書きたいもの「おつかれさまでした、先生。データも不備なしです」
『臨海・未明』と題されたファイルを確認すると、満足気にノートパソコンをぱたんと閉じ、日暮は深澄に笑顔を向ける。わたわたと慌てている印象の強い彼女だが、仕事に対する熱量には目を見張るものがある。なにせ――
「データに不備がないならわざわざうちに来る必要もないのでは、と思わないでもないが」
「先生がちゃんと連絡くだされば、こうもはるばる様子を見に来ません。東京神戸間、安くないんですよっ」
東京の出版社から、わざわざこちらの支社に出張までして原稿の様子を見に来るくらいだ。
もう書けない、書かないと編集部に連絡をした次の日にはすっ飛んできて「早まってはいけません!」と大慌てで止められたのが一年弱前だ。深澄にとってはもともと弟の件に整理をつけるため、生活費のために惰性でやっていたにすぎない執筆活動だったのだ。そんなに大仰に止めてもらう価値はないと追い返したのだけれど、結果として日を改めては度々足を運ばれるようになり、結局原稿を渡すことになってしまった。
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