まずは聴覚。時計の音。狂わぬ感覚で小気味よい。
次に把握。この感覚は、ベッドの上。
次に、鼓動。あぁ僕は、生きているのか。
薄っすらと目を開ける。間接照明。右側からは遮光カーテンですら隠せないきらびやかなネオンの色。
…ピノコニー。まだここに居るのか。
「…きょーじゅのせいだなぁ」
真っ白な頭の中。真っ暗な闇の中で見た処方箋。せっかく覚悟を決めたのに、怖くなってしまったから。…戻りたくなってしまったから。
「目が醒めたかギャンブラー」
左耳から流れ込んだ情報に頭が追いつかない。
「因みにここは現実、だ。」
「わ、…わかってる、よ」
「ほう、アホな君でも理解できたか。それは良かった」
え、うそ。
うれしい。
なんで?
「は、なにそれ僕のこと何だと思ってるの。少しくらい生きてることに感動してくれてもいいんじゃない?あんな感動的な処方箋なんて書いてくれたってのにさぁ」
「それを握りしめていたのは誰だ」
「うそ」
「本当だ」
勢いよく起こした上体を俯かせて。
はぁ、とため息を付くフリ。
口元が、緩む。
それも一瞬で消えて。
「大体君は本気で死ぬ気だったのか?死んで何になる。」
「う、るさいな…」
やめて
「命を粗末に扱うなど愚の骨頂だな。はぁ…まさか本当にあの処方箋が必要になるほどのアホとは…」
「ちょっと…黙って…」
「何故?」
何でここにいるのさ。本から目を離しもしないで。今更こっち見たって、遅い
「口を開けば憎たらしい言葉しか出ないのかいキミってば。全くつまらないなぁ」
両手を広げて。痛い身体を軋ませて。痛い心を軋ませて。笑顔を作る。簡単さ。
「…ねぇ教授、ちょっと目を瞑ってみてよ」
見てよ、こっち。
「前にちょっとした催眠術を習った事があってね、キミにかけてみたいんだ」
ボクを見て。
「アホ。そんなことをしている場合ではないだろう」
こちらが覗き込んで、やっと目が合うキミの目は、呆れてる。わかってる。
「…いや、今じゃなきゃ、ダメなんだ」
「はぁ?…はぁ、」
呆れて。それでいい。聞いて。効いて。
「僕に…優しくなぁれ。優しくなぁれ」
まるでトンボを捕まえる子供のように。眼の前でくるくると人差し指で円を描く。貼り付けた得意の笑顔で。
「…何だ?」
「あれーおかしいな。僕の目を見てこのオマジナイかけたらみんな優しくなるのになぁ…」
あ、だめ、かも
「…ギャンブラー」
真っ直ぐに僕を見つめて。腕を掴まれる。
顔をそらしたいのに。虚勢はもう、ムリ
「…優しく、なってよ…今、だけでいいから…」
目の奥が熱い。こんな生理現象は止められない。いつの間にか着替えさせられていたシルクの紺色パジャマに染みができる。
「はぁ…そんなふざけた物に僕がかかると思うのか…それに、」
止まらなくなった僕に吐きかけられる言葉。もういいよ。耳をふさぎたいんだ。手を離してくれ。
「そんなもの…僕が今一番してやりたいものだ」
「…?」
その信じられない言葉に、見開いた目から溢れる涙。
「…ぁ、え…?」
やっと上げた顔、先程と変わらない眼前の表情。…のはずなのに。どこか、苦痛。
「泣くな。目が腫れる」
「誰のせい…」
「僕か。…はぁ。どうすればいい」
少しそらされた瞳からは暖かい光
「どゆこと…」
「僕は思った事を素直に口に出す。君もわかっているだろうが。…君の、望むことが出来ない。判らない。こんな時に、どうすればいいかなんて。僕でも知らないんだ。」
動揺、してる…?
この教授が?
ほんとうに?
「…それじゃあ、えと…抱…ハ…」
「だは?何だそれは」
キミの体温を感じたい。なんて、言えそうにないけど。これがボクの精一杯。
「………ぎゅ、て、して」
己の太ももの上で作られた2つの拳が震えているのが見える。かっこ悪い。
だって、こんな、自分の希望を伝えるなんて。苦手なんだ。
「…こう、か」
…ふわり。
僕とは違う。
僕の人工的な、汚れた臭いを隠すための匂いじゃなくて。
もっと、きっと、あったかい、まるで日光浴のような。
「…うん。あと、頭に、手置いて」
とくんとくんと聞こえる心臓の音。こんなにも落ち着くなんて。
あぁ、教授。穢れてしまうよ。
それなのに、してほしいことは沢山溢れてきて。欲張りになる。
与えられることに慣れていないから、どこまで貰っていいのか、わからない。
「こう、か」
ぼす、と頭頂部に無造作に置かれた大きな手。人の頭なんて撫でたことないんだろうな。
「…じょーず。」
「はぁ…何故君がそんなに偉そうなんだ」
そういいながらも、まるで壊れ物に触れるかのようなその手の動きに身を預ける。
さっきまで冷たかったのに、今度は暖かいものが頬を伝うのがわかる。
「おい、顔を上げろ」
「いやー、ちょっと無理かな。…このままでいさせてよ」
ため息を付くその息がボクの髪を揺らして、なんだかこちょばしい。
…こんな人生を歩いてきてるから、人の変化にはとても敏感で。こんなほんの少し、鼓動が早まるのだって気付いてしまう。…それは勘違いしてしまうよ。
「…ねぇ、賭けをしようか」
だから、支配される前に切り捨てないと。
「ふん、根っからだな君は。急になんだ」
ふふ、と覚悟の笑みを漏らす。この賭けに勝ったら、ボクは、キミを忘れるよ。
「僕の頭に今浮かんでる言葉。当ててみて。世界一難しい3文字だよー」
「ほう…それを僕が当てられたら何をくれるんだ?」
意外にもノッてくれるんだ。優しいなぁ。
「あははっそうだなー20…いや、200万信用ポイントくらいなら軽く賭けるよ。きょーじゅは何を掛けてくれる?」
キミがくれるものを思い出にさせて。
「ふむ…そうだな。…僕の、人生を、賭けようか」
「へぇ?ふふ、可笑しいな。まるで自信ありげじゃないか?僕はキミの人生なんていらないよ?」
自分でも驚くほどにすぐに出た言葉。でも頭は混乱していた。
そんな重いものかけられる覚えなどない。
「覚悟の問題だ。答え合わせていこうかギャンブラー」
「な、なんだよ、冗だ…」
早すぎる。待って。正反対のことを言われたらボクは…
「『すきだ』。」
「…へ?」
余りにも、予想外の言葉が降ってきて、驚いて顔を上げた。
「アホの君にはこう言った方が解り易いか?『愛してる』だ。」
「いや、…え?ぅぶっ」
「全く。形容動詞を問題にするなど愚の骨頂だ。名詞である2文字を正解とすべきだったな。」
そのまま片手で両頬を摘まれていつもの堅苦しい言葉が並べられる。
だって、2文字なんて言ったら。キミは優しいから心にもなく応えてくれてしまうから。
「…僕を舐めるな。ギャンブラー」
そう言うか言わないか。視界には群青色。
「んっ…」
それは乱暴で、優しくて。一呼吸置いて顔は爆発したかのように熱くなった。
「…先程君は僕の人生など不要だと言ったな。賭けに勝った僕に言わせてもらおう。」
近い。瞳に映るボクはなんて間抜け顔なんだろう。
「信用ポイントなど不要だ。君の人生を、貰おうか」
「お…重くない…?」
少し乾いて来ていた頬の涙を優しく親指で掬って。優しく頬を摘まれる。
「二人で持てばいい。不満か?」
ああ、すごく。心から溢れてくるこの気持ち。嘘だ、なんて思う暇もないくらいに降り注ぐ。
「…えへへ、全然」
「いい子だ。」
人生初の負け。
全てが無くなるはずのLose
…でも、きっと。僕にとってはLoose