洗面台で歯ブラシを口に含んで、ふぁ、とあくびを1つ
先程まで無かった人影が見えても驚く様子もなく、
「おはようイファ。」
「んー…おはよ。」
「お腹冷えるよ」
シャツをめくって腹が痒くて掻いていたら怒られた。
「かぁちゃんか」
「オロルンだよ」
「知ってるよ」
もう一度洗面台に戻りうがいをする。居間で何かをしている音がする。
「今日の昼は?」
頭を掻きながら戻るといい匂いがした。
「グレインポソレ。ばぁちゃんと昨日の夜に作ったんだ」
「やり、さすがきょうだい」
新しいワイシャツに袖を通してボタンを止める。
「あとカチーナからちび竜ビスケットも貰ってきた」
「よっしゃ!食べやすいしありがたいぜ!」
ついテーブルに見に行ってしまった。ふと横を見ると腕を組んだオロルン。
「…なんか僕の時より嬉しそうだ」
「なんだヤキモチか?そりゃお前より美味いからなぁ」
早速1枚頂くと、ふわっと甘くサクッと砕ける。うまい。
「む…僕とカチーナどっちが好きなんだ」
朝から面倒くさいやつだ
「…それわざとならよしてくれ。素ならやめろ」
「素だ」
「やめろ」
「いやだ!」
「あのなぁ…」
こうなるとどうにもならない。言うことを聞かないといつまでも先に進まないし機嫌も悪いままになる。
さっさと言うことを聞くに限る…が。
「…お」
「名前で呼んでほしい」
死ぬほど恥ずかしい。今帽子ねぇから隠せねぇんだよ。
「ーっ……好き、だよ。オロルン」
「僕も好きだ」
「はいはいわかっ…ん」
さっきまでの表情が嘘のようなにこやかな笑顔が近付いたと思ったら、キスされた…
「お前なぁ仕事前だぞ…っ」
「自分の気持ちには素直になれってばぁちゃんが」
「時と場合にもよるだろ!」
顔が火になったように熱い。どうしてこいつはこんなにも普通にやってのけるんだ。俺はこんなにも慣れないってのに。
その時、コトリと音がした。
「おはよー…きょうだい…」
「おーカクーク起きたか。まだ眠いんだろ。今日は忙しいぞー水浴びでもしてこい。飯はここにあるからな」
「うんー」
ふらふらとなんとか飛びながら片目をシパシパさせた状態で風呂場へ向かった
「君も水浴びしたらどうだ?」
「せめて顔洗うつってくれ」
…言う通りに顔を洗って。
白衣に腕を通し、帽子を被って。
物品チェックと必要そうな薬剤の確認。藁が清潔かのチェック。もろもろ。
「…うっし、開けるとするか!」
仕事のスイッチを入れた。
◆
ドアを開ければそこには開院を待っていた患者がすでにいる。
そう、今日は月曜だ。週末だから、面倒だから、日曜に行くまでもないか。そう思った患者が待っていましたとばかりにくる日。もちろん悪化している場合もあるから重症度も高い。
「よーし。まずトリアージとるからなー。動けないやつは赤だ。中入るの手伝うから鳴くか手あげろー」
三組、該当したためオロルンと一緒に運び込む。
「ひとまず藁に横になっててくれ。オロルン頼む」
「うん」
そして一旦表に出ると、カクークが簡単に判別してくれていた。
「よし助かる。ぱっと見元気だなーお前ら。安心したよ。」
キュイキュイ、クワクワと元気な声が響く。
「よーし後で診てやるからなー。待ってる間にそこの果物とか野菜食ってていいぞー。新鮮だ」
朝一でオロルンが揃えてくれた物だ。
再度歓喜の声が聞こえてみんなそっちに向かっていった。捻挫もいるようだが歩けてはいるから急ぎでもないな。まずは中捌くか。
ガチャリとドアを開けて中に入るとオロルンがお湯を沸かしてくれていた。
「簡単だけどわかったことはまとめておいた。役に立てばいいけど」
「いや、助かるよ。サンキューきょうだい」
「ふふ、じゃあ僕は外の仔たちと遊んでるよ。カクーク呼んでくる」
「助かるー」
視線は各患者に向けながらオロルンと会話をする。
遊んでくる、とは言っているが何かあれば教えてくれる。本当に助かる。俺一人じゃ手の届かないところだ。
…まずはグッタリしてるこっちからだな。
◆
カルテ①
『テペトル成竜(友達のライノが連れてきたみたいだ)
肌が乾燥している。ウロコに粉がふいてる。』
「お前が連れてきてくれたのか?」
心配そうに寄り添っているライノ竜が小さく鳴く。
「頑張ったな、ありがとう。」
と、頭をなでる。そこにカクークが来た。少しライノ竜と会話をして、
「あえなかった!倒れてた!」
「ふむ…」
遊ぶ約束でもしてたが来なくて、心配で迎えに行ったらこうなってたって所か。
「テペトルくんちょっと触るぞー」
鱗の付け根がかなり乾燥している。オロルンのメモ通りだ。口の中も乾燥。脈も速い。重度の脱水だな。飲んでも間に合わないなこりゃ。
「よし、よく聞いてくれ。君には点滴が必要なんだ。針を刺す。そしたら暫く横になってくれれば良い」
カクークが簡単に通訳してくれている。急にテペトルくんが足を踏み鳴らし首を振った。…まぁそうなるか。
「でもなぁ、このままじゃカラッカラになっちまう。ライノくんちょっと手伝ってくれるか?」
テペトル用の点滴の針と、体に吸収されやすいよう調整した点滴…成竜だから量は多い。袖をまくりながら気合の一息をつく。
…テペトルの場合、鱗の間に静脈があるからただでさえ硬い鱗をめくって刺さないといけない。それも嫌がってると来たら暴れるのは確実。こっちのパーティーはカクークとライノくん。
「カクークは危ないから下がってろよ」
「きょうだい…」
「大丈夫だ」
手袋をはいてすぐにつなげられるよう接続する。ライノくんの協力で腕は出してくれているから消毒液をかける。
「よし…刺すから痛いからな。ごめんなーっ…と…痛…ーーっ」
反対の手の爪が左腕に刺さってる。でも今のうちに留置しちまえばこっちのもんだ…
「…よしっ固定も出来た。もう大丈夫だぞーテペトルくん。もう痛いことはしない。爪抜いてくれるか?」
ハッとしたようにゆっくりと抜かれるがかなり痛い…。顔には出せない。
「ふぅ、助かったぜ。ん?悪いことしたって顔してるな?お互い痛かったからおあいこだな」
笑顔笑顔。背中を伝う冷や汗。
点滴の速度を合わせて、ライノくんにも感謝を告げて。
その場を離れて腕を洗う。見る見る赤くなったが気にしないことにする。適当に消毒液をぶっかけて、片手と口で簡単に包帯を巻く。他の患者に心配されちまわないようにこれくらいはしとかないとな。腕まくりはそっと下ろした。
カルテ②
「あっ」
「おうちょっと待ってなー」
んーと?『この子はチルカ、そしてルル。熱が出ていて爪も剥がれてしまっているようだ』
…どっちが竜の名前なんだよ。
「えーと、」
「あ、私がルルです」
「ルルさんわかる範囲でどんな状況だったか教えてくれるか?」
あぶねー竜がルルだと思ったよ…
「えと、今朝起きたら熱が出てて、よく見たら足の爪が無くて…昨日まで普通に毎日お散歩行ってたのに、私が気付かないといけなかったのに…」
「大丈夫だ、ありがとう。それだけ分かれば充分だよ」
ポロポロと涙を流すその子の頭を軽く撫でて、チルカを観察する。
すでに止血されており周囲が腫れて赤くなっている。昨日今日でないことは確かだな。
爪甲剥離からの発熱ってとこか。
「チルカ、もしかして心配かけたくなくてここ数日黙ってたのか?」
見上げると小さく鳴いて頷いた。
「そんな、だって昨日もいつも通りのジャンプ見せてくれてたのに」
「たまにあるんだよ。治るだろうと思って心配かけたくないし無理していつも通りに振る舞う仔が。君のチルカは優しいな…でも」
振り返って少し怯えているそのユムカ仔竜を見る。
「黙っててもよくはならないし、こうやって心配させちゃうから次からはちゃんとすぐ言うんだぞ?」
申し訳なさそうにきゅ、と鳴いて頷いてくれた。
「よーし、いい仔だな」
チルカの頭を撫でると安心したのか擦り寄せてきた。そのまま撫でながら治療方針を伝える。
「ひとまず抗生剤の点滴をする。あと菌の検査をだすのと、傷は洗って抗生剤の薬を塗るのときれいなガーゼで保護する。熱があるから念の為暫くは入院が必要になるがいいか?」
敗血症が怖いからな。培養で菌の種類さえわかれば効果的な抗生剤も選べる。どっちにしろ数日かかっちまうしその方がこの子も安心だろう。
「あ、はい」
「ん、じゃわかる範囲でこの紙に書いてることに答えてくれるか?」
ユムカ竜は足の甲に分かりやすい静脈があるからそこからルートを確保する。さっきのように暴れる様子がなくて内心ホッとする。抗生剤をつなげて、と。
「よし、んじゃ離れるけどなんかあったら教えてくれよ」
「はいっ」
さっきより格段に元気な声になったルルに笑顔を向けて次へ。
カルテ③
…ん、添え木がされてるってことは骨折と見たのか?
『仔竜が患者。かなり痛そうにしている。左脚の方向が少しずれていたから添え木をした。』
「確かに腫れてるな。えーと、なんでこうなったか見てたかいお母さん?」
隣には立派なクク竜が付き添っている。羽根の特徴から雌なのはわかるし今いるってことは親だろう。
「落ちた!」
「そりゃまた簡潔なこった」
カクークが翻訳してくれる。まぁこれくらいの年のクク竜なら飛ぶ練習がうまくいかなくて落下、捻挫や骨折なんてザラにいる。なんならそれで骨が丈夫になるっつーこともあるからな。
「ギプス固定で暫くは飛行訓練はしない。ご飯をしっかり食べるんたぞ?明日とその次の往診で見に行くからここまで来なくていいからな。あと苦くない痛み止め出しとくか」
水に濡らして包帯のように巻いて、関節は問題ないが骨折部に響かないように足首、踵まで巻きつけて…と。
「乾いたら固まるからな。母さんの背中に乗っけて貰って帰るんだぞ。頑張ったな」
そこを出たらテペトルくんの点滴が落ちてるかとレベル確認。
チルカの入院準備。
クク仔竜の体重測定とそれに合わせた鎮痛剤の量で1週間分の処方。
チルカを入院部屋に連れていきクク仔竜を見送った所で少し目眩がした。
ガタ、と倒れ込むように座り、数時間ぶりの水分を含む。
「ふー…」
もう昼はとっくに過ぎてる。ひとまずビスケットを頬張って糖分補給。頭が働かなくなっちまう。
グレインポソレが美味そうに置いてあるが休憩時間を取れそうにないので唾を飲み込むだけに留める。
「ん、よし!」
頬を叩いて気合いを入れて、外への扉を久しぶりに開く。
「サンキューなオロルン」
「あ、じゃあ僕は中に入ってるよ。何しとけばいい?」
「あーテペトルの点滴が落ちてるかどうか見てくれ。たぶん落ちきるころには帰れる」
「わかった…何か食べたか?」
きっと見透かされてるし実際見てわかるから嘘はつけないがなかなか答えにくい質問だったりする。
「あー、水分はとったよ。あとビスケット何個か」
「よしよし、偉いな」
「やめろ」
頭を撫でようとしてきたのを止めた。
外の患者は軽症で、
擦り傷、切り傷、打撲、捻挫。簡単な処置で自分たちで帰っていった。
「イファ、テペトル竜が元気になったから帰りたがってる。」
「あーりょーかい。点滴抜くわ」
オロルンが見ている中で不安に駆られたが抜く時は暴れずにいてくれたから助かった。
◆
テペトルとライノを見送って、やっと落ち着いて家に戻る。すでに日は沈みかかっていた。
「助かったぜーオロルン。悪いなせっかくの飯。鍋でもっかい温めて…」
「イファ。僕に何か言うことないか」
ぅ、と声が漏れる。目ざといと言うかなんというか。かなり低い声で怒っているのがわかる。
「さっきまでは患者さんの手前言わなかったけど、」
「いてぇっ!」
おもむろに、乱暴に袖をたくし上げられて、左腕に乱雑に巻かれてほどけかけている包帯があらわになる。血が滲んでいる。
「イファ、自分を適当に扱うのは僕は許さない」
包帯が取られると周りが赤くなっている。ほぼ一日ほっておいたようなもんだから感染しかけてる。
「君ならこの傷を見たらどういう処置をするか教えてくれ」
「…えと、抗生剤の処方と、泡で清潔に洗って、ガーゼで保護して、包帯を巻く…」
「…わかった。」
物の場所に迷うことなく必要なものを揃えていく。…俺はなんとなく気まずくて机に腰掛けたまま待つことにした。
「はい腕出して。洗うよ」
「いって!もう少し優しく…」
「誰が悪いんだ」
「…わかったよ」
痛さに顔を歪めながら、オロルンの少したどたどしい処置を受けていく。
包帯を途中まで巻いた所で
「…悲しい」
とポツリ。
「…悪い。でも忙しくてよ」
「でも、僕の大事な人なんだから。」
まるで他人事のように言うが俺のことだ。顔に熱が集まるのがわかる。
包帯を巻き終わり、そのまま腕をスルリと撫でられる。
ゾクリと、痛みと違う別の感覚が襲う。
そのまま少しずつオロルンの指が触れるか触れないかで上に上がってきて、首、顎、唇に触れてくる。
ゴクリ、と。生唾を飲む音が自分でも聞こえた。
「…イファ、」
両手で、優しく頬を包まれる。
「ん…ふ、ぁ…ん、ん…」
片手が後頭部に回されて、反対の手で胸を押されて、机にそのまま押し倒される
「ぁっ…オロ、ルン…んんっ…」
深いキス。脳への酸素が足りなくなって、ボーッとする。やっと離れたと思うと淋しくて、
「…今日、泊まる…のか…?」
と、無意識に口走っていた。
「ううん、帰るよ」
「へ?」
??
「…え、マジで?ここまでしといて?」
「うん。だって明日もあるだろ?足腰立たなくなったら仕事にならない事くらい僕にもわかるよ」
優しげな表情で、まるで乱暴に抱きつぶすつもりだと言わんとする語彙の強さを感じてしまって、ゾクゾクする。
「ぅ…し、したくないの…か?」
その言葉に、オロルンの眼に光が灯る。ぐいと引き寄せられて、俺の耳にオロルンの唇が触れる。
「ん、ぁ…」
「したいよ…本当は今すぐイファの泣き顔が見たい」
悪戯な声とちゅ、と軽いキスを耳たぶに落とされて、
「土曜日にまたくるよ。…夜ご飯一緒に食べよう」
また普段の笑顔に戻ってしまった。こうなったらお預け確定だ。
「あー…おう、わかった」
正直生殺し過ぎる。が、オロルンの言うことが正論のため言うことを聞くしかない。
それから、何事もなかったかのように。
仮眠を取っていたカクークと一緒に3人で温め直したグレインポソレを食べて、
「じゃ、また土曜日に」
「水曜いつもんとこにいるんだろ」
「うん」
「…わかった」
「ふふ」
「なんだよ…」
「んーん。おやすみ。イファ」
「…おやすみ」
「きょうだいおやすみ!」
「カクークもおやすみ」
閉まるドア。疼く身体。カクークが寝たら一人で慰めて眠るしかない。
忙しい月曜日の俺のご褒美。