『見えない』を愉しむ.
新月の晩、星灯だって心許ない夜。
そんなのは大俱利伽羅の視覚にはひどく煩わしい。鳥目という程のことはないけれど、総じて太刀の刀剣男士は暗闇に弱い。短刀らが容易く色形を識別する薄闇にも不便さを感じ、脇差達がスルリ侵入する屋根裏は体躯の問題だけでなく窮屈で。
そして打刀――山姥切国広が、先を行く暗闇の廊下を、その足音に頼って着いて回るより他なかった。
「おい、国広っ」
しんと冷えた廊下では、ひそめたはずの声は意外なほどよく響いた。だというのに、呼ばわった方は応えない。もしかしたら視線くらいは遣ったのかもしれないが、今の大俱利伽羅には知りようもなかった。なにせ物の輪郭がなんとか拾えるか、という程度の見え方なのだから。
「どこまで行く」
同じだけ声を出し、同じだけ静けさを破ったはず。けれどやはり応えはない。ハッキリとした声量だと思っているのは、頼ることのできない視覚を補う、他の感覚によるものなのか。
「くにひ、」
「いいから」
一段、声を高くしたのを遮られる。手を取って引くのが、言葉が示すよりも明確な国広の意思だった。
所在のない手を迷わず掴んで指を絡めてくるので、暗闇は国広に味方するのだと思い知る。大俱利伽羅の方は、触れられて初めて、手が伸びてきていたのもそれが彼の左手であったことも、ようやく分かるというのに。
導かれるままに進むのは、よく知る本丸のひと区画。方向を失うようなことはないはず。だと言うのに落ち着かない。日中は気配に満ちる場所が静かであって、そこに常にない強引さと読めない意図で国広の存在ばかりがあるからだ。
繋いだ手の感触が際立つ。絡んだ指のひとつひとつ、関節のおうとつ、押し付け合う手のひら、やわらかな母指球も硬くなった肉刺も何もかも。そんなのを頼りにただ歩く。
大俱利伽羅がいい加減に焦れる頃、国広の足がやっと止まり、ある一室に導かれる。見えていなくとも感覚で、そこが普段打ち合わせなどに使われる部屋のひとつであることが分かる。出陣もなく皆が寝静まった夜、当然にそこはがらんどうだ。
タン、と襖の閉まる音さえよく響くほど、他者の気配は遠い。四畳半の部屋は辛うじて窓がひとつ。ろくな家具がなくとも狭い。狭いが、見渡すこともできない程に暗い。
導いたのに、国広は灯りも点けずにいる。先んじて電灯を求め指先を壁に伝わす。また捕まった。やはり、暗闇は国広に味方する。
「……どうした」
すこしばかり、詰問する口調になった。言葉として返るものはなく、かわりに、捕まった指先にきゅっと力がこもる。やわらかく握り返す。ぴくんと跳ねてすぐ大人しく納まる。緊張しているのだろうか。触れた体温も低く思えた。
焦れったいくらいの沈黙が続いて、繋がる指先の体温の境界が溶ける頃。やっと、唇の開く気配がした。
「……聞いた」
「…………なにを?」
「刀種の……」
「あぁ、その話か」
大俱利伽羅を含めた一部の太刀の顕現方法が変更される、という沙汰が審神者へ通達されたのはつい先日。当事者である大俱利伽羅は内々に話を聞かされていたが、国広のもとにも報せは届いたらしい。耳の速いことだ。
「見えてる、のか?」
「うん?」
絡んだ指先がはぐれた。予備動作を捉えにくい分、逃げた行方を推察するのが難しい。
「見えていない?」
鼻先をふぅ、と空気の靡く気配。恐らく顔の前で手を振っている。視覚を確認するために。国広は大俱利伽羅の『見え方』が気がかりらしい。
伝わった話は、どうも情報が欠けているようだ。「見えない」返して一歩、前に出る。当然に距離は縮まり、僅か、息を呑むような気配がした。
更に一歩前。肩と、腰のあたりへ手を伸ばし、抱き寄せる。今度こそ本当に、ヒュ、と息を呑むのが聞こえた。鼻先を埋めた肩口から、せっけんの匂いがする。もうあとは眠るだけ、の支度をしているのはお互いさまなのだ。
「俺が『見える』ようになるのは都合が悪い?」
顔を上げ、コツンと額を合わせる。ほとんど存在しない身長差は、覚束ない視覚であっても容易にそれを叶えた。
自分でも意地の悪い問いかけであるというのは分かっている。けれど聞かずにはいられない。案の定、国広はうぐ、と喉の奥で呻いた。
「……そういうわけでは、ないんだが」
ボソボソと、きまり悪そうな声がゆっくり室内を埋める。
「今、俺にはあんたが、顔をしかめているのも見えるし、そのクセちょっと楽しそうに、瞳の色を明るくしているのもわかる」
一方的だった抱擁が、恐る恐る返された。背中に当たる手のひら。温度までは分からない。まだ、緊張に冷えているだろうか。
「あんたも同じように、俺がどうなってるか見えるようになるのは…………嫌ではないが、緊張する。それだけだ」
フ、と吐息混じりに話す声に、諦めにも似た自嘲があった。
話を聞きつけて、気にして気にして、我慢が効かず引っ張ってきたのはあくまでも勢いだけだったのだろう。思考を言語化する内、衝動の内訳が見えてきたらしい。
もしかしたら布団の中で悶々としていたのかもしれない。共寝をする時、向かい合うか後ろから包まる恰好になるか、さんざ迷う時みたく。
そうだったらいいのに。
想像に、大倶利伽羅の胸は甘く踊った。ゆめうつつの褥にあって、コロコロ転がる国広の、覗くうなじや耳の仄赤いのが脳裏を過ぎる。
「何も見えないな、今は」
「は、」
また、息を呑む音。見えなくとも聞こえている。いつかの夜のように肌も赤い。見えなくとも、きっとそうなると知っている。
「『見えない俺』は今の内だぞ、国広」
見えなくとも。否、見えないからこそ伝わるものがある。とは、言わないまま。
そっと、肩を首を顎を伝って、頬へ触れる。やはり熱い。
「――……な、んにも、……見えない。なら、」
そうだ。見えない。けれどもぎゅう、と縋る力が強くなったことはわかる。
新月の晩、星灯だって心許ない夜。大俱利伽羅の瞳には、一層弱く射すひかり。
「……今のうちは、さわって、確かめてくれ」
ささやき。触れる肌。
頼ることのできない視覚を補って、声はつよく、熱はあつく。じんじんと痺れるくらいに、伝う。
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『さわって』と囁いてそのとおり触れられる。大俱利伽羅のやさしい指がじんわり熱く、きっと同じだけ自分の頬も熱い。
「国広」
呼びかけ。呼んだくせ、触れていた指で頬から唇まで伝っていく。喋らせてくれない。唇のあわいに人差し指の背をつぅと沿わせ、止める。間近にあった顔が更に近付いた。揺れる前髪、見つめてくる瞳の煌き、鼻梁が擦れるその瞬間。全部を視界に納める。
唇を塞ぐ指が、大俱利伽羅の唇に取って代わった。
――あぁ。確かめていたんだ。
唇の位置と距離。指先で測って、そうしてこんな口付けをする。『さわって確かめて』国広が唆した、とおりに。
心臓が大きく脈打つ。わーっと叫び出したいような、反対にぎゅっと縮こまってしまいたいような。そんな心地を押し留めてこちらからも唇を押し当てる。やわらかい。やわらかさの向こうの硬い歯列の存在感。離して、もう一度。
お互い、目は開けたままだ。けれど見えているのは国広だけ。
ぞくぞくする。
閨は、大倶利伽羅が暗闇に弱いのを知っているから、彼に合わせた光量を取る。太刀の視界にはぼんやりと、打刀には十分過ぎる、そんな明るさ。気恥ずかしいし、それくらいがちょうどよい。
裏を返すと、こんな星屑程の明るさで触れ合うなんてなかった。
本当に見えないのだ。そして見えないと、大俱利伽羅はこうやって国広の存在を確かめる。
知らなかった。知ってしまった。
息継ぎのフリで唇をまた離す。だって、触れたままなら国広がだらしなくニヤけているのまでバレてしまう。離れて、一層に熱くなってしまった呼吸を逃がして、それからもう一度口付ける。油断すると持ち上がりそうになる唇の端っこを宥めながら。
やっぱり、大俱利伽羅にも見えるようになるのは、都合が悪いのかもしれない。
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