『さびしがりやのおやすみなさい』.
呼び出し音が数回鳴って、通話が繋がる。「薫?」とひそやかに虎次郎が呼ばわると返答は直ぐだった。
「まだ起きてたのか」
時刻は午前二時を回ろうかという時分だ。薫がそのように言うのも、無理からぬ話だった。「わりーかよ」と悪態を吐く虎次郎に、薫は吐息だけでつくる、ささやかな笑いを零した。
「すっかり宵っ張りだな」
「誰かさんのおかげでな」
虎次郎の甘さを含んだ詰りにすぐさま打ち返される筈の憎まれ口は行き場を失くして暫し、応酬に間隙を齎す。
「……はやく寝ろ、ボケナス」
やっと出てきた暴言に、虎次郎は溜息をひとつ。
「――……もういい」
「オーケーコジロウ。対話機能を終了します」
涼やかな女声。虎次郎のよく知るのとはまた趣の異なる、けれど理知的な機械の言葉。
「ありがとな、カーラ」
「いいえコジロウ。わたしはカーラではありません」
「……そうかい。おやすみ」
「えぇ、おやすみなさい」
ひゅぅん、空気の抜けるような音を立てながら発光部が青白く二度点滅し、そして沈黙する。スリープモードに入った証だ。物言わなくなったスマートスピーカーへ枕元から一瞥をくれてから、虎次郎は布団へもぐりこんだ。
時たま、どうにも眠れない時に、薫の遺したスピーカーで、薫の遺した声と話してみる。それで何が変わるでもないのに。
薫は死んだ。そして死ぬ、だなんて一回こっきりのものにも薫の計画性や用意周到さは発揮された。事実を呑み込ませるよりずっとはやく、何もかもをこざっぱりと片付けてしまう形で。
あれほどご立派な書庵も家屋敷も作品だって何もかも、綺麗さっぱり整理した、らしい。らしいというのは虎次郎がしたことなど殆ど何もないからだ。税理士だか行政書士だか弁護士だか、とにかくきちんとデキる人間がその仕事をして、薫の遺したものは清算された。虎次郎は四角四面の文書によって求められた薫の自宅の合鍵を、郵送で返還して替わりに送られてきたスピーカーを受け取っただけだ。
薫の生活空間の端々にあったのと同じ、平たい円柱。どうしてと思った。虎次郎に機械の世話が満足にできないと、薫なら分かっているだろうに。まぁ、カーラが自分でなんとかするのか。そんな気安さで電源を入れたそれは、見慣れたネオンピンクの輝きを放たなかった。
「かー、ら?」
「はじめまして。コジロウ。」
青白い光とともに、見知らぬ女の声がした。
わたしに名前をつけてください。命名により、使用者権限が開放されます。わたしのマスターになってください、コジロウ。
あれから何度「カーラ」と呼んでも、機械はそれを否定する。AIの名前など、虎次郎は『カーラ』しか知らないのに。
機械の『マスター』でない虎次郎にできることは少なく、また関心も持っていない。ただの置物に近いそれの、ほぼ唯一の機能は録音されているらしい薫の声を継ぎ接いだ、会話の真似事だけ。
確かに薫の声で、確かにそれらしい反応をする。「ボケナス」「どあほう」「スケコマシ」流れるような毒舌も打てば響く暴言も、機械は何故か、気遣うような躊躇いを挟む。「……はやく寝ろ、ボケナス」なんて。そんな可愛らしいおやすみのボキャブラリーが、薫にあっただろうか。虎次郎には、もうすっかりわからなかった。
だからだろう、虎次郎はつい、カーラを呼び覚まそうとする。それは、薫がもう二度と虎次郎の前に現れないことよりよっぽど、諦めの付かないことだった。
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