ずん、と激しく地を揺らし、黒紫色の竜がゆっくりと地に伏せた。
「はあっ、はあっ....」
身体に黒い霧を纏い、蝕まれ、新雪の上で苦しげに肩で呼吸するのは鳥の隊ハンターのアベルである。
同行していた編纂者のチェリッシュが、その状態のアベルに器用にセクレトを寄せた。
「アベルさん、お疲れ様です...
この個体は歴戦....。かなり強力な個体であったにもかかわらず、完遂なされましたね...
こちらの資料は私が纏めておきますので、アベルさんは先に、」
「チェリッシュ、」
チェリッシュとの会話を断ち切るように、アベルが言葉を遮った。
話を遮られたチェリッシュは、気分を悪くすることはなく。
それよりも先に、彼の行動に一片の違和感を覚えた。
...普段ならば、こんなことはしないはずなのだ。
アベルには基本的に、相手の話の速さや抑揚に合わせて話す癖がある。
直す必要もない、無害な良癖である。
しかしそのアベルが、わざわざ会話を、しかも一等必要な連絡内容を含むものを遮断するだろうか
そう思い、チェリッシュは黒髪を揺らしてアベルの顔を覗き込んだ。
途端、はっと今この現状に、大体の目星が付いた。...付いてしまった。
「.....狂竜症、」
「...ああ、....話は聞いている、よな。
...俺は症状がいっとう重いんだ...。
いいかい、チェリッシュ...、俺はここに残る。
残るから、俺が俺を制御出来なくなる前に、エリックに血清を持ってきてくれと伝えてくれ。
...それまで、ここには誰も近づかせないで欲しい。」
普段ならばまっすぐ見つめてくるアベルの瞳が、今日は小刻みに震えている。
必死に焦点を合わせようと藻掻いているような。
...その異様な様は、彼の理性のタガが外れる本当に一歩手前なのだ、とチェリッシュに強く感じさせた。
チェリッシュは直ぐ様手綱を引き、セクレトをふわりと翻す。
「....わかりました、すぐに寄越します。
...どうか、どうか安静に。」
眉をぎゅうと寄せて、少し悔しそうな表情をしたチェリッシュは、苦しげに肩を上下させ続けるアベルに応えた。
その言葉に少し視線をあげ、アベルは焦点の怪しい瞳を細めて歪に微笑んで。
「ああ、頼む」
アベルの言葉を受け取ったチェリッシュは短く頷き、ゆるりと視線を前方に移す。
はっ、と小さく息を吐く音と共に、褐色の影はアベルの元から勢いよく駆け出していった。
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何やら共同テントが騒がしい。
ぼんやりと操虫棍の整備を行っていたグレイは、ふと顔を上げた。
見れば少し慌てた様子のチェリッシュが、同じく焦りを含んだ表情のエリックと言葉を交わしている。
...なんだ。
背筋の当たりがぞわ、と粟立つような気がした。
...強烈な違和感。
形容しがたい何かが、腹の奥でズンと重くなる。
...そういえば、チェリッシュとクエストに出かけたアベルの姿がない。
それに気が付いた瞬間、違和感が確信に変わる。
狩猟対象は確か___
「......ゴア・マガラ、か」
背後からの声に、グレイは思わず飛び退いた。
振り返れば、鈍い黄金色に身を包んだ初老の男性...ファビウスが、険しい表情で顎を撫でていた。
「....厄介なことになりそうだ」
グレイの方を見遣り、少し頷くようにして呟く。
グレイも、その言葉の意味をよく理解していた。
...狂竜症。
ゴア・マガラの放つウイルスにより、モンスターを狂わせ、凶暴化を促す厄介な症状。
常人よりも遥かに丈夫なハンターにとっては、時間薬で治療可能な一時的なものに過ぎない。
しかし、アベルは特例であった。
竜人族とのワンエイスである彼は、隔世遺伝により竜の血を強く引いている。
その為か、一部身体的特徴が動物的であることは勿論、理性や衝動を抑える事が困難である等、純粋な人間には無いまたは欠けている部分が存在する。
...それは狂竜症による破壊衝動に耐性がない事にも繋がるわけで。
その事もあり、基本的にゴア・マガラや狂竜症を伴うであろうクエストは緊急時以外受け付けないよう、本人も隊全体も注意に注意を重ねていたのである。
しかし、今回のクエストは一刻を争うものであった。
その上、時間帯は明け方。まだ狩猟に出ていたハンターが非常に多く、直ぐに動けるハンターがアベルしか居なかった、というのも理由のひとつで。
....そんな偶然が重なり、今回の件に繋がったという訳である。
暫くフードの影で考えを巡らせていたグレイは、盲目の金を煌めかせ、なにかに気付いたかのように目を見開いた。
駆け出すように立ち上がり、チェリッシュに問う。
「チェリッシュ...
...何処でアベルと別れたんだ.....」
「...え、あ、...確か、下層の方で....」
「...昨日サブキャンプが壊されたばかりだ、チェリッシュ。...吹雪でまだ修繕されていない」
「.....!!!!!!」
は、と見開いたチェリッシュの瞳を映すなり、グレイは駆け出した。
「俺が見つけ出してくる信号を送るから...ッ注視を頼みたい」
「あ、....ッですが、近づくなとアベルさんが、」
「場所が分からないんじゃ元も子もない...
俺が責を負う、行かせてくれるか...」
「....ッッ了解しましたありがとうございます...」
珍しく張り上げたグレイの通る声に唇をぎゅうと噛み締め、チェリッシュが強く頷いた。
アベルの言葉が脳裏を過ぎるが、今は従うべきではない。チェリッシュもそう判断した。
グレイはぴいっ、と指笛を鳴らし、駆けるセクレトに飛び乗る。
「俺では力不足かもしれんが....ッ」
一抹の不安を振り切るように、グレイは相棒のセクレトで雪を駆けた。
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「はぁーーーーーーっ....はぁーーーーーーっっっ......」
無慈悲にも、白銀に煌めく雪がアベルを飲み込むように吹雪く。
しかし、彼の体温は触れたその雪を溶かすほどに熱く籠っていた。
頭がジンジンと痛み、視界が紅く揺れる。
自分が今、何処に向かっているのかも分からない。
ただ1つ、何かに惹かれるように、身体が吹雪の中へと吸い寄せられてゆく。
なけなしの理性が蕩けていくこの感覚が、心地いい様な気さえして。
...ごつん、と足先に触れたのは、既に凍りつき命を落とした小型モンスターの亡骸。
それが死体であると認識した瞬間、アベルの口内から黒紫色の唾液がごぽりと溢れ出す。
思わず片手で口元を抑え込み、自身の身体が本格的に壊れ始めている事実に激しく顔を歪めた。
__いっとう、酷い。
普段よりもずっと症状が、反応が強い。
「.....これ、は.......」
なんだ、と、その原因を探ろうにも頭が、理性が働かない。
霧がかり、衝動にすり潰され、形を失ってゆく。
「..............あ...............」
最後に発したその呻き声は、未だ"アベル"のものであったろうか。
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「...ル、アベル何処だ何処にいる聞こえたら返事してくれ」
喉が腫れるほどに声を張り上げ、まっさらな地面を駆け抜ける。
既に正常な状態で無くなっているとすれば、確実に自力ではベースキャンプに戻れないはずである。
募る焦燥感に追い立てられながら、なお声を上げる。
ふと、雪の中に蠢く鈍色の塊がグレイの視界に過ぎった。
蹲るそれは、時折びく、と引きつけを起こしたかのように跳ねる。
「.....アベル」
そこには、大きな手で抑えた口周りを赤黒く変色させ、限界まで収縮した瞳をぶるぶると震わせるアベルが居た。
その身体の前に、凍りついた死体。
それを包み込む厚氷には無数の咬傷。
まさか、とグレイは戦慄した。
アベルの口唇を汚すその赤は、一体誰のものなのか。氷に焼かれたアベル自身の血液か、はたまた目の前の____...。
「....................あ、」
「.........ッッッッ」
焦点の合わなかったアベルの瞳が、ぎゅる、とグレイを捉えた。
瞬間、グレイが構える間もなく。
その剥き出しに発達し切った牙が、既にグレイの喉元に突き立っていた。
一瞬の冷温の後、反して燃えるような強烈な痛みがびり、と広がる。
「がっ......あ、ベル.....」
気道を押し潰さんばかりの圧迫感と痛みにに、グレイの呼吸が乱れる。
鋭い牙の食い込んだ場所から、アベルの熱と震えが体内に伝わってくるような感覚を覚えた。
しかし、ここでこのまま食われる訳には行かない。連れ戻し、この忌々しいウイルスから"取り返さなくては"。
ぎち、と皮膚が唸る程に拳を強く握り込み、グレイは全力でアベルの喉元を突いた。
...もう周りが見えて居ないのだろうか。
普段であれば未然に避けたであろうそれを、グレイの首筋にかぶりついたままのアベルは喉でもろに受け止めた。
流石に応えたのだろう、衝撃と一時的な呼吸困難でぐぱ、と口が離れ、黒紫色の唾液が宙を舞う。
「...ッもうそこまで....ッ」
「......ッかぁ.....ッッ」
牙を剥き出し、犬のように舌を出し、ハァ、と呼吸を繰り返すアベルにグレイは嫌な汗を滲ませる。
進行速度がおかしい。
アベルの体質についてはよく知っていると自負していたのだが、どうやらそれは自惚れであったようだ。
ここまで動物的に荒ぶる友人の姿を、グレイは未だ嘗て目にしたことが無かった。
「かッ、かかッ、」
威嚇音なのか声なのか、区別のつかない奇妙な音を響かせ、アベルがゆらゆらとグレイの眼前で身体を揺らす。
...完全に人の言葉がトんでいる。
1人で来るべきではなかったと、今更ながら少しだけ後悔した。
が、そんな悠長なことは言っていられないのが現状である。
エリックたちの血清が届くまで耐えなければ。
グレイは懐から剥ぎ取りナイフを取り出し、己の腕装備にぎゃりり、と擦り当てた。
火花が散り、付属する着火剤が燃え上がれば、激しい音と光を放って勢いよく救難信号が上がる。
狂竜症により感覚が過敏になっているのだろうアベルは、その音と光に大きく首を振り、呻きながら後退った。
...問題は、この吹雪の中信号がキャンプに届くかどうか。
グレイには酷であるが、どうやら持久戦に持ち込む他なさそうであった。
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「ぐっ...う....」
タガの外れたアベルの攻撃は、普段の彼からは想像もでき無いほどに苛烈で無茶苦茶だ。
武器を扱う能も完全に失い、その強靭な体躯ひとつで襲いかかってくる。
グレイは悪い脚を庇いながら、只管に防戦を強いられて居た。
「あっ...アベル....ッもう聞こえないのか...なぁっ.....」
グレイの呼び掛けには一切応じず、...いや、応じることが出来ず、ただただ声とも取れぬ音を喉から発し、アベルはグレイに掴みかかった。
___避けきれない....
反応が遅れ、胸倉を掴まれたグレイの身体が宙に浮く。
腹の下に風が通るような感覚。
その浮遊感にゾッとしたのも束の間、浮いた身体は勢いよく固くなった真っ白な地面に叩きつけられた。
「がっっ.....」
衝撃で肺の空気が一気に押し出され、背中がみしりと軋む激痛に襲われる。
勿論、それで終わるはずはなく。
赤黒い血管の浮き出た掌が、起き上がることの出来ないグレイの足首を握り込む。
__何を、
ぶわ、と腹の空く感覚が襲う。
グレイの身体が、再び宙に舞った。
天地が反転して、眼前に白が。
ゴシャッ、と鈍い音。
一瞬、グレイには何が起きたのか理解できなかった。
嫌にクリアな視界が映し出したのは、あらぬ方向に曲がった自身の脚。
「....ッッう、あがあぁああッッ」
思わずグレイが激しい悲鳴をあげる。
がしかし、人の理性を失ったアベルには何一つ響かない。
ひしゃげた脚から手を離さないばかりか、もう一度握りこんで持ち上げる。
激痛、という言葉では表せない。
それ以上の言葉が無い事が悔やまれる程の耐え難い痛みに、グレイは生理的な涙を流す。
脳に伝わる痛みの信号に耐えきれない身体ががくがくと震え、声も出せないまま再び叩きつけられる。
何度も何度も地面に打ち付けられ、額は切れ、鮮血が舞い、握りこまれた脚より下の部分は慣性に従って力無くぶらつく。
アベルはと言うと、狩猟時に負ったであろう無数の傷から黒紫色の血を流し、口唇からは同じく真っ黒な唾液をボタボタと垂らしながら、グレイを叩き潰す手を緩めずに吠え続けていて。
__このままでは、もうどうに、も、
薄れる意識の中でほんの少しだけ、グレイが諦めかけたその時。
「グレイ君」
知った声が響いた。
よく知った声。
霞む視界に揺れる、翡翠色の若者の姿。
「えり、っく」
「...ッッこれを」
エリックが投げて寄越した筒を、グレイは何とか手を伸ばし受け取った。
理性はなくとも、その物体が何かしら自分に危害を与えると判断したのだろう。
ひしゃげて曲がった脚から手を離し、アベルが距離を取ろうと身を引いた瞬間を、グレイは見逃さなかった。
離した腕を逆に掴み、その勢いで身体を持ち上げアベルに覆い被さる。
弱りきっていたはずの獲物が予想に反し反撃に出たことで、一瞬アベルの動きが鈍った。
「...ッッッああああああああ」
「かッ...あ...」
殴りつけるように、グレイが受け取ったシリンジをアベルの首筋に突き立てた。
深く刺さった鉄製の針から逃れようと、アベルが身を逸らすようにして暴れる。
それを逃すまいとグレイは両手でシリンジを掴み、刺さった注射針をより深く皮膚に沈ませた。
じうう、と筒を満たしていた液体がアベルの身体に注ぎ込まれる。
それでも尚暴れるその身体を押さえつけ続ければ、がくがくと痙攣を起こし、褐色の身体から完全に力が抜け落ちた。
「はあ...........は、.........はぁ、」
「グレイ君...
...っ......すぐに診せて。一旦処置をしよう」
駆け寄ったエリックが見たのは、あられもない姿の2人であった。
思わず声を詰まらせるも、すぐに持ち直し処置を申し出た。
その申し出に、グレイは真紅に染った雪の上で力無く頷いた。
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「........う、」
「....ぁ、アベル」
揺らぐ視界に、見慣れた天井が見える。
...鳥の隊共同テント。
怪我人が運び込まれる、救護テントの中。
異様に重く感じる自身の身体を何とか声のする方に傾けると、隣でぐったりとシーツに沈むグレイの姿があった。
数秒ぼんやりと見つめたあと、アベルの脳内に自身がグレイにしてしまった仕打ちの全てが一気に溢れ出した。
「あっ.................あ、ああ、グレイ、」
「......ああ、どうした...」
ぶわ、とアベルの身体に汗が滲む。
___俺は、一体、
自分のしでかした事の大きさを、
今目の前のグレイの身体が、そのひしゃげた脚が、まざまざと見せつける。
「グレイ、お、俺、俺....」
「...アベル、仕方がなかったんだ。...軽率に近づいた...俺にも責がある。
...だからそんな顔するな。
....ああもう、泣くなよアベル....」
自責の念に駆られボロボロと涙を零し初めてしまったアベルに、グレイは眉を下げた。
「仕方がなかったって言ってるだろう。お前しか対応できなかったんだから...。
兎も角、...お前が戻ってきてくれて、良かった。」
「....ごめん、グレイ、ごめん...ッ」
「....謝って欲しくて助けたんじゃないぞ...。」
「..................グレイ、」
「...ああ」
「....ありがとう............」
「...どういたしまして、アベル。」
鳥の隊共同テント。
その中の救護用テントから、2人の声が微かに漏れ出す丑の刻。
そのテントを見つめ、顔を歪める一人の女性。
身を翻しその場を去る彼女の髪は、
月明かりに照らされ、坪菫色に煌めいていた。