こはくの下の姉の話 こはくが産まれた日は、冬の中でも一番に寒く、雪の降る日だった。空を覆う雪雲は厚く、庭に積もった雪はその産声を吸い取ってしまうほど深く積もっていた。
「弟や。名前はまだ決めてへん」
冷え冷えとした空気の中、父がそう言った。
新しい命の誕生を期待していた筈の家の空気は重く、その時の私にはその意味がわからなかった。姉もそうだったように思ったけれど、産まれたのが弟だと聞いた時、さっと顔色が曇ったのがわかった。二人して父に連れられ、冷たい縁側を母の下まで歩いた。
「弟やって。妹かと思っとった」
「……せやね」
「決めとった名前、妹用やったんかなぁ。どっちも決めとったら良かったのに」
私ははしゃいでそう話しかけたけれど、姉も父も、黙って何も言わなかった。
初めて見たこはくは、小さくて丸くてきょとんとしていた。
疲れた、しかし幸せそうな母の腕に抱かれ、光に慣れない目をぱちぱちさせていた。近寄るとミルクのような良い匂いがして、丸くふくふくとしているのに、どこか触ったら壊れてしまいそうに脆く見えた。
どうしていいかわからなくて、私は恐る恐る指を差し出して、手の近くへ持って行った。こはくに触れるのなら、そこが一番傷つけないだろうと思ったのだ。
こはくがそれをつ、と、大きな目で追った。
見られている。
この子の目に、私が映っている。
どきどきと心臓が高鳴って、緊張して、少し手が震えた。息を詰めていたのにも、その時は気が付かなかった。
こはくは私の手を見つめたまま、ぱちぱちと、大きな目を瞬きさせた。そうして、その小さな手をゆっくり握ったり開いたりして、すぐそばの私の人差し指をぎゅっと握った。
思いの外に強い力で、私は思わず声を上げた。
「わ、姉はん、に、握った」
「そら握るわな」
「力強い!」
興奮した私とは反対に、隣の姉は私より物を知っているからか、呆れたような顔だった。こはくに視線を戻すと、私と同じ色の瞳と目があった。
こちらが赤面してしまいそうなほど、真っ直ぐに、躊躇なく私を見ている。私は視線を逸らせなかった。
まつ毛が長くて、丸い頬は血色良く赤らんでいた。握られた人差し指から伝わる体温は高くて、柔らかくて、暖かかった。
あまりに純粋で、素直で、綺麗で、
「かわええ、」
「あんたも最初そんなんやったけど」
思わず出ていた声に、姉が姉らしく返す。
「あたしそんなん知らんもん」
揃えられた指を、親指でそっと撫でる。撫でるたび、姉になるとはこういうことなのか、と実感がじわじわ湧いてくる。笑うべき空気ではないのだろうと肌で感じていたけれど、自然と笑顔になってしまった。
今思えばきっと、そういう力を私の弟は持っていたのだ。
「……うん、せやな、かわええな」
隣を見ると、暗い顔をしていた姉の表情が綻んでいた。その後ろの父も、困った顔のままに微笑んでいる。
その中心で、こはくが、花が咲くようににっこりと笑った。
その時私は、この弟を守ろうと心に決めたのだ。
***
その頃の家の状況は少々複雑だった。主に家同士の問題だった。
私の家は名のある名家の分家だったが、死を間際にした本家の当主の目の敵にされていた。きっと、時代も悪かったのだろう。私の家のように、汚れ仕事をする人間というのはいつの世も敬遠されてはいたが、現代ではより立場がなくなっていた。本来後ろ盾となる筈の本家からの圧力に耐え、踏ん張って何とかやっているというのが当時の実情だった。
結局、こはくは産まれてすぐに奥の座敷牢に入れられた。
こはくを守るには、こはくをいなかった事にするしかないのだと母は言った。考えも足らず聞き分けもなく、可哀想だと駄々をこねる私を母は叱った。
「朱桜の当主が今桜河を取り潰そうとしとんの、ぬしかて知っとるやろう」
「それは知っとるけど、」
「うちはなぜか女の方が産まれやすい。せやから当主が男や女やなんて考えん。実力主義やし、ぬしかて姉はん超えられたら当主になれる。
でも朱桜はちゃう。あそこは普通に長男が継ぐ。男が産まれたなんて、あの家が知ったらまず、次の当主はこはくやと思うに決まっとる。ここまで言えばぬしかてわかるやろうが」
「……」
こはくが殺される。
その言葉が頭にふっと浮かんだ。本当にそうなるのかはわからなかったけれど、もしそうなってしまったらという恐怖で、私は下を向いて閉口した。
母は、幼い私の理解が足りないのを叱ってるのではなかったと思う。もしそうだったならば、3つ4つの物心つくかつかないかの子供に何を期待しているのかという話だし、私の覚えている限り、母が理不尽を言ったことなかった。どちらかといえば、どこに向けていいかわからない焦燥が、言葉に乗ったという表現が近かったと思う。
母はそれ以上、私に何も言わなかった。女中にあやされているこはくはこれからのことなど何も知らず、その腕の中で穏やかに寝息を立てていた。
欄間に掛けられた古い振り子時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「……朱桜のクソジジイがおらんやったら」
聞こえるか聞こえないかのとても小さな声だったのに、母の呟いたその言葉が、なぜか耳にじっとりと残った。
間取りには無い、手製の牢で閉じられた奥座敷。そこから繋がる中庭でさえ、柵と高い塀に囲まれ出られない。古い家特有の開かずの間。
家の者しか知らないその部屋に入れられたこはくは、本当にこの世からいなくなったようで、私はその出口にある錠前の付いた格子戸が怖かった。幼心に、あの格子戸がこはくを連れて行ってしまうような気がしたのだ。
ある日見ない間にふっとこはくが消えてしまうのでは無いかと怖くて、私は稽古や習い事の合間の時間を見つけては、玩具や本を手に、毎日そこへ足を運んだ。こはくはいつも嬉しそうに私を出迎えてくれた。
奥座敷は、手前の4畳半の寝室と奥の6畳の居室に別れていて、縁側から中庭へと続いている。高い塀を隔ててすぐ、桜河が持っている山に続いているので、日当たりはあまり良く無いが、どれだけ声を上げようと周りに気付かれる不安だけは無かった。
居室はこはくが退屈しないように、テレビや小難しい小説までさまざまな物が置かれていた。私が置いて行った物も次第に増えて行った。
こはくを離れではなく、奥座敷に入れたのは良かったのかもしれないと、振り返ってみて思う。
離れに入れた方が広かったが、家の者が使われていない離れに頻繁に立ち入るようになれば、何かあるだろうと疑われる。けれど、奥座敷に入るところは外からは見えないから遠慮しなくて良い。
もしかしたら、注意深い人間は気付くかもしれなかった(少なくとも今の私なら勘付くだろう)。けれど周りの大人は誰も私を咎めなかった。
きっと皆、こはくを案じていたのだ。
姉も、なんだかんだとよくついてきた。次期当主として忙しいのか、毎日ではなかった。二人目の下のきょうだいだから慣れていると言っていたが、やはり幼い弟は可愛かったのだろう。落ち着いて冷静な姉も、こはくと遊ぶ時は、大して面白くもないだろうに、いつも穏やかに笑っていた。
私はよく、一緒に寝る姉にこはくの話をした。
今日の可愛かったところだとか、面白かった事だとか。そういえば、初めて私を『ねえはん』と呼んだ時も、1番に伝えたのは姉だった。大人にこはくのことを話すと、困らせてしまうか、あまりその話をするなと叱られてしまって話せなかったのだ。
布団の中で寝る前までうるさい私の話を、隣の布団で姉は呆れながらも聴いてくれた。
その頃から私と姉は、少し距離が近くなった。
それまでは年が近くともやはり姉で、次の当主で、自分より強くて何でもできる姉を少し怖がっていた。
けれど、家の外の人間にも、大人にもできない大好きなこはくの話をできる点で、姉は特別な存在になった。
思えば、こはくも私もよくわからなかったあの頃が、家にとっても一番幸せな時間だった。
無邪気にこはくを可愛がって、弟のことを姉に話して、楽しいと笑って。
罪悪感も感じず、ただ姉でいられたあの頃は、確かに温かくて、幸せだった。
***
こはくが少し大きくなると、私たちと同じように稽古や習い事がつけられるようになった。
こはくには名目上、家の為だと言った。
勿論、嘘だった。誰もこはくに仕事を任せようなどと思ってはいなかった。けれど、こはく自身を鍛えることは、万が一守りきれなかった際に備える上で意味があった。
何も知らないこはくは努力家で一途で、姉はんらにすぐ追いついたる、と小さな体で人一倍頑張った。絶対に叶わない目標を掲げる弟が、少し不憫だった。
なぜわざわざ嘘をついたのか、こはくのいないところで母に聞くと、あの子は気が強いから、と返した。それから、あんたに似てな、と付け加えて苦笑して、私の頭を優しく撫でた。
こはくの稽古は、座敷牢に繋がった中庭で密かに行われた。声を出そうが周囲に聞こえず、都合が良かったのだ。思いっきりこはくは動けたし、こはくの名を呼べた。
空の下で弟の名前を呼んで、堂々と姉をできることが、たとえ庭の中でも私は嬉しかった。こはくに「なんでそない嬉しそうなん?」と聞かれてしまったくらいだ。理由はもちろん教えられなかったので、こはくの中で私は『稽古が好きすぎる姉』という奇特な家族になってしまった。
座敷牢を出る時が、一番辛い時間だった。
奥座敷にはトイレも洗面所も風呂場もあり、一通り暮らせるようになっていた。寝室用の4畳半の和室の傍にある。そのすぐ右隣の襖を開ければ、物々しい格子戸がすぐ目の前に現れる。
「ほなな」
そうこはくに声をかけて、寂しそうな顔を尻目に部屋を出る。
格子戸をくぐり、錠を閉め、簡単に開かないか確認して、こはくを閉じ込める。
これがいつも苦しかった。親から厳しく言いつけられた仕事だった。
部屋と部屋の合間の、格子戸しかない押し入れほどの空間で、私は時折、一人立ち尽くした。
少しずつ積み重ねた嘘が、私を苛み始めていた。
彼の無為な努力も、素直な疑問も、私の心臓を刺す小さな針のようだった。
嘘をつく事が正しい事なのか、私にはわからなかった。しかし本当の事を言ったところでこはくが納得しないのは想像がついた。弟は桜河の人間らしく義理堅く、桜河の人間には可哀想なほど愛情深かった。
桜河の人間は例外無く、親兄弟だろうと躊躇なく殺せるように幼い頃から仕込まれる。
そういう家だった。無論私もそうだ。そういう命が下ればきっと、こはくだろうと殺すだろう。例えその後私がどうなろうとも。
そうあるよう、母がこはくに言った時、こはくは一晩泣いたらしい。女中が母に言っていたのを偶然聞いた。
こはくは桜河の人間には向いていなかった。
だからこそ、綺麗なこはくを嘘で無理矢理この部屋に閉じ込めて置くのが苦しかった。
こはくをここから出してやって、堂々と表を一緒に歩けたなら、どれだけ良いだろう。
そんなことを一人、暗く狭い小部屋の中で考えた。
無論そんなことは、少なくとも本家の当主が生きている限りあり得ない。仮に死んだとしても、汚れ仕事に手を染めたこの家ではあり得ない事だったし、それを少し成長した私は理解し始めていた。
こはくだってここから出られなくて1人だけれど、私だって姉以外に、同年代の話し相手などいなかった。こはくより多少行動範囲が広いだけで、この家以外の人間とまともに接触できない点では変わらなかった。
それでも私は、自分よりこはくをどうにかしたいと思っていた。
なんとまあ、馬鹿でませたガキだろう。