ワインレッドの陥落■ワインレッドの陥落
故郷のハロウィンは「まんだかな」という行事と同義である。
子どもたちがお菓子をもらいに集落を回るこの行事はハロウィンが定着する前からあったので、時代を先取りしていたとも言えなくもない。
「まんだかな!」
元気な声と共に玄関がガラリと開き、栗色の髪の毛をした子どもが飛び込んできた。
子どもはオレの顔を見るなり、驚いたように大きな瞳を更に丸くさせた。
「ヒロ兄!!」
どん、と勢いよく胸元に飛び込んで来た子どもの頭を撫でる。久々に感じる温度に帰って来たのだと思う。
「ただいま、なる」
ぽすぽすと胸元にある頭を撫でると、なるは嬉しそうに笑った。
「おかえりヒロ兄!!」
えへへとなるは笑うと、くるりと後ろを振り返った。
「せんせー、ひな! ヒロ兄が帰って来ちょるぞ!」
「はぁ!? なんだって」
なるの呼び声にバタバタと足音がして、開けっ放しになっている玄関に人影が現れた。いつも通りの作務衣姿だが、手足が長いからパッと見は着こなしているように見える。けれどこの作務衣は去年から着ているもので、すっかりくたびれていることを浩志は知っている。
変わらない恋人の姿に自然と頬が緩む。一方半田は驚きと怒りの表情を顔に張り付けて浩志を見ている。
「お前なんでいるんだよ!」
「今年ハロウィンが休日にかぶるし、専門の創立記念日もあって連休になるから帰ってきた」
「聞いてないぞ!」
「言ってないもん。驚いた?」
「当たり前だろ!? なんでオレに言わねーんだよ…っ」
付き合ってるのに、と言う言葉はかろうじて飲み込んだのだろう。半田はぐっと下唇を噛み締めた。
半田の後ろからひなが顔を出し「ほんとだ、ヒロ兄だ!」と歓声を上げた。
「ひなも久しぶり。夏より大きくなったんじゃないか?」
泣きそうになっているひなに笑いかけると、笑顔で抱きついて来た。泣き虫の女の子だったひなも少しずつ成長している。いなかった分の月日が少しだけ寂しくなる。
少しも変わっていないのは半田だけだ、と浩志は思う。不満そうにこちらを見下ろしている顔はむくれている子どものようだ。
しかし半田がすごんだ所で、効果が今ひとつなのは頭の上で揺れている二つの長い耳のせいだ。
「先生、その頭に付いてるのなん?」
浩志が半田の頭頂部に付いているウサギの耳を指差すと、半田はぷいとそっぽを向いた。
「う、うるさい! これはタマが付けろっていうから…」
「ヒロ兄、今年は仮装して回ってるんだよ」
ひなが半田への助け舟を出しながらぴょんと一歩後ろに下がって、オレンジ色のスカートを持ち上げた。上着は黒のトレーナーでコントラストが鮮やかだ。
「なるもひなとおそろいなんだ! ひなのお母さんがなるの分も用意してくれた!」
ひなの隣に並んだなるはオレンジのかぼちゃみたいに裾の広がった半ズボンと、黒のTシャツ姿だ。
二人共ジャック・オ・ランタンがモチーフなのだろう。おそろいのコーデイネートがかわいらしい。
「ふたりともハロウィンらしくていいな。じゃあアメをどうぞ」
「すごかー! バリかわいい!」
「東京のお菓子だぞ。一個ずつ持っていけな」
「ヒロ兄ありがとう〜!」
二人の格好にぴったりのカボチャのおばけのロリポップを手渡すと、もうひとつ大きな手が出てきた。
「オレには?」
「先生はおとなだろ」
「仮装までしてるんだ。オレにもくれ」
半田は浩志からキャンディーを奪い取ると、その場で袋を開け口に咥えた。
「あーもう。行儀悪いし転んだら喉突くからここで食べてけ……ひなとなるはまだ明るいから二人だけで回れるか?」
浩志の言葉に二人の少女は元気よく返事をすると、ビニール袋を揺らしながら再び外へと飛び出して行った。
ジャック・オ・ランタンたちが出ていくのを見届けると、半田は浩志の隣に腰を下ろした。
「……お前、どういうことだよ?」
がり、と飴を噛み砕きながら半田は浩志を見た。真っ黒な目は少しも笑っていない。
「なんでオレに帰ってくるって言わねぇんだよ」
「先生を驚かそうと思って。嬉しくなかった?」
「嬉しくねぇ」
半田はそう吐き捨てると、大きなため息を吐いた。頭の動きに合わせてうさぎの耳がぴょこんと揺れる。思わず長い耳に触れると、ちらりと黒い瞳が浩志を見た。
飴のせいか半田からは甘ったるい香りがする。このままキスをしたら飴の味がするのだろうかと考えた瞬間、勢いよく玄関が開いた。半田がびくんと肩を震わせて、慌てたように浩志から顔を背ける。
「あっ! ヒロ兄だ〜!」
「ケンタ、ただいま」
「お帰りヒロ兄。いもはまんだかな」
「ほら、アメちゃん持ってけ」
「やった! でっかいアメだ! ってなんで先生が食べてるんだよ!」
ケンタにまで文句を言われて、半田はため息を吐いた。がりん、と最後の飴の欠片を噛み砕くと、のろのろと腰を持ち上げる。ケンタの坊主頭をジャリジャリとかき回しながら、大仰に言う。
「ケンタもまだ回るんだろ? このオレが見守りで付いて行ってやる」
「いい! 先生とろいし!」
「何だと…大人の脚力をなめるんじゃねぇ。じゃあなヒロ」
「おう」
浩志があっさりと手を振ると、半田はまた不満そうに眉を寄せた。先に駆け出していったケンタを確認すると、半田は浩志の胸ぐらを掴んで低い声で言った。
「…言いたいことがある。お前、あとでオレんち来い」
「分かった」
言いながら、近くにある半田の唇にキスをすると、目の前にある白い頬が赤く染まった。
「っ! お前、こんなとこで…」
思わぬ不意打ちに、口を開けたり閉じたりしている半田の背中を押す。
「ごちそうさま。ほら、遅くなるとまたケンタにバカにされっぞ」
「クソ! ヒロシのくせに!!」
べちん、と半田は浩志に食べ終わった飴の棒を投げつけると背中を向けた。
*****
「先生、まんだかな」
「おせーよ!!」
食事と風呂を済ませた後、半田の玄関を潜ると不満げな半田が居間から顔を出した。懐かしい墨の香りと共に、石鹸の香りもする。半田の服装が作務衣からスウェットに変わっていることから、半田も風呂に入ったのだろう。同性の男の風呂上がり姿に劣情を抱いてしまうのは、好きだからに他ならない。半田の少しだけ蒸気した頬と、湿った黒髪から視線を逸らした。
浩志が座布団の上に着席すると、半田は一気に距離を詰めてきた。近くにある顔を直視できずにいると、半田は低い声で言った。
「…お前浮気とかしてないだろうな?」
「するわけないだろ。そんなことしたら先生に殺されそうだし」
ため息を吐きながら、伏せた瞼を持ち上げると今にも噛み付いてきそうな半田の顔があった。容姿が整っている分、迫力はあるが怒っていても恋人の顔はいつだってキレイだと浩志は思う。
こちらを真っ直ぐに見つめている目には怒り以外に、深い困惑も浮かんでいる。半田にはいつだって幸せそうに笑っていて欲しい。こんな顔をさせたいわけではなかった。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになったが、浩志にも言いたいことがある。ここでハッキリとさせておかないと、いつまでも半田を怒らせることになる。
「なんなんだよ……」
そう呟いた半田の声は震えていた。怒りのせいではなく、泣きそうなのだと気づいて浩志は半田の頬に手を置いた。その手を形のいい唇に置いて、そっと上に持ち上げると白く、鋭い牙が顔を出した。
普通の人間にしては鋭いこの牙は半田が吸血鬼の末裔であることを物語っている。
半田が吸血鬼だと知ったのは付き合い始めてからだったが、それを承諾して付き合い続けたのは浩志自身だった。半田は血が大好物だが、吸血しないと生きていけないわけではない。普通の食事から栄養を取れるし、太陽の下を歩けるし、にんにくも十字架だって平気だ。
ただたまに祖先の血が騒ぐらしく、ジャンクフード感覚で浩志の血液を吸う。血を吸われるのはまだいいが、必ず貧血で倒れることになってしまうのが悩みの種だった。
その後、半田との関係が深くなってくると、その悩みの種が浩志の中の大問題へと成長してしまった。
大問題というのは、半田とセックスができないことだ。
どんなにいい雰囲気になっても、いざという局面で半田は必ず吸血してくる。吸血鬼のくせに怖がりの半田は、浩志とのセックスにひどく消極的だった。そもそも半田は吸血鬼だというのに(?)性欲が薄い。キスをするだけで目つきの悪い目が、とろりと蕩けてしまうので、本心からそれだけで満足なのだろう。けれど浩志はそれが嬉しい反面、不満だ。唇だけではなく色々な場所に手や唇で触れてみたいと思うのはいたって普通の感情のはずだ。
何度も押したり引いたりを繰り返したけれど、最後は必ず血を吸われて使い物にならなくなってしまう。
それならば、と浩志は島を出て遠距離になるタイミングで作戦を変えた。自分から迫ることはしないけど、半田に血も与えない。お預けをくらっているのだから、半田にも少しばかり我慢してもらおう作戦だ。
だから夏に帰省したときには、できる限り半田に近寄らないようにしたし、かろうじてしたスキンシップは東京に戻る時に掠めるようにしたキスだけだった。
半田は急に態度が変わってしまった浩志を不安そうに見ていた。きっと今回なにも言わず帰省してきたことも、不安に拍車をかけているに違いない。
「やっぱりオレが普通の人間じゃないからイヤになったのか?」
「違う。そんなわけなかろ。オレはどんな先生でも好きだし、嫌いだったら少ないバイト代をはたいて帰って来たりしない」
「じゃあ、なんでだよ」
「先生はオレのこと好き?」
「当たり前だろ……」
半田の口の中に指を入れて、牙に人差し指の腹を押し付けると鈍い痛みと共に、ぷくりと血の雫が指先に出来た。ごくり、と半田の喉仏が上下に動く。少量の血でも半田にはご馳走だ。久々の浩志の血を欲しがっているのが分かる。
「オレの血だけじゃなくて、オレのことも好き?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
目の色が赤褐色に変化し、物欲しそうにこちらを見ている半田に浩志も喉が鳴る。血の付着した指先を半田の唇にそっと置いて粘膜をなぞる。口紅が塗られたように真っ赤になった半田の唇をうっとりと眺めながら言う。
「先生がオレの血を飲みたいように、オレも先生の全部が欲しい」
「……ヒロ」
「でも先生が嫌がることも怖いと思うこともしたくない。だから気持ちの準備ができるまでオレの血も我慢してよ」
「ずるいぞ」
「どっちが。先生の方がずるかぞ。先生が喜ぶ顔が見たくてたくさんおやつをあげてるのに…」
食事もおやつも、自分の血肉さえ半田が望むのなら何でも渡してやりたい。自分と同じ気持ちだけなんて贅沢は言わないから、半田からも差し出して欲しいのだ。
半田の赤く染まった瞳を覗き込む。
「あ、ちなみにオレ以外の血を吸うのは浮気判定だから絶対に禁止な。オレのいない間、東野さんとか吉田心に手出してないよな?」
「するわけないだろっ!」
半田は勢いよく顔を左右に振るとぽつりと言った。
「お前以外の血は飲みたくない…」
「なんでだよ。誰のだっていいって言ってただろ?」
半田は飲みたい時に飲めるなら誰の血でもいいし、浩志の血の味は「普通だ」と宣言されてしまったことを今でも根に持ってる。どういう風の吹き回しだろうか。眉を寄せると、半田も困ったように笑った。
「他のやつなんてどうでもよくなるくらいお前が好きだから、もうヒロのしかいらないし他のやつのも飲みたくない」
半田は真っ直ぐに浩志の顔を見ながら言うと、ぺろりと唇を舐めた。
「ヒロの血が世界で一番うまい」
唇に付着した赤を舐め取り、幸せそうに口角を持ち上げる。そして半開きの赤い唇が「いいぞ」と囁いた。
「え?」
「ヒロと別れるなんて考えられねーし、だから不安になるのももうやだ。逃げて悪かったな。でも痛いのは怖いんだよ」
「で、出来るだけ頑張るけん」
「ん……」
半田の指が自分のものと絡まり、引き寄せられる。浩志の指の傷を目ざとく見つけるとぱくりと浩志の指を咥えた。
半田の口内は温かい。傷口をちろちろと舐める舌の動きに眩暈がする。これを無意識にしているのだからタチが悪い。
「先生美味しい?」
「さっき食った飴よりずっと甘い」
浩志はそう言って、夢見るように笑う怖がりな吸血鬼の首筋にがぶりと噛み付いた。
〆