その幻肢痛を撫でてやりたい(鍾タル) 誰かの代わりになるのも、止まり木扱いされるのも嫌だった。でも、もし彼が俺を望んで呼ぶのならば、ちょっとくらい隣にいてあげてもいいかなと思う。この感情に名前は付けられなかったが、要するに、そういう情だった。
鍾離先生の自宅を訪れたときには小降りだった雨も、今や本格的に降りはじめて雷鳴まで響く始末だった。体液まみれの身を清めた後でまた濡れる羽目になるのは億劫だったが仕方がない。ここに朝まで留まる理由も道理も持ち合わせてはいないのだから。
いつものように寝台から身体を起こす。滞在している旅館にも負けず劣らずの価格をしているのであろうこの寝台は、このまま眠ってしまいたいという誘惑がいつも頭をよぎる程度には寝心地が良い。いつも身綺麗にした後も、なんだかんだと暫く居座ってしまう。鍾離先生は何度も過ごした夜と何ら変わらず、寝台にはいたけれど身体を起こしたまま読書中だった。
書物に落とされていた瞳がちらりと俺の方を向く。
「もう行くのか」
「そうだね。あまり長居をしたら、鍾離先生が寝られないだろ?」
実際問題として、この寝台は男二人が寝転んでも問題がない程度には大きいが、だからといって寝心地が保証されるほどではなかった。セックスをするには困らなくとも、満足な睡眠が得られるとまでは思っていない。それが分かっているからこそ、鍾離先生も俺がいる間はいつも読書をして時間を潰しているのだと解釈していた。
「雨が強い。もう暫く滞在してはどうだ」
だから、まさかその当人がそんなことを言うなんて。思ってもみなかったのだ。流石に驚いてしまって、露骨にまじまじと見つめ返してみるけれど視線は交わらない。一度は俺に向いていたはずのその瞳は、もうこちらを向いてはいなかった。
「大丈夫だよ。雨も所詮水だし、多少の雨除けぐらいはできる」
「公子殿の体力が常日頃から有り余っていることは承知しているが、房事の後では話が別だろう。その負担を知らないわけではない」
「手加減しないくせによく言うよ」
「加減をしないほうが善がれるだろう、公子殿は」
減らず口。そう言い返してやりたかったがあながち嘘でもないので言葉を飲み込む。代わりに、俺と話しているくせに視線を独占している本を手から取り上げた。
「む、……何をする」
「先生がらしくないことするからだよ」
鍾離という男以上にこの世の知識に優れた男はいないだろう。無論それは礼儀作法にも通じる話で。目を合わせずに会話をすることはそれなりに失礼にあたる行為であり、それを知っているからこそ鍾離先生は誰と話すときでもきちんと目を見て話をする。それが目の前にいる人間に対する敬意だから。でも今の彼はそれをしなかった。おかしな話だ。だからといって俺を蔑ろにする素振りをするかといえば寧ろその逆で、平時以上に俺の心配をしている。まるでこの場に引き留めようとするみたいに。
「……」
「俺に言いたいことがあるなら言ってよ。俺は神様でも仙人でもないから人の心なんて読めないよ。それに、だからこそ凡人にとっては対話というものが大事だと思うんだよね」
一般論ではなく、真実として俺はそう考えている。人の心はわからない。向けられた言葉以上のことを受け取ることなんて無謀だ。愚かだ。それは己の中にいる相手の虚像を眺めているにすぎない。そう理解をしていても相手の考えを推し量り、想像し、妄想してしまうのが人というものだけれど。それでも、真実を知るには言葉を交わすしかないのだと、そう思う。
この男の真実が知りたいような気がした。当の本人は逃げ場を失って沈黙しているが。
「……、雨が降ると、様々なことが頭をよぎる。六千年、何が変わろうとも、雨が地を打つ音は変わらなかった。そのせいか、何百年も前のことだというのに、まるで昨日の出来事のように考えてしまう。あの職人の新作はいつだろうか、あの役者の次の公演も観たいものだ、友と次に会うのはいつにしようか、――などと」
俺の手で奪われたはずの本がまるであそこに在るかのようにじっと己の手元に視線を落としていた鍾離先生は、あまりにも穏やかに笑っていた。
これがこの男が抱える哀しみと、寂しさと、喪失の一端なのだろうか。いやでも理解してしまう。そしてそれがあくまでも一端に過ぎないこと。理解した気になれたとしても、気になっただけで何もわかってはいないのだということを。
「幻肢痛みたいだね」
「そうだな。そうなのかもしれない。……別れには慣れているが、悲しみがないわけではない」
「だから寂しいんだね。寂しくて仕方がないから、俺を引き留めようとしてる」
「……そうなのだろうか」
そうだよ、と笑った。なんだかうまく笑えているか自信がなかった。感傷につられてしまうなんて俺らしくもない。そんなもの薙ぎ払ってしまいたくなるはずなのに、なんだか絆されてしまいそうになる。でもきっと、これではいけない。俺だっていつかは璃月を去る日が来るのだから。そのあとになって、いつまでも記憶の中の虚像を撫でられるのはまっぴらだった。
「でも、俺は誰かの代わりにされるのは御免だから、やっぱり帰らせてもらうよ」
取り上げていた本を鍾離先生の手元に置いて立ち上がった。まだ引き留められるだろうか、それとも潔く引き下がるだろうか。これが最後の夜になるのだろうか。惜しいと思わないわけではないが、そうなってしまうのならばそれは仕方がないことだ。
鍾離先生は、そうか、と平坦な声で呟いて、それっきりだった。続く言葉は何もなく、静かに本だけが彼の手の中に納まるのが見えた。
「引き留めないんだね」
「公子殿はそう簡単に意思を曲げはしないだろう」
「そうだね」
「俺自身にとって、貴殿は誰の代わりにもなりえないことを主張したところで確固たる根拠があるわけでもない」
踵を返そうとしていた足を戻す。心臓を鷲掴みにされたような心地がした。どきりとした。急所をじかに触れられているような居心地の悪い緊張が走る。この感覚は生まれてはじめてだった。でも、心あたりがないわけじゃない。まったく、そういうことらしい。
ああ、なんだ。もうとっくに手遅れじゃないか。嘘だと断じることも、根拠を示せと言い募ることもできそうになかった。鍾離先生は確かに必要な嘘をいくらでも吐ける程度の器用さを持ったひとであることは知っていたけれど、こんな嘘の吐きかたがあるものか。違うと言われたほうがずっとマシだった。どんなに甘い愛の告白よりも性質が悪い。
ああもう、と呻く。すっかり諦めたような顔をしていた鍾離先生の腰を跨ぐように勢いよく寝台に乗り上げた。なにを、とか何とか言っている声が下から聞こえていよいよ愉快になってくる。ああ、もっと慌ててくれ、狼狽えてくれ。そうじゃないとわりに合わない。こっちは今のあんたの言葉を聞いて、それなりに心を動かされてしまったのだから。
「引き留められてあげてもいいよ。その代わり、俺をもっと愉しませてくれるならね」
「公子殿は欲張りだな」
「勿論。だから雨の音になんて気を取られないでくれよ」
鼻先同士をこすり合わせるように顔を寄せた。承知した、という言葉と共に唇がそっと重なる。何度も何度も、その存在を確かめるように。言葉はあとから追いついてくる。今はただ、ここに己がいることをいやというほど知らしめてやりたかった。
雨音はもう、遠くなっただろうか。