鍾離は今、この六千年の間でほぼ初めての感覚に溺れ戸惑っていた。
はぁ、と、特段長距離を走ったわけでもないのに息が乱れるのは勝手に心臓が激しく脈を打つから
「これは…どうしたものか…」
片手で顔を覆い今しがた閉めたドアにもたれ掛かる。
つい先刻までタルタリヤと食事をしていた。とても楽しく。
これが厄介だった。『楽しい』のだ。ただひたすらに。
毎日でも良い。苦痛がないのだ。
―馴染みすぎ、だな。
人間は儚い。精々百年。だからこそ必死に生きて、美しい。
憧れていた。望んで神の座を降りたのだ。しかしいくら神の座を降りたとしても、寿命は続くこの身体。
それを、忘れては行けないのだ。それなのに。
そもそもとっくに気付けた筈だった。そこから切り離すなど容易い筈だった。誤算だったのは、鍾離自身がその感情の名前を知らなかった事。
知らぬ間に、もう戻れないところまで堕ちていたことに、今気付いたのだ。
「お前も、こんなに苦しかったのか…若蛇」
顔の熱が冷めず、ついには両手で覆い座り込む。月明かりだけが優しく差し込んでいた。
何千年前だったか、もうはっきりとは憶えていない。ただ、一つ、
一番心を許していた相手がいた。
若蛇龍王―お互いが隣にいて心地好いと感じられる存在だった。言葉がなくても通じ会っている。そんな存在だった。ただ一つ違ったのは、相手には確実に違う感情があった。
鍾離はそれを言葉では知っていた。しかしそれは短命で美しい人間の特権だと、感じていた。実際にこのいつ果てるともない命、心臓は跳ねることはなかった。どこか申し訳なさはあったがそればかりはどうしようもなく。一度、ふいに口付けをされた。決定的な差を突きつけられて、戸惑った。しかし若蛇は悲しそうに笑った後、何もなかったかのように時は過ぎ去った。鍾離自身もその出来事を忘れてしまうくらいに。
唯一、心臓が張り裂けそうになったのは、二度と開く事の無い封印の壁の向こうにいる姿を見た時だ。
共に過ごしてきた日々は心地好く、幸せな日々だった。
思えばその時、きっと自分も同じ感情だったのだろう。
嘲笑。己に対して。今さら何を、思い出しているのだ。
そして、それに対して後ろめたい気持ちが芽生える程には、もう。
一度知ってしまうと、一度認識してしまうと、どんなに抑え込もうとしても溢れ出てくるもので。
別に出会いはなんて事は無かったのだ。ただ、瞳の奥にある何か不安定なものに惹かれたのは確かだった。タルタリヤ自身鍾離の正体を知らず、鍾離の事を探るべく近付いてきた筈なのだ。
コロコロと変わる表情。感情的で危うさがある所。残虐的な思考もありながら家族に対しては慈愛ともとれる感情を持ち合わせている所。
『面白い』と感じたのだ。どんどんと、会うたびに。
刺激が強くて眩しかった。
多分、きっと、いつの間にかタルタリヤからではなく鍾離からの誘いが多くなってきた時期にはもうそうだったのだろう。
恐ろしい。どうすれば良いのか、わからない。あと精々80年程度で確実に別れが来ると言うのに。伝えたところでどうなると言うのだ。生産性がない。
―しかし、
この行き場の無い、吐き出せないモノはどうすれば良い
不安と高揚で押し潰されそうな心臓は、どう扱えば良い
次に会った時、どんな顔をすれば良い
会えるのか会ってもいいのか
この六千年培った知識なんて意味を成さないのが滑稽だ。
どこか、心の奥にはスッキリしている部分があって
それを素直にさらけ出して良いのであれば
―あぁ、会いたいな。
その一言だった。
「…会いたい」
あんなに奥そこにあった筈なのに、見付けただけで溢れてしまう。
「すき、というものなんだ…これは、どうしようもない程に。公子、殿が。」
普段の鍾離からは考えられないような、拙い言葉の羅列。
「失いたくない…もう」
誰にも見せられない弱い姿。
「それがどうしようもない事なのならば、許されるならば、隣にいたい」
…ゆっくりと、自分なりの答えには近付いていて。
それは、若蛇と同じ答え。
「…思い立ったが吉日、とも言うな。」
気持ちの切り替えは驚く程に早く。
可能性があるならば一刻一秒でも自分の気持ちを受け止めていて欲しいと。
すっと立ち上がりドアノブに手をかけたその裏側に、真っ赤になったその相手が立ちすくんでいるとは知らぬままに。