緊張の糸が切れるって、きっとこういうことなんだと思う。
何日、ここに来なかったんだろう。…いや、一ヶ月は経っているだろうか。
長い、長い戦争が終わって。
重い足を引きずって自分の家へと歩を進める。
一晩続いた追悼会。明け方になって抜け出した。いつまでたっても会えないから。
旅人とマーヴィカ様が聖火に飲み込まれる時も、現れた時にも、競技場にはいなかった。
…最後に会ったのはアビスの進行が始まったばかりの頃、…まだ隊長と共に歩いていた時。
◆
「先に行ってくれ」
「…どうした」
「友達が来る。見られると困る」
まだかなり遠いけれど間違えることのない音。ここは渓谷になっているから今ならまだファデュイといるところは見られない。
「わかった。気をつけろよ」
「あぁ、わかってる」
隊長は踵を返して他のファデュイを連れて足早に先を行った。
足を止めて、深呼吸をする。…まるで指名手配をされている気分だ。でも、装置の所にさえ行ければ。僕は、少し役に立てるのかもしれないから。
振り返り見上げる。木々が揺れて、さらさらと音が鳴る。すき間から光が差し込んで眩しい。
「…あ、そうか」
聞こえる範囲にいるはずなのにふらふらとしている音を聞いて、目を閉じて力を抜く。
そして息を吸って、
「イファ!ここだ!」
と、声を上げた。
暫くして崖の上からカクークにぶら下がって降りてくるイファの姿。
一足先に地面に降り立ち僕のところへ駆け寄ってくる。
「相変わらず助かるわお前の耳…」
「どうしたの?何か用?」
あ、少し棘があったかな。
自分が思っている以上に気が立っているのがわかる。
その言葉を聞いてイファの目が鋭くなる。一瞬何かを言いかけたがやめたようだ。そのままため息に変わる。
「…ほれ、包帯。消毒液。あとジャーキーとか保存食。…お前も戦ってんだろ?怪我、してねぇか?」
「…うん。大丈夫。ごめん」
「はぁ…何に謝ってんだよ」
心配してくれているのに、突き放すような言葉を言ってしまったことに。…でも、それ以上は言えない。それも含めて。
「あと…これ、ばあちゃんからお前にって。」
淡い紫色の巾着袋。ほのかに力を感じる。…触れるだけで、きっと。
一瞬受け取るのを手がためらう。すると、ドンと胸を叩くようにして突き出してきた。
「ん。」
「…うん、ありがとう」
睨むようなその目から早く逃れたくて、その袋を少し開けて覗く。キラリと光る石。…そうか、その時期か。
「あと、ちゃんと聞け」
僕が早々に立ち去りたいと思っているのを見透かすように。
「…お前の行動で、誰が悲しむかをしっかり考えてから行動しろ」
イファ…
「…それは、」
ばあちゃんにも見透かされているんだろうか。この袋がそれを証明している。…受け取ってしまったからには早く行動を起こさないといけない。
トンと、額に指が置かれる。
「ばあちゃんからの伝言。あとお前の畑広すぎ。早く帰ってこいよ」
自分が険しい表情をしていることに気付いた。イファはそれを和らげるために、微笑んでくれる。心にお湯が流れるように。冷えていたことを知る。
それよりも、ばあちゃんの言葉をイファの言葉で聞いたことが初めてで、それがどんな意味を持つのかをあえて考えないようにした。
「…うん、わかった。絶対に帰るよ」
そんなイファの目を見て、笑顔で。…僕は嘘をついた。
◆
…結局の所、僕が思っていた計画は上手くいかなくて死にかけてしまったけれど。…でもそれに近しいことになるのはわかってた。
だから、こうやって無事に歩いて帰れるとは思ってなかった。
…それは、嬉しいことのはずなのにどうしてもいろんな感情がごちゃ混ぜになって上手く整理ができないでいる。
ザクザクと芝生を歩く。ただでさえ重い足が、なおさら重くなってくる。
こんなに会いたいと思っているのに、会うのが怖くて。
暗い空のもとで戦っていた時、アビスだとわかっていてもイファの姿をしているものに弓を射るのは精神的にもかなり辛くて。無事なんだろうかと何度も考えた。行く先々で、竜も人も関係なく治療しては飛び回ってるって聞いて安心して、また不安になって…
でも、
その姿がそこにあった。
僕の畑にしゃがみ込んでいる。その背中、普段白く清潔だった白衣は茶色や赤い染みに塗れていた。
ごくりと、唾が喉をなんとか通る。
そして息を吸って、吐いて。
「…ただいま、イファ」
いつも通りを装った。
「おー、遅ぇんだよ。…おかえり、オロルン」
驚く様子もなく、こちらを向く様子もなく、スコップで土をいじっている。でもそれは無意味な動きだとわかる。
「カクークは?」
普段ならイファの周りを飛び回っているのに、その姿が見えない。
「診療所で寝てるよ。疲労がたまり過ぎてる。離れると泣いちまうから帽子に入れてきた。」
淡々と言われたその言葉にゾッとする。
「土産話、あるんだろ?…聞かせろよ。」
ザクリとスコップを土に突き立てる音。
「…その前に、イファ。こっち向いて」
「…なんで?」
「いいから」
その淡いミント色の癖っ毛が薄汚れている理由を。『医者の服は清潔が命だからな』と言っていたソレがかけ離れている理由を。…その声が、掠れている理由を。
イファは暫く黙ったあと、ゆっくりと立ち上がった。一瞬バランスを崩したその姿。
「…イファ、君…痩せた…」
振り向いたその姿は、お守りを渡してくれた姿とは懸け離れていて、顔の汚れも拭き取られず、チョコ色のシャツには僕でもわかる錆の色。
いつものふわりとした笑みもなく険しい表情のまま、目も合わせようとせず、その目の下には明らかな隈が深く刻まれていた。
「…酷いかっこだってか?…そうだよな、そうだよ。」
僕が言葉に詰まっている間に、ポツリポツリとイファは話し出す。
「昨日、三頭。…一昨日は二人と一匹。その前は…もう、数えたくない」
普通に考えて、僕は畑を任せて言葉を去ったけれど。ここまでの戦争になるとはその時は思っていなくて。
「…あぁ、悪い。そう言えばあっち側…枯らしちまったんだ…」
はは、と力なく。それは笑い声とは思えなかった。
今しがたイファが数えた数は、…考えたくなくても想像はできる。戦争は、倒せば終わりではないことを痛感する。
シーグリーンとオレンジのその瞳は伏せられている。
俯いて、その目を見せてくれない。
「毎日、毎日この手で…」
見つめるその掌は震えていた。
「笑っちまうよな。その手で育ててるんだぜ?」
『こんなに殺してきたのに』とでも言うように。
でもそれは、苦痛から助ける術。最終手段。そこまでに手を尽くしたんだろう?…そう伝えた所でそうですねと聞き入れられない性格だということはもう嫌でも知っている。だからまずはとこの言葉を口にした。
「イファ、休もう。畑のことは、いいんだ」
「いい?何が?毎日毎日失って。その上お前の畑も俺の手で殺せって?お、…お前が、帰ってくるかもわからなかったのに…?」
被せるように、怒気を含んだその声。しばらくぶりに見たその瞳は光を失っていた。
「もし、…もしお前が帰ってこなくて、その上お前の居場所まで壊しちまったら、俺は…」
声も、口も震えている。
「なんでお前、いないんだよ。なんで何も言わなかった。かくれんぼか?ん?」
力なく歩み寄って、胸元を叩く。その髪からは土の匂いと血の匂いがした。
「…ごめん。イファから逃げてたわけじゃない。どちらかと言うと…みんなから逃げていた。だから秘術を使うしかなかったんだ…」
「俺には?俺にはなにか一言言おうとか、そういうのは思わなかったのか…っ?」
「…ごめん。」
痛い。何度もたたかれる胸そのものよりも、その奥が。
こんな簡単な謝罪で良い訳がないことはわかるのに、その言葉しか出てこない。
「空が、暗くなって、アビスの境門が至る所に現れてよ…飛び回って色んなところに行ったのに、伝達使にいくら聞いてもお前の姿は無いって…っ」
「ごめん…」
「おま…っお前の…姿になりやがるんだ…それを撃ち抜くたびに、死ぬんだ、心が…」
…僕と同じだった。でもイファは違った。たくさんの『ここ』にある命に関わりすぎていた。
「飯なんて喉通らなくて、でもクイクも死んじまって、俺が、診ないとって、無理やり詰め込んでは吐いて。カクークは休めって言うけど、俺が手を止めたらさらに死んでいくんだ。ただでさえいなくなっていくのに…泣いてるカクークを無理やり飛ばせて、俺は、俺は…」
それで助かった命がたくさんあるよ。
そんな言葉、慰めにもならない。
「…お前のついた嘘がうますぎたんだよ」
どんなに震えていても、イファの目からは涙は流れない。…それほどに。
「『絶対帰る』なんてよ…思ってなかっただろうが」
「…うん。」
その返答が、少なからずイファをここまで追い詰めてしまったことは明らかだった。
だから、順を追って説明した。もちろん死ぬつもりはなくて、でも死にかけるかもしれない覚悟は持っていたことも。結局は魂が乗っ取られて…本当に死ぬかもしれなかったことも。
「僕の能力で、みんなが、…イファが助かるならと思…っ」
「死にかけたんだぞ!!」
胸ぐらを掴まれて見上げられるその顔は、見たことがないくらいに歪んでいた。
「それは、僕だって死ぬつもりじゃなかった」
「結果死んだら同じだろうが!!」
イファは普段から結果を重んじる傾向がある。必死に治療をして、助からなかった場合、そこまでの過程がなかったかのようにイファは悔やむ。考える。…僕はそうは思わない。過程だって立派な力だ。
でも…この場合は、イファの言うとおりだと思った。
ここまで僕の命に怒ってくれる人は、イファ以外にはばあちゃんしかいない。
でもなんだろう。きっと、ばあちゃんに言われるよりも今僕は辛い。
「…イファ、合わせたい人がいるんだ」
僕は長く、長い沈黙を破った。
◆
道中、ほとんど会話はしなかった。
でも、イファの足取りは危なかしくて肩を貸しながら歩いていた。
少し空気がひやりとして、そこにある姿。
「この人か…」
「うん。ナタの、英雄。死んではいないけど、命と引き換えにこの国を救ってくれた。」
隊長。まるで今にも動き出しそうに、威厳のある姿で座している。
「僕は、その姿を、否定も肯定もせずにみていた。…なんならここにこの人を連れてきたのは僕だ。」
イファを安定した所に座らせて、見上げる。
「僕は、この人が死んでもいいなんて思ったことはなかった。でも、結局この人が、自分がこうなることを心の底から願っていたから、ここに連れてきた。」
淡々と、僕の中にある疑問をイファに投げかける。
「…僕のしようとしたことと、何が違う?」
魂を受け入れて、夜神の国に還す。
『これから』受け入れるのと、『すでに』受け入れていた。違いなんてそれくらいだろう。と。
「…全然違う。受け入れていたからこそ毎日苦痛にうなされてたんだろ。眠れないほどに。」
「でも…きっと、僕はこれからも、その選択が皆を助けるためになるなら同じ事を考えるよ。」
「…オロルン」
「僕はこの人を尊敬してる」
「オロルン!」
再び苛立ちが募る声。でも、これを行動に移せた隊長への思いは変わらないんだ。僕にはなせないことを、僕よりも強い意志で。
…でも、
「でも、多分その可能性が低くなった。君のせいで。」
ずっと俯いているイファの足元に跪く。覗き込めばそこには涙が流れているであろう表情。
その頬に触れる。普段は暖かいそこはひやりと冷たかった。その低い熱はやすやすと僕の心に入り込む。改めて思う。
「イファのそんな顔。もう二度と見たくないと思ったから。イファが辛いと僕も辛い。イファが幸せなら僕も幸せになれる。」
イファとカクークが笑うと、僕も知らずに笑っているんだ。
2人で怪我をした時も、イファが笑いながら『大丈夫』と言えば僕の涙は引っ込んで『大丈夫』だと思えたんだ。
こんな性格の僕が、イファの隣にいると明るくなれたからみんなと仲良くなれたんだ。
だから…イファが泣けなくても、僕が泣いてしまうんだ。
「…ごめんなさい。」
エバーグリーンの生地に、ぽつりぽつりと染みが出来る。
「イファの気持ちを、考えなかった。ごめん。ごめんなさい…っ」
イファの膝に覆いかぶさるようにして僕は泣いた。限界まで膨らんだ雨雲が落とす雨のように。
「お前が、泣くな…」
僕の耳に、ぽつりと雨が降る。
「もう、いなくなるな…」
ぽつり、ぽつりと。青い空から雨が降る。
優しく、僕の髪に触れたその手は温かくなっていた。その熱は容易く僕の心に入り込む。
「お前は、俺がいないとダメなんだから」
「そんなこと、ない…」
「嘘つけ、俺がそうなんだから…お前もそうなんだよ」
ピンと弾かれた指で額が痛む。
「ばか」
見上げたその顔は後ろの青空に似合わず涙にまみれていて、
「イファ、顔ぐちゃぐちゃだ」
あ。
「お前もだろうが」
ふと、笑ってしまったら。イファも同じ顔をした。
一緒だ。
イファは立ち上がりふらふらと隊長の足元まで歩いた。そして、立ち止まって、見上げて。
「…オロルンの事、守ってくれてありがとうございましたっ」
「…イファ」
頭を下げて。まさかそんな事するなんて思っても見なくて呆気にとられる。
そんな僕をみて満足げな表情を浮かべた。…と思ったら階段で躓いて転びそうになったので体ごと受け止めた。
「はは…かっこわる」
「イファはかっこいいよ」
「…そーかい、ありがとさん」
あ、照れてる。…よかった。久しぶりのいつものイファだ。
「…あー、久しぶりに泣けたな…疲れた」
「カクーク、大丈夫かな」
「…帰るか」
当たり前のように言ってくれるその言葉に何度救われたんだろう。
「うん」
「ふらふらする…腹減ったな…」
帰ったらまずはイファとカクークを風呂に入れて、美味しいご飯を作って三人で食べよう。そして三人で眠るんだ。
僕は一度振り返り、
「また来ます。ゆっくり休んで。…おやすみなさい。」
そう告げた。
「肩かしてくれ…歩けん…力抜けた…」
「うん」
僕は、運命には従わない。僕のしたいようにする。でもそれは粗末にしていいってことじゃなくて。
「きょうだい!きょうだい!」
「カクーク!ここまで飛んできたのか!?」
「ふらふらだ。僕に乗って」
僕を大事にしてくれる人のことを、僕の人生に組み込んで考えないといけないんだ。
「帽子、ありがとな」
「イファ…オロルン…」
「ごめんなカクーク。泣かないで」
ふわふわの温度が心に染みる。
僕には、魂よりも大切なものを心に入れられるようになったから。