五月「高崎」
「ん、何だ 京浜東北」
「14日の非番は晴れみたいだから、残ってた大宮の分、やるよ」
「……あー、」
「埼京たちは休みで出てくるんだから、君もしっかり働いて残業代を稼ぎなよ」
「分かったって。えーっと14日は……ちょっ、おい、この日の気温 見ろよこれ、暑すぎるって」
「先送りにしたって気温が高くなるだけだよ」
「そりゃそうだけど、5月でこれかよ……。昔はエアコンの温度設定とか口煩く言われてたけど、あの頃はまだマシな暑さだったな」
「そんな大昔の話を持ち出すとますます老人みたいに見えるからやめておきな」
「……はぁ、分かったって……やりゃいいんだろ……」
ぐったりと肩を落とした俺を気にも留めず、作業着を忘れないようにとだけ告げて京浜東北は去っていった。
「たかさきっ 頑張ろうね」
「テンション高いなお前……」
「埼京、あとからバテないように。武蔵野、君はもう少しシャキっとしなよ」
「いや〜厳密には俺の駅じゃないじゃん やる気なんて出ねぇって」
作業着とヘルメット姿でホームに集まったのは5人。俺と埼京、川越、京浜東北、あと助っ人で無理やり引っ張りだされた武蔵野。
この大宮駅も人口減少と共に構内がスリムになった。
と言っても構内配線が大きく変わったわけではなく、立入禁止のホームが増えて規模が縮小しているだけだ。
「とにかく、線路内作業になるから触車事故など労災には十分気をつけるように。僕達は車両の気配が感じ取れるけど、それだけをあてにはしないこと。見張り役はしっかりとダイヤを確認する。基本を怠らないように……」
「長いよ〜京浜東北〜」
「僕は僕で作業責任者としての義務があるんだよ」
「大方いつも通り頑張ろうってことだろ」
「そっか〜」
埼京へ大雑把な要約を伝える川越、あくびを噛み殺す武蔵野。
それはほぼ毎年繰り返されているような風景で、そんな気の抜けるような状況をクスリと一笑に付す人間の存在を真横に感じた高崎は思わず振り向いた。
「お、なんだ高崎 なんかいた」
もちろん【誰か】がいるはずもなくて。
「何でもねぇよ」
高崎はぞわぞわした感覚を振り払うように首を振った。
日差しがさんさんと降り注ぐ中での草刈りは、ここ最近デスクワーク中心の仕事をしていた高崎の体力をいとも簡単に奪ってゆく。
昔は山ほどいた駅員と共に除草剤を撒いたり、草刈り機をブンブン振り回したりしたものだ。近頃は人口減少に伴い駅業務自体が完全自動化され務めている人間も数名程度なので、こういった雑務は老い先短く体が丈夫な俺達に投げられることもしばしばだった。
「あっつ……」
線路上に降りていた高崎は、コンクリートの割れ目から力強く葉を伸ばす雑草群に除草剤を吹きつけ、額から流れる汗を拭った。
自分の持ち場の8割方ほど作業を終え、最後のもうひと頑張りの前に水分補給をしようとホームの先端にある階段へ向かう。
滑り止めのタイルが敷いてあるだけの簡易通路の上をヘトヘトになって歩いていた高崎だったが、足元に転がるバラストの一つをうっかり踏んでしまい、そのまま大きくバランスを崩した。
「うおっ……あっぶね」
鍛えられた体幹でどうにか踏みとどまる。背中に冷や汗が伝ったその時、向こう側のホームで【誰か】がくすりと笑う、そんな感覚がした。
『危なっかしいなぁ、高崎は』
遠くに見える、立入禁止のトラロープが張り巡らされたホーム。
人の手が入らず、伸び放題になった柱付近の雑草。
錆と汚れだらけのベンチ。
経年劣化でバキバキに割れた駅名標の下で、その幻覚は俺を笑っていたのだ。
『僕が除草に参加するのも今年で最後だねぇ』
『そうだな』
『このホームも来年から使用停止になるんだね』
『除草範囲が狭くなって助かるな』
『その代わり僕がいないんだから仕事量は変わらないよ。むしろ京浜東北は君のお守りをさせられて可哀想だ』
『本気で思ってないだろ、それ』
あはは、と大袈裟に声を出して笑った宇都宮は、あれを見なよ、と遠くの草むらを指差した。
『あそこにあった線路、もうあんなに埋もれてしまっているよ』
『………』
『来年の今頃、きっとこのホームの線路も少しずつ埋もれ始めているんだ』
『3月に廃線でそれは早すぎねぇか』
『だから少しずつ、だよ。雑草の生命力を舐めちゃいけないよ高崎。そして埋もれるのは記憶だって例外じゃない』
こっちへ振り向いた作業着姿の宇都宮は、真夏日に肉体労働をしているというのになぜか涼しげで、俺は言い表しようのない寒気を感じた。
『高崎。君は僕のいない来春からの一年間を通じて、少しずつ僕を日常から遠ざけて、土を被せていくんだ。それはごく当たり前のことで、気に病む必要なんてないよ』
『……そりゃどーだか』
『君の廃線日まで、1日たりとも僕を忘れないようにするなんて、自分の首を絞めるだけさ。だから人は忘れるんだよ。君も忘れていい』
――そして、ふとした時に思い出してよ。
「たかさき〜 大丈夫」
後ろから聞こえた埼京の間延びした声に、俺は現実へと引き戻された。
気付けば俺はホーム上のベンチに座っていた。まさか白昼夢を見ながら、ここまで歩いて戻ってきたのだろうか。
「ねぇ、顔色良くないよ 営業室からお水もらってこようか それか一緒に休憩室まで戻る」
俯く高崎の顔を覗き込んだ埼京が、不安げに眉尻を下げる。
「……わりぃ、水ほしいわ」
「分かったよ 京浜東北にも伝えておくから、ゆっくり休んでて」
そう言って駆け出した矢先に、何もないところでつんのめって転びそうになるのがいかにも埼京らしい。
そのまま騒がしく階段を駆け上がってゆく後ろ姿を見送った高崎は、空を仰いでふぅ、と一息ついた。
……ほんの少しの間、ひとりになりたかった。
一年前に宇都宮と交した会話を思い出す。あのときはなんとも思わなかったが、今まさに、あいつの言った通りのことが起きているんじゃないだろうか。
「――たまに思い出せ、か」
随分、酷なことを言ってくれる。
それとも、時折この胸の内をヒヤリと衝く悍ましい空虚すら見抜いた上で、あんなことを言ったのだろうか。
脳裏を掠める、悪趣味な笑い声。
「……もう勘弁してくれ。ちゃんと看取ってやったじゃねぇか」
天を仰いだまま、目頭に手をやって呻く。
そうだ俺は忘れたいんだ。お前のことを思い出さなければ、もっと楽な気持ちで、この一年を過ごせるのに。
でもあいつは、宇都宮はそれを許さない。
見覚えのある景色に、その長身をひっそり紛れ込ませて笑っている。
廃線までの僅かな時間を使って、あいつは俺の日常に、記憶のトリガーを散りばめた。
俺がそれに手をかける一部始終を、目を細めて、悠々と眺めているんだ――。
「たかさき〜 お水〜」
「こら。構内で走らない」
どうやら埼京が京浜東北を連れて戻ってきたようだ。
バタバタと忙しなく階段を降りてくる音に呆れたのか、幻影の気配が薄らいでゆく。
(……二人がこっちに来る前に、俺も気分を持ち直さないとな)
さり気なく口元を手で覆い隠した高崎は、その内側で口角を上げる練習をした。
(大丈夫、いつもみたいに笑える)
その口元だけの笑みが、宇都宮にそっくりであることも知らずに。
高崎の背後に揺らめく幻影が、すべてを見透かしたようにうっそりと笑った。