十年ふたりだったので 雨の降り止んだ空気がしっとりと重い昼下がりのことだった。深澄は、葵の事件報告を聞きながら食器を片付けているところだった。ちょうど葵も連日の捜査明けで半休をもらっていて、雨に降られたのを理由に昼食を共にしたのだ。
皿を洗う傍ら、葵がコーヒーを淹れる。そんな横顔を見ていて、ふいに言葉が口を衝いて出た。
「葵。僕ら、そろそろ結婚しないか」
こぽこぽとマグカップにコーヒーが溜まっていくのを眺めていた葵は、さして驚きもせずに「そうですね」と返した。
出会ってから十年あまり。互いの家で食事を摂ったり、時折葵を家に泊めたりするようになって数年も経つ。気がつけば、仕事仲間という名前では片付かなくなっていた。
お互い決まった人ができたなら祝福もしただろうが、ふたりともその手のことに疎い仕事人間だったらしい。
どうせこの先もともに事件に臨むのだろう。互いの両親も相応に老いてきている。法的に何ら関係のないままでは、いざというときにできないことも多い。
このプロポーズにはそのあたりをフォローする意図が半分程度を占めている。急な話ではなくて、深澄も葵も心のどこかで考えていたことなのだ。
コーヒーとともにソファへ戻る。深澄は角砂糖をひとつカップに沈めた。コーヒーに入れる砂糖が少なくなったのは何年前からだろう、と葵はぼんやり思った。
「両親への挨拶は後でもいいでしょう、いい歳ですし。役所への届出はいつにしますか?」
「ん、ん。近いうちがいいな。本籍はこっちに移してあるか?」
「はい。深澄さんは?」
「僕も移している。それなら話は早いな」
深澄はパソコンを立ち上げて、役所のホームページから婚姻届をダウンロードする。すぐにプリンターに転送して、葵との間に置いた。
すらすら。深澄のほっそりとした達筆が『夫になる人』の欄を埋めていく。葵は、深澄が父母の名前を書いていくのに、意外に呼び慣れた名であると気付いた。
す、とひと通り記入を終えた紙を渡される。葵も、同じように欄を埋めていった。
「同居も、したほうが便利ですよね」
「そうだな。出してから探してもいいだろ、更新は春だし」
「深澄さんは、事務所だけを継続して借りる形になりますか?」
「うん、事務所の移転は面倒だな」
『同居を始めたとき』の項目はいったん空欄にして、その旨を『その他』に書き留める。姓はどうしよう、と葵が顔を上げると、深澄は当然のように「僕が葵の姓を貰おう」と言った。
「僕のほうが仕事柄融通が効く。無論葵がよければ、だが」
「それは……助かります。では、そうさせてください」
海橋家には、後を継ぐのは深澄しかいないと聞いている。けれど、苗字を継ぐ相談もしなくていいのか、とは問わない。もともと深澄に結婚願望がないのは葵にも見てとれたことであり、それは彼の両親も承知の上だろう。
二人で書ける部分は埋めてしまって、あとは書類を揃えたり証人欄を記入してもらったりするだけだ。葵がクリアファイルにしまって、ひとまず戸棚の書類ケースに入れた。
あっさりしたものだ。けれど、一緒になってもいいとお互いに思うから、あっさりしているのだ。
コーヒーを飲んで、他愛もない会話を交わし、葵が帰路に着く。なんてことのない、いつもの光景だった。
◇
役所への提出は、次の月曜となった。
滞りなく済み、二人で連れ立って深澄の家へと向かう。このあとは、葵経由の依頼人から話を聞く予定があった。
「深澄さん、探偵の仕事上は海橋のままですか?」
「名刺が切れるまではとりあえず。そのあとは、城ヶ崎を名乗るつもりでいる」
「そうですか。……少し、不思議な感じですね」
もともと深澄さん、葵と呼び合っていたから、深澄の苗字が変わっても呼び名には特に変化はない。なのにこの人はもう『城ヶ崎深澄』なのだと思うと、落ち着かない気もする。
反して、深澄は「そうか?」となんてことなさそうに葵を見下ろした。
「僕は、一緒に生きていくなら葵がいいと思っていたから、今は落ち着くところに落ち着いたなと思ってる」
「え、……そ、れは初耳ですが。いつから?」
「いつ、と言われてもな……おそらく、透真のことに蹴りをつけたあたりから」
「それ、だいぶ前じゃないですか!」
十年以上も前だと言われて、さすがに葵も眩暈がした。この人は、十七年も弟の死に囚われていて、今度は十年も密かに想いを募らせていたらしい。辛抱強いにも程がある。
「あ、いや。葵にいい人ができるならそれでもよかったんだ。葵に恋をしていたわけではないし、どのみち葵が僕を頼りにしているのはわかっていたから」
「それでも、一緒に生きるなら、……私がいいと思っていたんですか」
「夫婦として連れ添うだけが一緒に生きるではないだろ。けれど、今はちゃんと嬉しい」
すこし浮き足だったような、言葉の通り幸せそうな顔をするから、葵の喉元まで出かかった言葉は胃に落ちていく。十年一緒に過ごしても、この人の知らないところはまだあるらしい。
「……私も、深澄さんがいいと思うから、承諾しています」
「うん、知ってる。葵はそういう機微に器用じゃないからな」
「それなら、いいです」
手でも繋いでみるか、と深澄が手を差し出してくる。本当に機嫌がいい。出会った当初は誰に触れられるのも嫌そうだったのに、葵が触れるのは嫌ではなくなっていたらしい。
年齢を重ねていまさら、とは思う。事務所に戻るまでに顔の赤みが引けばいいと願いながら、葵はその手を取った。