背筋を伸ばして⑧終背筋を伸ばして⑧
『お前は王から恩寵を賜って生まれたんだよ』
『おんちょう?』
『恵みってことさ』
『めぐみ』
『平たく言えば、愛だ』
『むずかしいです、かあさま』
『ふふふ』
そう笑うと、母様は私の…ヒトとは違う、鱗と筋肉ばかりの冷たい身体を思い切り抱きしめて頬を寄せた。
『ゾラーヤス。かわいい私の娘。愛しているよ』
温かくて強い腕だった。
まるで決して破れない大きな毛布。
私を包んで、世界のあらゆる怖いものから守ってくれる、いつだって凛として強く賢い、私の母様。
その母の一面だけを、何故私は無邪気にいつまでも信じられたのだろう。
温かくても、強くても、その腕は今の私とそう変わりなく、細くてとても全ては抱えきれる筈がなかったのに。
***
「どうやら収まったみてえだな。この分だと雪崩の心配も無さそうだ。…って言うか、よく考えたらお前バリアあったんだったな…。余計なことしちまった」
パッチさんはそう気まずそうに言って、私の上から退いた。背中がちょっと寒くなった。
「いえ、私のバリアも『いつでもばんぜん』って訳にはいきませんから、助かりましたよ。ありがとうございます」
「……おう」
突如起こった地震の原因は結局わからない。
恐らくは黄金樹に燃えたことに起因するのだろうけど、私達には確かめようもない。
さほど強くなかったのは不幸中の幸いだった。
…でも。
「あーぁ、ひっでえ。ぐっちゃぐちゃだな」
そんな小さな地震も、突貫の小屋を潰すには十分すぎた。
まるで初めて見たときのように屋根は落ち、壁も崩れてしまった。
中もしっちゃかめっちゃかで、長いようで短かった日々がまるで夢だったかのように砕け散っていた。
色んなごはんを乗せていたお皿に、つい朝方スープを入れていたカップ、何度も食卓として囲んだ台に、…棚…、そして。
「……」
足元に星のように散っている、割れてしまった黒いガラスの瓶。
そこからこぼれ出ている、あの日封印した過去。
英雄様から手渡された、私の秘密。
「……これ、お前のへその緒?」
パッチさんが、何でもないものを見たように軽妙な声で言った。
あの頃の私はこれを再び目にした時、天地がひっくり返るんじゃないかって思ってた。
それなのに、心臓の高鳴りもなくただ穏やかに笑ってしまう自分がいる事に驚いた。
「はい。変わった形でしょう?」
笑いながら、それでも何故か涙が溢れた。
かつて蛇の赤子を優しく包んでいた懐かしい匂いのする濡れた羊膜を、ガラスで切らないよう慎重に両手で掬う。
英雄様曰く、これは火山館の奥深くにあったエーグレーの聖堂…その神聖な祭壇にそっと置かれていたのだと言う。
私が確かに産まれたというその証を、そんな場所に安置していたその意味を、私はきっとわざと考えないようにしていた。
『恵みってことさ』
『平たく言えば、愛だよ』
けれど、今なら想像できる。
こんなにもシンプルなものを、何故私は今まで信じられなかったのだろう。
数え切れないほどの業を背負って生まれ落ちてから、それを補って余るほどの祝福を受けていたと言うのに。
言葉にできないこと、まだ理解が及ばないことも、数えきれないほどあるけど。
それでも、一番大きく欠けていた部分がそっと埋まったのを感じた。
――ああ、私。
笑えてはいるけど、溢れる涙を止められない。
あの日こぼした時よりも熱いものが、たくさんたくさんあふれて……。
「私、帰ります。あの家に」
「そうか」
丸まった背中を摩る手が優しく温かかったからか、ついそんなことを言った。
そうして私とパッチさんの奇妙な共同生活は、突然終わりを告げた。
*
「それじゃあ私、行きますね。…ホントにお一人で大丈夫ですか?」
「なに、小娘一匹抜けたくらいでどうにかなるパッチ商店様じゃねえよ。元々俺一人でも全然やっていけるし、ゴーリーのおっさんのヤツだって真面目にやる気ねえし。……ま、タニスによろしくな」
生きていれば、なんて、以前のパッチさんなら続けて言ったんだろうな。
でも、それは言わない。
俺と来るか、とは決して言ってくれないように。
あの時みたいに、ここで私から「一緒に来てくれ」と強請れば言ってくれるんじゃないかと甘えたい気持ちも無くはない。
……でも、それはダメ。私は私のケジメを付けないと。
自分の未来を選択するのはそれからがいい。
「また、会えますか?」
だから私は、まず彼から巣立つのだ。
思えば風来坊の彼がこんなところに留まっているのは、私のためだ。
ここに限った話ではない。この人は火山館に現れた時から、ずっと付かず離れず私を見守ってくれていた。
私が何者であるかに関わらず。
それを指摘して感謝を述べたところで、彼は喜びやしないだろうから言わないけれど。
「お互いちゃんと生きてりゃな。でも、なるべく会わねえことを祈るぜ」
「何故?」
「あんまり悪いお兄さんと付き合ってると、不良になっちまうからだよ」
そう言って目の前の悪いお兄さんが、指を『不良』のところでガシガシしながらニヤニヤ笑ったので、私も思わず笑った。
「残念です。私、結構才能あると思ったのに」
「ズルいところは母親譲りだがな」
タニス様と私の血は繋がっていないのに、それでもこの人はそんなことを言う。
私達、似たもの同士かも、って言いかけて…やめた。
「じゃあ…そろそろ」
「おう」
歩み出した足を「ああ、そうだ」と止めて振り向いた。
これだけは言っておかないと。
「私、貴方のこと好きですよ」
「あ……?」
機嫌悪そうに歪められた顔に一気に紅が差し込み、それがみるみる首や頭のてっぺんまで広がった。
流石にこれだけ一緒にいたらわかっちゃいますよ。
案外、可愛いところがある人だって。
「ふふふふ、そういう意味じゃありませんよ」
そう、そういう意味じゃない。
恋したことはないけれど、本当にそういうんじゃないって自分でわかる。
「大人を揶揄うんもんじゃねえよ」
「もう子供じゃないので、いいんです」
ただ少し、その男気と正直な人柄とやらに憧れたのだ。
「ったく…さっさと行っちまえ」
口を尖らせてそっぽ向きながら手で追い払われてしまった。
別れ際にそんな仕草…どっちが子供なんだかと笑ってしまう。
「お世話になりました」
踵を返し、言う通りにして歩き進めると、後ろから「おい」なんてぶっきらぼうな声が飛んできた。
「はい?」
振り返ると、パッチさんは眉間に皺を寄せたままじっと私を見つめ、
「背筋を伸ばして歩け、ゾラーヤス」
と、指を指しながらそれだけ言った。
なあんだ。引き止めてくれるのかと思ったのに。
私は目一杯の笑顔で手を振って、そのまま二度と振り返らなかった。
代わりに蛇由来の伸びない背中を、伸びないなりに伸ばして歩いて見せた。
能力は使わず、自分の足で家路を行く。
長いような短いような、あの奇妙で夢のような日々の軌跡を辿りながら歩きたかった。
「ずっとそばに居てくれて、ありがとう。パッチさん」
涙がこぼれないよう、空に向かって言った。
色々と落ち着いたら曇り川の洞窟に行ってみよう。
彼のことだ。どうせこの生活も全て小さな思い出にして仕舞い込んで、今度こそ洞窟の奥で元気にふてぶてしく座っているだろうから。
この旅のゴールは、始まりのあの館。私の家。
家を出た時と今とではきっと見える景色は変わっているだろうけど、私はもう泣かないって決めた。
何があっても、何を見ても。
私にはもう、信じるものを自分で決められる。
***
タニス様。…ただいま。お久しぶりです。
そちらはお変わり……ありましたよね、当然。
私が出て行ってから、少しだけ年月が経ちましたね。
私、見ての通り背は伸びなかったけれど、少しは大人っぽくなりましたかね? どうでしょう。
旅の間はあのパッチさんが、人生の先生をやってくれたんですよ。おかしいでしょう?
話したいエピソードが沢山あったんですが、とても長くなってしまうし、泣かないって決めたのにやっぱり泣いてしまうかもしれませんから、少しずつ、追々で。
旅の道中、自分のことを沢山考えました。
沢山迷って、何度も絶望して、散々泣いて…その中で気付けたことは沢山ありましたし、色んな疑問に対する答えも幾つかは見つかりました。
それでも…一番大事な答えは見つけられなかった。
最初に自分で決めた生きる理由、「いつか母様の志を継ぐ」ということが、どういうことなのか。
私にはそれが悔しかった。
もしタニス様に訊いたら答えをくれたんだろうかって、つい甘えたくなる日も密かにありました。
でもその答えはきっと今すぐに得るものではなく、私がこれからの人生で見つけるべきものだから、わからなかったんですよね。
たかが数年、いえ…きっと十数年かけたところでわかった気にはなれない。なれるわけがなかった。
ひょっとしたら答えはないのかもしれないけれど、どうせなら生きる理由は多い方がいい、日々を楽しく過ごしている中でふとした時に見つかればいいやって、今では思えるようになりました。
昔カーレさんってお友達に言われたことを時々思い出すんです。
人間誰にでも止むに止まれぬ事情を抱えることがある。
正しいかそうでないかに関わらず、そうせざるを得ない時が来る。
それでもそれは、過去の選択の積み重ねの結果で、誰のせいでもない。
結果それで命を落とすことになっても。
この言葉は時々飲み込めないこともあったけれど、今では私の宝物です。
みんな色んな過去を持ちながら、それでも何かを自分で選び取って生きているんだって知りました。
私も、そうしてみたいのです。
……。……、母様。
私は母様が言っていた恩寵の意味を、今ようやく分かりかけたような気がします。
命に正しさはなく、誰かに赦されないことだったとしても、私が結果ここにいるのはただ愛故であり、それが時に呪いにもなり得るだけなのだと。
そして誰もが、そうならないよう抗う。
強いわけじゃなく、ただそうせずにはいられなかっただけの人であった貴女のように。
それが分かっただけでもよかった。
直接伝えられたなら、もっとよかった。
母様。私は生きます。
私は貴女の娘ですから。
この先も貴女が、貴女が望む恩寵と祝福に満たされますよう。
愛していました、タニス様。
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いつでも身軽に、荷物は少なめに。
胸には、大切なカメオ。
鞄の中には、沢山のパンと一瓶の葡萄酒、少しばかりのルーン。それだけ。
今の私は、ただの私。
空っぽでも、穢れたままでも、どう産まれても、どう生きても、私は私。
母を愛している、ただのゾラーヤスだ。
「それでは母様、行って参ります」
私の全てだった館を後にする。
きっと次は無いだろう。
私は何もできない小さな子供でも、泣いてばかりの少女でもなくなった。
もう以前程には心は動かない。
代わりに、巣立ちの心にただ風が吹いている。
本当の本当に、私は今外に、旅に出るのだ。
さあ、行きましょう。自由なゾラーヤス。
今度こそ私は、何処にだって行けるから。
背筋を伸ばして