四月仕事の合間にデスク脇の小窓から眺めていた桜が、ようやく満開になった。
昼になったら中庭に出てみようか、いや自分に限らず、他の社員だって考えることは一緒だろうな。
あれ以来、人混みが苦手でそういった場所には寄り付かなくなった。
今までは何とも思わなかった、横を通り過ぎる人々の賑やかな声が頭の中に流れ込んでくると、たった一人で歩く俺の足はどんどん重くなって終いには耳を塞ぎたくなる。
まぁこのご時世に人混みができるなんて、都心を除けば正月の初詣や祭りくらいか………。それすらも、本格的に移住政策が始まれば見られなくなっちまうのか。
とにかく、春の陽気で浮かれた人々に囲まれたりしたら、俺は息の吸い方を忘れて真っ青になってしまうだろう。(嘘だと思うだろ 真面目な話だ)
「……あーあ、ったく」
いつからこんな卑屈になっちまったんだろうか、どっかの誰かさんみたいに。
投げやりな気持ちで椅子の背もたれに寄りかかる。ギシギシと嫌な音を立てるデスクチェアから、詰所の薄汚れた天井を見上げた。
――昼の予定なら決まった。
花見はしない。
その代わり、探しに行かなきゃいけないものがある。
花見をするときに必ず用意する「定番」があった。
アイツとの予定が立ったら、絶対にどっちかが買いに行く。ペットボトルの緑茶を片手に頬張る和菓子。
『やっぱり僕はこっち派かな』
流石はあの東海道に引けを取らなかった本線様だ。前に京浜東北が「つぶあん過激派」なんて言ってたのを思い出す。
『俺はフツーのやつも同じくらい好きだけどな』
『何言ってるの、全国的に普及してるのは道明寺のほうだよ』
『道明寺ってどっちだ』
『………文脈で分からない』
『どっちも寺の名前だろ わかんねぇよ』
今なら分かる。
こしあんで、くるくるっと巻いてあるのが長命寺。
つぶつぶの餅の中にあんこが入ってるのが道明寺。
つぶあん過激派のアイツが通っていたあの和菓子屋は、都心への移住を機に店を畳むのだと言っていた。
まだやっているだろうか。
もしやっていなかったら……つぶあんの道明寺を作っている店を一から探すしかない。
経済崩壊の危機に直面したこの国で、今でも和菓子を作り続ける店を見つけるのは骨が折れるが。
「あぁ、高崎さん もしかして今年も来られるのではないかと、孫と一緒にお待ちしておりましたよ」
さぁさ、どうぞ中へ、と迎えられるまま家の中へ入る。
「コウちゃん、ばぁばと一緒にお茶の準備をしてきなさい」
「わかった」
ぴゅんっ、と駆け出した子供が奥の部屋で「ばぁば〜 お茶だって〜」とはしゃいでいるのが微笑ましい。
「いやぁ、騒がしくしてすみません」
「いえいえ、お孫さんも大きくなりましたね」
「この春から一年生なんですよ。早いものです。あなた方から見たら、人の成長なんてあっという間でしょう」
そう言って微笑む人の良さそうなこの老人こそ、アイツが通いつめた老舗の和菓子屋の店主だ。
「……やはり、店は畳まれたのですか」
「えぇ、都心には一足先に引っ越した娘夫婦がおりますからね。孫の面倒を見ながらのんびり過ごすつもりですよ」
「……そうですか」
「もうこの辺りは人が少ないですからねぇ、経営が厳しいのもありますが………。よくいらした東北さんは、うちの一番の上客でした。私の代に限らず、それこそ大正の創業時の頃から良くしていただいたと聞いておりますよ」
「じぃじ、お茶だよ」
「おっコウちゃん、お手伝いありがとうよ。コウちゃんも桜餅食べるだろう、ショウちゃんの分と二個持っていきなさい」
「やった〜 じぃじのお菓子好き ありがとう」
「よく噛んで食べるんだぞ〜」
二人のほのぼのとしたやり取りに口元が緩む。やっぱり子供は元気なのが一番だ。
「改めまして今日はありがとうございました。自分たちのために桜餅を作ってくださるなんて、」
「いえいえとんでもありません 私もね、毎年楽しみにしていたんです。例え自己満足に終わってもいいから、この桜餅だけは作りたかった。……うちと東北さんの縁は、どうやらこの桜餅のようでしてね、この辺りで道明寺餅を扱うのはうちだけでしたから、それでお付き合いが始まったそうなんです」
「そうだったんですか……」
「えぇ、東北さんも当時は随分探されたそうで、うちには人伝てでいらっしゃったとか。今回この話を家内にしたら、餅を作るのに賛成してくれました。結婚してここに嫁いでからずっと、東北さんのファンでしたからねぇ」
ケンカするとすぐ引き合いに出すんですよ、困ったもんです。
そう言ってどこか寂しそうな笑みを浮かべた店主は、机の上に用意してあった店の紙袋をこちらに差し出した。
「もう次の春にはお会い出来ないのかと思うと悲しい限りです。今まで本当に有難うございました。高崎さん、東北さんにこれを届けてあげてくださいね」
――あの方はきっと、あなたと一緒に桜を見るのを待ち遠しく思っているでしょうから。
夜になり、外の人通りがなくなるのを待って、俺は自分に割り当てられた寝室から抜け出した。
このビルの中には社員が働くビジネスフロアの他に、俺達の宿泊所が併設されている。結構年季が入っているので、設備は大分傷んできている。空調なんてここ数年ヤバい音が聞こえるし。……とは言っても住んでるやつの殆どは来年までの命なので、正直そこまで気にしていない。
錆びた手すりに紙袋が当たってカンカンと音が鳴る。ゆっくりゆっくり階段を降りれば、月明かりが差し込む中庭に到着だ。
「――夜桜、何年ぶりだったっけなぁ」
去年は普通に、昼休憩に見に行った。
あのときの俺は一人じゃなかったし、別に周りが馬鹿騒ぎしてようがなんだろうが、その声は耳に届いていなかった。
こんな寂しい気持ちにはならなかった。
事務所からくすねてきた新聞紙を広げ、適当な芝生の上に座る。
右手の紙袋から、和菓子屋のロゴが描かれた紙包みを取り出し、端のテープを爪でピリピリとめくる。
いつもなら包装紙をビリビリに破いて小言をもらっていた。でも、今日もそうしたら、誰も何も言わないなんて、耐えられる気がしない。
包みの中から出てきた昔ながらの折箱には、丸々とした大ぶりの道明寺が四つ。
「……なんかいつもよりでかくね」
あのおっちゃん、サービスしてくれたのかな。
俺、甘いのはたくさん食えねぇんだけど。
想定外の出来事に逡巡していると、ぶわっと生温かい春の風が通り抜け、桜吹雪が月明かりにチカチカと輝いた。
そのうちの一片が目元までやってきて、反射的に片目を瞑る。
桜餅の上にふわりと着地したそれを見て、なんだか笑われてるみたいだと思った。
「……うっせ、お前の分まで全部食べちまうからな」
桜の花びらがのった道明寺を手で掴み、大口を開けて口の中へ放り込んだ。