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    soda_xx_m

    @soda_xx_m

    類の雑記

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    soda_xx_m

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    深澄と日暮のはなし。『冬凪と凍星』のすぐあとくらい。

    書きたいもの「おつかれさまでした、先生。データも不備なしです」
     『臨海・未明』と題されたファイルを確認すると、満足気にノートパソコンをぱたんと閉じ、日暮は深澄に笑顔を向ける。わたわたと慌てている印象の強い彼女だが、仕事に対する熱量には目を見張るものがある。なにせ――
    「データに不備がないならわざわざうちに来る必要もないのでは、と思わないでもないが」
    「先生がちゃんと連絡くだされば、こうもはるばる様子を見に来ません。東京神戸間、安くないんですよっ」
     東京の出版社から、わざわざこちらの支社に出張までして原稿の様子を見に来るくらいだ。
     もう書けない、書かないと編集部に連絡をした次の日にはすっ飛んできて「早まってはいけません!」と大慌てで止められたのが一年弱前だ。深澄にとってはもともと弟の件に整理をつけるため、生活費のために惰性でやっていたにすぎない執筆活動だったのだ。そんなに大仰に止めてもらう価値はないと追い返したのだけれど、結果として日を改めては度々足を運ばれるようになり、結局原稿を渡すことになってしまった。
     日暮は来るたびにいかに読者が新作を待っているかを説き、知らないうちに葵まで味方につけて囲ってきたものだから、もともと抱いていた印象と違って面食らった。どこにそんな胆力を隠し持っていた?
    「でもウミユリ先生。今まではこちらの出版ペースが追いつかないくらい書いていたのに。一年弱も書けないなんて、ほんとうにスランプだったんですね」
    「言ったとおりだ。書く必要も書くべきものもなくなったから書けないと。……というか、まだ世に出ていない本のストックがあるならなおのことせっつくことなかったんじゃないか?」
    「しばらくお休みが欲しいと言ってくだされば快く受けましたけど、先生、書くのをやめると仰ったじゃありませんか。それは止めますよ、そういうとき、止めないと本当にもう二度と書けなくなってしまいますから」
    「それでいいと、言ったつもりだったんだが」
    「ダメだったんです。だって、書けたじゃないですか」
     それは結果論だ、と言ってやりたかったが、してやったりと微笑む日暮には毒気を抜かれる。
     日暮も葵も、「待っている読者がいる」と口を揃えて言った。待っているひとがいようがいまいが、己の書いてきたものを振り返ってこなかった深澄にとってはどちらでもよかった。娯楽に溢れた社会だ。数年もすればウミユリヒカルの名も著作も話題に上がらなくなると思っていた。
    「先生、デビューが二十歳のときでしょう。それから十五年も筆が止まらなかったこと自体不自然なんですよ、才能です。それで、十五年も書いて暮らしてきた人が書くのをやめて生きていけることも、不自然です」
    「それは編集者の願望なのではなく?」
    「これは小説家の習性です」
     日暮は、リビングの片隅に積まれた箱に目を向ける。引っ越しを間近に控えているから、その荷物だ。一番上の蓋があいている箱には、深澄の著作と――手紙が入っている。
     目敏い人である。作家としての深澄の気づかなくていいことばかり目に留める。話を振られて説明するのも言い訳じみていて気になるから、自分で話を振ることにした。深澄はよいしょ、と立ち上がると、その箱の中から何通か手に取って見せた。
    「俗に言うファンレターだよ、君が送って寄越した」
    「やっと読んでくれたんですか」
     やっと、というのも、言葉通りだった。
     深澄が小説家として生計を立ててからこれまで、読者を意識したことがなかった。特に二十歳過ぎの頃はもっと生き急いでいて、書いたもの吐き出したものを振り返る余裕もなければ、必要だとも思っていなかった。編集部から送られてくるファンレターは断り続けていて、いつの間にか渡されなくなったのだ。
     一応深澄に当てたものだからと編集部の倉庫の奥深くに保管されていたのを、担当になったばかりの日暮が見つけて全部送って寄越したのだ。
    「……一応、読んでくれる人がいるのもわかった。僕の書いたもので救われた、と思ってくれる人がいることも」
     深澄は、ただの紙切れには見えなくなったその色とりどりの封筒を指でなぞる。この向こうに、心を揺らしてくれた誰かがいる。
     書かなければ生きていけなかったのは、文字通り呼吸ができなくなると同義だった。弟に対する証明をするのに関わった事件は深澄には重たくて、苦しくて、とても持っていられなかった。深澄の書く、とは、吐く、だった。
     あるいは、弟にむけた手紙であったかもしれない。返事のない手紙だとわかっていたから、反応があると思えなかった。
     そのどちらもが必要なくなった今、書くべきものはない。
    「――書くべきものがないなら、書きたいものを書けばいいんですよ」
     もう書かないと追い返したあの日と同じ言葉を、なんてことのないように日暮は繰り返した。口に出したか、と思って日暮を見れば、ただにこやかに笑うだけだった。日暮は大きな丸眼鏡をぐっと上げて、少し胸を張る。
    「ウミユリ先生、もう書きたいものはつかんでいるみたいです。だって、今回のお話、よかったです。朝の海で、先生はもう出会ったんでしょう?」
    「……それ、葵には内緒にしてくれ。葵はたぶん、気づかないから」
    「ええ、私は『臨海・未明』の感想を言ったまでです」
     珍しく口が回る、と深澄は肩を落とす。よほど深澄が原稿を上げたことが嬉しいらしいが、気づいていないふりをしてくれるならそれでいい。
     まだ、形らしい形にはなっていない。書きたいもの、と自分に問うと、自分が驚くほど何も持たずにここまできたことに気付かされる。それでも残ったいくつかを数えると、それは大体、似たようなものになる。
    「内緒ついでに、もうひとつ。独り言なんだが。……多くの人を救いたいと言うんだよ。しかしひとが救えるものには限りがある。こぼれ落ちる前に支えるのは、まあ、本でもできないか、と思う」
    「では、これも独り言です。とても素敵です、愛と希望のおはなしみたい」
     目も合わせず、ただ口裏は合わせた独り言は、古ぼけたチャイムで遮られた。外には車が停まっているのが見えた。葵が来たのだろう。
     それでは、と日暮は手荷物をまとめてリビングを出ていく。玄関で少し世間話をしてから帰っていくのが聞こえた。
    「深澄さん、脱稿されたんですね。おつかれさまです。……お疲れのところ、申し訳ないのですが」
    「ああ、いいよ。今度はどんな依頼だ」
    「ありがとうございます。資料はこちらで」
     葵も葵で、年度末で忙しいだろうに。相変わらず手を抜かずに仕事をしているさまは、眩しい。仕事と夢が一緒だから、そう見えるのかもしれない。


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