだ触れてみたい。もっと彼の体温を感じたくて仕方ない。もっともっと彼の奥深くに潜り込んで、その全てを味わい尽くしたい――そんな衝動が腹の底から湧き上がってくる。
(ああ、これは駄目だ)
浮竹に性的な感情を抱くなんて。これはどう考えても友人の範疇を越えている。
頭を振って邪念を追い払おうとするが、余計に意識してしまう。
京楽の感情など知らずに信頼しきっている浮竹に対し申し訳なく思いながら、京楽は手早く彼の髪を乾かすことしかできなかった。
「終わったよ」
そう言いながら浮竹から離れる。
「いつもすまないな」
「気にしないで。ボクが好きでやってることだから」
努めて明るく振る舞う。これ以上ここにいるのはまずい。
「じゃあ、ボクは風呂に入ってくるからね。おやすみ」
逃げるようにリビングを出る。
脱衣場に入り扉を閉め、そのままズルズルと座り込んだ。
「参ったね……どうもうまくいかないな」
先程までの己の行動を思い返し、自嘲気味に笑う。
あの時感じたのは紛れもない劣情だった。あの肌に触れたかった。あの熱を感じてみたいと思った。そして、できることなら自分だけのものにしてしまいたいとすら思ってしまった。
自分は今までそれなりにうまくやってきたつもりだった。過去の女性たちとも後腐れ無く、適度な距離感を保ちつつ付き合ってきた。それなのに、彼相手だとどうしても調子が狂ってしまう。
今まで経験したことのないような強い執着心が自分の中に渦巻いているのを感じる。
最初は浮竹が初恋の少女と似ていたから――もしかしたらその本人だからこんなにも気になっていたのだと思っていた。
しかし、当時のあの子に抱いていた淡い恋心とは似ても似つかないほどの激しい熱情は、それを否定する。
子供の頃の面影を追っているわけではない。今現在の彼自身が欲しい――彼への愛欲を自覚してしまえば、もう目を逸らすことはできなかった。
「……欲しいなあ」
伸ばした手は空を切る。
こんなにも近くにいるにも関わらず、友人だと思っていた時よりも彼の存在が酷く遠く感じられた。
玄関のチャイムが来客を告げる。モニターで確認すると、京楽よりは少し年下の女性が二人立っていた。初めて見る人たちだったが、何故だが既視感のある顔だ。
「はい」
『すみません。浮竹十四郎の妹ですけれど』
「……少々お待ちください」
モニターの通話を切ると、心を落ち着けようと深呼吸をする。
――浮竹の、妹。
浮竹は家族のことを話したがらなかったから、まさかこんな形で会うことになろうとは、思ってもみなかった。
女性たちはお互いによく似ていたし、言われてみれば確かに浮竹の面影がある。だとすれば、二人とも確かに彼の妹なのだろう。
あの二人のうちのどちらかが、京楽の初恋の相手なのだろうか。あるいはそのどちらでもなく、本当に浮竹自身だったのか。
前者ならばいい。妹は既婚だと浮竹も言っていたから京楽の入る余地などないし、浮竹に向ける感情を自覚した今、初恋に対しての未練もない。しかし、後者の場合、浮竹に自分の気持ちを伝えることは更に難しくなったと言える。事情はどうあれ、浮竹は京楽に対して嘘を吐いていたことになるからだ。たとえ京楽に対して恋愛感情があったとしても、彼の性格上、後ろめたさを感じて断られるのがオチだ。京楽としても罪悪感につけ入りたいわけではないので、できれば前者であってほしいと思う。
「すみません、お待たせしました」
玄関のドアを開けると、女性たちはダンボール箱を抱えて立っていた。
「はじめまして。京楽さん――でしたっけ?兄がいつもお世話になっています」
「いえ、こちらこそ彼にはとてもお世話になっています」
彼女たちはどちらも白髪でも緑色の瞳でもなかった。染めたりカラーコンタクトをすれば色は変えられるだろうが、パッと見た時の印象として、そのような感じは受けなかった。
「浮竹……お兄さんは今外出中でして、ご用件ならボクの方で伺いますが」
「そうなんですか?兄には今日来ることは伝えたのですが」
「ボクは聞いてないので、少し確認しますね。よろしければお上がりください。荷物も重いでしょう?」
そう言って家の中に招き入れると、「では、失礼いたします」「ありがとうございます」と言って二人は中に入った。
リビングに案内する。テーブルの上にはまだ何も出していなかったので、とりあえず紅茶を三人分用意した。それらを彼女たちに出すと、浮竹への連絡を試みる。
数コールの後に電話が繋がる。
「浮竹、妹さんたちが来てるよ」
『え?』
「君に会いに来たんだって」
『ああ、そうか……すまない、すっかり忘れていたよ。すぐ戻るから待っててくれるか?』
「わかった。じゃあ、また後で」
通話を終える。
「すみません、お待たせいたしまして。お兄さんはもうしばらくしたら戻ってくるとのことです」
「お手数おかけして、申し訳ございません」
「いえいえ、どうぞお気になさらずに」
それから暫くの間は当たり障りの話をしていたが、よせばいいのに、京楽はどうしても子ども頃のことを確かめずにはいられなくなっていた。
「お二人はよくこちらに来られんですか?」
「ええ。子どもの頃からたまに」
「祖父母の家があって、たまに遊びに来てたんですよ」
彼女たちの言葉により、徐々に核心に迫っていくのを感じた。
「……お兄さんもですか?」
「いいえ。兄だけは祖父母の家に住んでいたんです」
「……っ」
妹の返答に思わず息を飲む。
「兄は体が弱かったので、こちらで住んだ方がよいと両親も判断したみたいで」
さらに追い討ちをかけるような返答に、京楽は言葉を失った。
「……」
「あの……」
「はい?」
「私たち何か変なこと言いましたでしょうか」
「ああいや、何でもないですよ」
慌てて笑顔を取り繕うが、内心では酷く動揺していた。
――初恋のあの子は浮竹の妹ではなく、彼自身だった。
自ら真実を知りたいと望んでおきながら、いざ事実を突きつけられるとその衝撃は大きく、京楽は激しく後悔をした。浮竹が京楽に嘘を吐いていたことが明確になってしまったからだ。
彼はどんな気持ちで嘘を吐いた相手である京楽と友人付き合いをしていたのだろうか。そして、どんな気持ちで同居を続けているのだろうか。
京楽と一緒にいること自体が罪悪感を増長させる要因になっているのではないかと思うと、申し訳なさでいっぱいだった。
(やっぱり、知らない方がよかったな……)
だが、知ることを選択したのは己だ。今更無かったことにはできない。
「兄は今は体調を崩すこともめったにないとはわかってるんですが、今でも心配でこうやって様子を見に来てしまうんですよ」
「ですから、突然の訪問で本当に申し訳ありません」
妹たちは京楽の後悔など知らずに会話を続ける。
「どうぞ、お気になさらず」
「……京楽さんが優しい方で安心しました」
「え?」
「実は、突然『友人と同居することになった』って言い出した時は、本当に驚いたんですよ」
「そうそう。失礼だとは思うんですが、兄は何か弱みを握られてるのか騙されてるんじゃないかって思ってしまって」
実は弱みというか罪悪感を持たせてしまっています、とは思ったが、それを口に出して言うわけにもいかない。
「でも、こうやって話してみて、そうじゃないってわかって。それに、京楽さんのことを話す時、兄は凄く嬉しそうな声で話してくれたんですよ」
妹たちの言葉に、京楽は僅かばかり安堵した。少なくとも浮竹は自分といることが完全に苦痛だというわけでもなさそうだと思えた。
「ただいま」
いつの間にか帰ってきていたらしい浮竹がリビングに入って来た。
「おかえり」
「悪い、遅くなった……久しぶりだな、二人とも」
「うん、久しぶり」
「お母さんからまた野菜とか持ってけって言われたから、持ってきたよ」
そう言いながらダンボール箱を指さす妹を見て、浮竹は少し困ったように笑っていた。
「いつもわざわざありがとう。母さんも相変わらずだな」
「まあね。それより、体調は大丈夫?」
「お前たちも過保護だな」
「だって、子どもの頃はあんなに体弱くてしょっちゅう寝込んでたじゃない。兄さんがいつかいなくなっちゃうんじゃないかって、本当に心配だったんだから」
妹の言葉に、浮竹は「しまった」というような顔をした。京楽は既に浮竹が嘘を吐いていたことを知っていたが、彼はそのことを知らない。そのため、今の会話は京楽には聞かれたくはなかっただろう。
「何度も言ってるが、今は風邪だって全然引かないぐらいには丈夫になったから、心配するなって」
しかしすぐに取り繕うような笑顔を浮かべると、妹たちを宥めた。
仲の良い兄妹なんだということは、この短い時間だけでも十分に分かった。
「じゃあ、私たちはそろそろ帰るから」
「ああ。気をつけて帰れよ」
玄関先で別れを告げる。
「京楽さん、今日はお邪魔いたしました」
「いえ、あまりお構いもできずすみません」
「……兄のこと、よろしくお願いしますね」
浮竹に聞こえないようになのか、妹は小さな声で囁いた。
「え?」
どういう意味かわからず聞き返すと、彼女は小さく微笑んだ。
「初めて会った方にこのようなことを頼むのもどうかと思いますが、兄はあなたのことを随分気に入っているようですから」
「気に入ってる……ですか?」
「ええ、何となくわかります。兄はあまり人とは深く付き合わないんですが、京楽さんと同居していると聞いた時に、珍しいこともあるものだと思ったんです。だから、よっぽどあなたのことが好きなんでしょう」
妹は優しく微笑むと、「では、これで」と言って踵を返した。
二人が去った後も、暫くの間呆然とその場に佇んでいた。
(浮竹がボクのことが好き……?)
彼女の言葉が頭の中で反覆される。
(いや、普通に考えて友人としてってだけだ)
そしてそれはとても喜ばしいことのはずだ。だが、何故か素直に喜ぶことができない。
「京楽?」
不意に後ろから声をかけられ、思わず肩が跳ね上がる。
「どうした?」
「あ、うん。何でもないよ」
何でもないように取り繕うと、浮竹は「そうか」とだけ言って、神妙な面持ちになった。
「……話がある」
妹たちに浮かべていた穏やかな笑みではない。何かを決心したようなその顔つきに、京楽は嫌な予感を覚えた。